姉の婚約者を寝取ったと濡れ衣を着せられて毒妹認定されました〜でも押し付けられた婚約者が優しくて溺愛してくれます〜
エヴァンズ家の広大な中庭で、子爵令嬢のドロシー・エヴァンズは大あくびをした。
春の陽気には勝てない。猛烈に睡魔が襲ってくる。このまま地面に倒れて失神したように寝てしまいたい。
(どうして芝の絨毯で寝てはいけないだろう? ここはうちの庭だし、私は16歳で自由なのだ)
若さは特権だ。少しくらい子供っぽいことをしてもよい。ドロシーは、純白のブラウスに草の汁がつくのもスカートが乱れてフリルが覗くのも気にせず、ごろりと横になった。
眠った。
ふと目が覚めた。
隣に誰かが寝ていた。貴族男性の服ーー臙脂色のコートを着ている。
「……どなた?」
もっと驚いてもいいはずである。しかしドロシーは、いつも眠りが深くて寝起きの悪い質であった。つまり寝ぼけている。
「起こしちゃった? ごめん」
気弱そうに謝った顔に、ぼけた焦点がようやく合った。
「伯爵……様?」
その茶色いチャーミングな顎ひげは紛れもなく、姉のアガサの婚約者、27歳のカーター・スペンサー伯爵だった。
「あんまり気持ち良さそうに眠っていたものだから、つい」
ここまでの伯爵は責められない。無垢な少女のスヤスヤ眠る顔ほど、人の心を吸引するものはないから。
が、次の行動は悪かった。
「可愛さに、見惚れてしまって」
思わず言っていた。本音が出たのだ。
ドロシーは真面目な顔をして、カーターの優しげな顔を見つめた。
これは重大な失言である。罪と呼んでもよい。
カーター・スペンサー伯爵は、気位高き子爵令嬢の婚約者だ。
戯れにも、他の女性に可愛いなどと言ってはいけない。
ましてや実の妹である。
その言葉は破滅につながる。
ドロシーは、顔が真っ赤に火照るのを感じた。
まだ若すぎて、「冗談ばっかり」などと笑ってやり過ごす巧みさがなかった。
微妙な時間が流れる。
やがてーー
「カーター?」
それは時間の問題だった。
一緒に中庭を散歩していた婚約者ーードロシーの姉の21歳のアガサが、お手洗いから戻ってきたのである。
アガサの眼は、瞬時にこの場面を見、微妙な空気の正体を読み取った。
顔を赤くした妹。
ブラウスには草の染みがつき、スカートの裾は捲れている。
婚約者もまた、ズボンとコートに芝をつけ、明らかに気まずそうな表情をしている。
「いつから」
アガサの声は嗄れていた。
「あなたたちの関係は、いつから?」
「関係って何だ?」
伯爵の返答は速すぎた。だから痛いところを突かれたように見えた。
「下衆の勘繰りはよせ。妹はまだ16だろ? 関係なんてするはずがない」
アガサの額にみるみる青筋が立った。
「そうね。16歳は魅力だわ。どうせ二十歳を過ぎた私は、もうお婆ちゃんですよ!」
アガサから理性は飛び去っている。
もはや婚約者を赦すことはできない。
破滅が確定した。
「あなたたち、寝ていたのね!」
それは真実ではない。アガサの言うような意味で、ドロシーとカーターが寝たことはなかった。
が、ドロシーは男女のことをよく知らない。正真正銘のお嬢様である。だから、お行儀悪く外で昼寝していたことを叱られたと思い、
「ごめんなさい、お姉様」
と答えていた。
ハッとするカーター。しかしもう遅い。
女性がそれを認めてしまったら、男性が何を言っても嘘になる。カーターは血の気が引いた。
アガサは恐ろしい形相になった。
心が憎しみ一色に染まったのである。
「馬鹿にしやがって」
その声は、まるで男だった。
「あんたたちは、私の人生を壊した。私は傷物になった。あんたたちに償うことはできない。割れたグラスは元に戻らないのよっ!!」
