18話 椋梨 巴 の 疑念
町を走る何かが一つ。
小さな存在はひとりぼっちで、とても脆い。
けれど、それは懸命に走った。
探しものを見つけるために。
変わってしまった世界の中で、それはまだ残っていた。
残りものは走る。
視えないものたちを避けて、変われないものたちを踏み越えて。
彼はきっと視てくれる。
だって彼はあの日見つけられたんだから。 を、一人泣いてた ちゃんを助けたヒーローなんだ。
視えない何かを踏んでしまった。そのまま転んだ。
…痛い。
足跡が一つだけ赤くなり、ポタタと落ちたものが跡を増やした。
走ろうにも上手くいかない。
痛くて辛い。
まだ彼すらも見つけられていないのに。
なけば気づいてくれるかな、ボクの声なら届くかな。
ボクはありったけの声を轟かせた。
ー
もうすぐ冬だな。
ダウン着ないと寒いわ。
街はみんなクリスマスムード。サンタやトナカイに、ツリーが壁や看板、扉や電子看板の広告にもいる。
うちの店もなんかやるって言ってたなぁ。
倉庫にトナカイとサンタの着ぐるみがあったのを見つけた。店長あの歳でミニスカサンタやんのかな…。
全く仲の良い夫婦で羨ましいよ。
あんたの年でも二人は元気で仲良くやってるか?
*
「閉店する!?冗談ですよね?」
「伝わっていたんじゃないのかい。表に張り紙も貼ってあるよ」
紅陽さんはコーヒー豆の袋を集めながら、なんとも落ち着いた様子で重大なことを言ってきた。
これは作業の片手間にする話どころではない。俺は持っていたコーヒー豆の袋を置き、紅陽さんの手を止めさせてでもこちらを向いてもらった。
「本当なんですか・・・?」
「一人じゃできないことも増えたからねぇ、歳には敵わないってことだろうね」
「一人って・・・店長はどうしているんですか?」
今日一番聞きたかったこと。店長の不在。紅陽さんはさっきから一人で働くような動きをしている。表に立って受け付けしたり、裏に入って梱包したり、料理・品出し・会計・裏作業、これらは彼の手が加わって成されている。牡丹と俺は本当に手伝いでしかない。
お客さんが少ないから回っているようにも思えるが、いつもなら表関連は店長が、裏関連は紅陽さんが、その両方のアシストをバイトがという構成なのだ。
なぜ彼女はここにいない?
「店長は?・・・もしかして楓さんのことを言っているのかい?」
気づいてくれた。椋路地楓、それが店長の名前。彼ら夫婦は秋の名前で覚えやすい。間違うはずない。
「はい、あの人は何してるんです?さぼるような人じゃないでしょ」
「そうか・・・楓さんは今は働いていないよ」
「は?あの人が辞めるなんてありえないでしょ」
驚きのあまり、口調が荒くなった。失礼な態度に口を覆うと、紅陽さんは別のことの方が気になったらしい。尋ねられた言葉が少しだけ辛かった。
「随分と、楓さんのこと知っているんだね」
「店長だけじゃないんです!あの人だけじゃ・・・」
「?」
こんなこと言っても紅陽さんには伝わらない。
分かってはいるけど、覚えられていないというのが苦痛でつい当たるような口調になってしまう。聞かされていなかったことも増え、苛立ちが抑えられない。
閉店するということも、店長が店に来ていないことも、素直に受け入れられなかった。
紅陽さんはどちらも受け入れたとでもいうのだろうか。信じられない。
「どうして、あの人は…楓さんは来ないんですか?辞めるのも変ですけど、閉店するなんて言えば真っ先に抗議するでしょう?あの人が認めるわけない。紅陽さんもそれを知っているでしょう!」
「ああ楓さんらしい」
「だったら!」
被せるような紅陽さんの次の言葉に、頭が真っ白になった。
「楓さんはここに来られないんだ」
「は?」
「その様子だと知らないようだね。楓さんは入院しているんだ、一ヶ月前から」
「はあ!?」
一ヶ月前から?そんなはずはない、俺は五日前にあっている……はず……。あれ、なんか、うまく思い出せない…。頭が、クラクラする……。
視界の端で紅陽さんの慌てる顔が見えた。
「大丈夫かい!」
「……すみませ、なんか急に立ちくらみが」
「とりあえず座りなさい。水を持ってこよう」
「だ、大丈夫です。落ち着いて、きてるんで」
「…君は相当楓さんのことが気に掛かっていたんだね。私も同じだ。最初聞かされた時、同等以上の衝撃を受けた」
その言い方は、まるで助かる見込みがないほどの重病だと言っているように感じられた。一ヶ月前から…簡単には信じられないのに、心の底から否定できるほど自分を信用できない。
俺は一体、いつから、どれだけのことを忘れてしまっているんだ。本当に覚えていることは、正しいのか。
都合のいいように、記憶を書き換えてしまっているんじゃないのか………。
頭に強い衝撃のような痛みが襲ってきた。
突然頭を抱え始めた俺を見て紅陽さんはまた動揺する。しかしそれに構っていられるほどの余裕が全くない。割れそうなほどの頭痛に俺は蹲った。
「っっ…………!!」
『モミジ…綺麗だね』
痛みに襲われる中、女のような声がした。
『来年は…卒業した後はもっと綺麗なんだろうな』
『今年と変わらないだろ』
男の声も加わる。聞き馴染みのある声。俺の声だった。
『私たちは来年変わってるのかな』
『それは…分からない。それぞれ頑張ってるだろ』
『その次の年は…二十歳だね。成人 は行 のかな』
『さあどうかな』
『な で?私は行くよ。 酒一緒に飲 うよ。胡川くんはまだ飲めな かも けど、あーちゃん達とたくさん話が たいなぁ。その日はあーちゃんに泊まっ もらって ちゃんと三人で寝る も楽しそう』
『覚えとくの大変そうだな』
『そうだ。今日あった 忘れないように書いておかなきゃ』
『豆だな。毎日書いてんのか?』
『うん。その日あったこと 忘れないようにね』
女の声が所々聞こえなかった。なぜかそのことがすごく気になった。
俺はこの会話を覚えていない。誰とどこで交わしたのか。
「大丈夫かい巴くん。しっかりしなさい」
二人の会話は突然終わった。代わりに紅陽さんの心配する声が聞こえ、我に返る。
「紅陽さん」
「君は何か持病を抱えていたりしないだろうか。お節介かもしれんが心配だよ」
「えっと…そんなことより、この町で目立つ大きな木って何処にあるか知ってます?」
「木?山沿いなら大小さまざまあると思うけども」
「じゃあ…小さな、二人が座れるくらいの小さなベンチの前に立っている木って分かりますか?」
さっきの二人の声。女性と恐らく高校3年の時の俺の声。その声は俺の脳内に或るイメージを湧かせた。
二人が腰掛けるベンチは紅葉した大木を見るためだけに置かれている。赤と黄色、橙色に染まった大木を二人して眺めている。俺はベンチに