ドロシーは首をすくめた。
カーターはぶるぶる震えた。迫力に呑まれて、言葉が出てこないのである。
実はこのとき、カーター・スペンサー伯爵にはチャンスがあった。
とっさにアガサに土下座して、
「僕が愛しているのは君だけだ! 君だけを、誓って一生愛し続ける!」
と言えばよかった。
アガサは、傷つけられて感情的に怒っていたのだから、情に訴えれば何とかなる可能性はあった。
ところがカーターは、
(僕は正直、ドロシーを可愛いと思っている。それを見抜いて、アガサはあんなに怒っているのだ)
と、余計なことを考えて、
「すまない」
という謝り方をした。これでは罪を認めたも同然である。
こうして、ドロシーが姉の婚約者を寝取ったことが「事実」になった。
アガサはもう、感情だけで怒ってはいなかった。
理性的に、復讐に生きる決意をしていた。
「覚悟しなさい。いいこと。私は一生かけて、あなたたちを苛めて苛めて苛め抜いてやるから!」
この日、アラン王国の歴史に名を残す悪役令嬢が誕生した。
◆◆◆◆◆
ドロシーはカーターと結婚した。
恋愛感情はない。
アガサに命令されたのである。
「私から寝取ったんですもの。私と結ばれる前に結ばれたんですもの。結婚するのが筋でしょう?」
人生を台無しにされたアガサの意向は、何でも受け入れられた。
エヴァンズ子爵家、スペンサー伯爵家、それぞれの言い分や希望はあったが、この件に関してはすべてアガサが決めた。
「私は婚約破棄された被害者よ。スペンサー邸に乗り込んで、自殺してやらなかったことを感謝しなさい!」
カーターの両親でさえ震え上がった。
(この女に逆らったら、何をされるかわからない)
アガサは恐怖で両家を支配した。
両家の陰の支配者になったのである。
「うちに住みなさいな」
新婚のドロシーとカーターに、アガサは言った。
「あなたはたった1人の可愛い妹だし、あんたは私が結婚まで考えた相手ですもの。離れて暮らすなんて寂しいわ」
むろんこれは命令だ。
カーターは入婿になり、エヴァンズ邸に住んだ。
「部屋のドアは開けときなさい」
アガサが「命令」した。
「かつて愛した男と、可愛い妹をいつも見ていたいわ。もちろん寝るときもドアは開けとくのよ」
ドロシーとカーターに、普通の新婚生活は許されなかった。
が、カーターはともかく、ドロシーにはそのほうがよかった。
16歳で、男女のことを何も知らないドロシーにとって、27歳のカーターはおじさんである。
新婚生活など、どうやって送っていいかわからない。
ただ、以前から使っていた自分の部屋に、もう1人おじさんが住むことになり、
(何だか窮屈だわ)
と気詰まりな思いをしていた。
「ドロシー」
沈黙に耐え切れずに声をかけるのは、だいたいカーターのほうだ。
「ドアの近くは寒くないかい? 風が通るから」
「まあ、優しいこと!」
ドロシーが答えるより先に、ドアの外に椅子を置いて座っているアガサが金切り声で叫んだ。
「うっとりするわあ。ねえ、新婚さん、もっと愛の言葉を囁いてよ!」
アガサは食事も、ドロシーとカーターの部屋の前で摂った。2人を苛める機会を、1秒たりとも失いたくないのだ。
「ねえ、私からどんなふうに婚約者を寝取ったの? 再現して頂戴な」
2人がモジモジしていると、
「服を脱ぎなさい! 私に見られて何か不都合があるの?」
ドロシーが泣いても、アガサは赦さなかった。
「アガサ、いくらなんでもそれはーー」
「黙りなさい、人殺し」
ぴしゃりとアガサは言う。
「あんたは私の魂を殺したのよ。由緒ある子爵家に泥を塗って、か弱い女性を死の寸前まで追いやって、いけしゃあしゃあとよく生きていられるわね。中世なら断頭台送りよ!」
むろん、アガサの言ってるのはデタラメである。しかし口答えのできない関係性にあっては、常に彼女の側の発言が正しくなる。
「人殺し! 恥を知れ!!」
24時間、休むことなく憎悪を浴びせられた2人は、やがて痩せ衰えた。
その頃には、2人とも、アガサの前で裸になるのを気にしなくなった。
とはいえ、まともな夫婦のように結ばれることはなかった。
さすがのアガサも、それを見るのは苦しすぎる。夜が更けると、ドロシーには床で犬のように寝ることを命じるのである。
◆◆◆◆◆
しかしながら。
どれほど異様な新婚生活でも、夫婦は夫婦である。
ドロシーにとって、次第にカーターはおじさんではなく、自分の夫になった。
「カーターさん」
と呼んでいたのが、ある日、
「ねえ」
になったのだ。
「私、熱があるみたい。ベッドで寝ていていいかしら?」
「ねえ、ですって?」
アガサがドアの外で椅子を蹴って立った。
「まあ、当たり前の夫婦者みたいに! 姉から婚約者を寝取った毒妹のくせに! 幸せな日常が許されるとでも思っているの!」
ドロシーはぼんやりと姉を見た。
どれほど罵られても、もはや麻痺していることである。寝取った毒妹というレッテルが、以前のようにグサリと刺さることはなかった。
「……幸せな日常」
姉の放った言葉が、妙に胸に沁みた。
(夫をねえと呼ぶのは幸せなことなのね。私は馬鹿だから、そんなことも知らなかった)
ドロシーはもう一度、ねえと呼んだ。
何だいと、カーターが応える。
「やめなさい! 不潔!」
アガサが飛び込んできて、鏡台の鏡を叩き割った。
「恥を知れ! 恥を知れ!」
カーターはアガサを無視してドロシーを見た。
そこに、この世に2人といないような純白無垢の若妻がいた。
「僕は幸せだ」
ほろりと言葉が出た。
「こんな素敵な女性を妻にして、これ以上何を望むことがあろう?」
アガサは執事に命じて、妹夫婦の部屋の家具をすべてバラバラに壊させた。
がらんとした部屋で、2人はいつまでも見つめ合った。
「ドロシー」
「なあに?」
「ありがとう。この世に生まれてきてくれて」
「わたしこそ」
ドロシーは夫に頭を下げる。
「昔、優しい旦那様が欲しいって、星にお願いしたことがあったの。それが叶ったのね」
アガサは侍女に命じて、ドロシーとカーターを丸坊主にした。
洗濯を許されない汚れた服を着て、やはり2人は見つめ合った。
「ドロシー。君を好きでたまらない。すべてを捧げ尽くしたい」
「幸せよ。ねえ、あなた」
アガサは吠えた。
それは、この世に独りぼっちの、哀しい獣の咆哮だった。
◆◆◆◆◆
「ねえ」
「何だい?」
「幸せね」
「幸せさ」
「この幸せ、誰のお陰だと思う?」
「君さ」
「違うわ。アガサお姉様のお陰よ」
カーターは黙ってドアのほうを見た。
アガサの耳に、会話は入っていない。
2人の幸せの証拠は、あの吠えた日以来、脳が認識しなくなったのだ。
「アガサのお陰ね。なるほど。僕たちに結婚を命じたのは彼女だ。それは間違いない」
「だったら、お姉様も幸せになるべきじゃない?」
もう一度カーターは、ドアのほうを見る。
アガサの眼は、まるで透明なガラス玉のよう。ドロシーとカーターの仲睦まじい様子は、そこに映っていない。
「僕もアガサには、幸せになってもらいたいと思うよ」
愛に満ち足りたカーターは、心から言った。
「本当にそう思う」
その夜、2人はベッドで抱き合った。
「ねえ」
「何だい」
「私、結ばれるって意味がわからない」
「知りたい?」
「いつかは」
「いつかって、いつ?」
「お姉様が誰かと結ばれてから」
カーターは本気になった。
「アガサ」
翌日、ドアの外に向かって訊いてみた。
「君も、結婚したらどう?」
「人殺し」
アガサは機械人形のように繰り返した。
「恥を知れ。人殺し。恥を知れ」
ドロシーも訊いてみた。
「ねえ、お姉様の幸せって何?」
「毒妹。寝取りやがって。馬鹿にしやがって」
ドロシーとカーターは、毎日朝から晩まで、アガサの幸せについて話し合った。
「アガサ本人が変わらないと、無理だと思う」
「私たちで、お姉様を変えることはできない?」
難しかった。しかし、なんとかしたいと思った。
ある日2人は、アガサがぶつぶつと独り言を言ってることに気づいた。
カーターが耳を澄ませて、おや、と言った。
「どうしたの、あなた」
「アガサが物語をしゃべってる」
「物語?」
「侍女に言って、紙とペンを持ってこさせよう。書き取ってみる」
アガサの呟きを、カーターは時間をかけて書き取っていった。
それを横からドロシーが覗き込む。
「何だかこれ、小説みたいじゃない?」
「確かに。若い夫婦が主人公の、生き生きとした小説だ」
アガサが語るのは、幸せな若い2人の、ごく普通の日常だった。
だがそれが、ひどく面白い。
なんでもない日常に、本当の幸せがあることを、しみじみと教えてくれる素敵なお話だった。
「お姉様は、こういう結婚生活を思い描いていたのね」
「そうだな。ほら、僕たちの生活を全部見て、会話も全部聞いていたろう? およそ丸1年間、24時間ずっと」
「そうしたら、お姉様の中で、小説が出来上っていったのね」
「アガサには、小説家の才能が潜んでいたのに違いない」
「ねえ。お姉様に紙とペンを渡してみて」
カーターがそうすると、
「人殺し。恥を知れ」
と言いながら、何かを書き始めた。
すると透明なガラスのようだった眼に、生気が宿った。
彼女は一心不乱に書いた。
物語が溢れ出したのである。
数日後、小説が完成した。
「読んでいい?」
アガサは妹に頷いた。
それを読んだドロシーは泣いた。
「僕も、いいかな?」
アガサは元婚約者に頷いた。
カーターも泣いた。
「すごく上手だ。すごく泣ける……」
アガサの顔は、誇らしげに輝いている。
「出版社に送ったら? 本にしてくれるかもよ!」
妹のほうがはしゃいでいた。
姉は黙ってそれを見ていた。
原稿を送った1週間後に、出版社から返事があった。
『出版したし。来社請う』
ドロシーとカーターは躍り上がって喜んだ。
本は売れた。
2作目も売れた。
素性を隠して覆面作家になったアガサは、ベストセラーを連発し、寝る間もないほど忙しくなった。
ドロシーは、人気作家の姉の身の回りの世話をした。
カーターは、アガサの小説のために取材や資料集めをした。
やがて出版社の社長が、信じられない報告を持ってエヴァンズ邸にやってきた。
「出版社宛てのファンレターの中に、王太子殿下の私信がありました。なんと殿下は、あなたの大ファンだそうで、どうしてもお会いしたいと」
「殿下が……」
アガサはガクガクと震えた。
「私などが、とてもーー」
「ファンレターをご覧なさい」
社長は興奮に鼻息を荒くした。
「あのような小説を書ける内面の女性こそ、私の理想です。どうか王宮に来ていただきたいとの仰せです。断わる理由がありますか?」
カーターはドロシーを、肘で突ついた。
「大変なことになったな。アガサはプリンセスになるかもしれないぞ」
「なるわよ」
ドロシーは自信満々だった。
「私を幸せにしてくれたんですもの。それに、すでにアラン王国の歴史に残るような国民作家よ。プリンセスにくらいなってもいいわ」
「じゃあそれそろ僕たちも、結ばれる?」
「ううん。お姉様が先」
若い夫婦がころころ笑っていると、アガサは眼を細めて、聞こえないほど小さな声で「ありがとう」と言った。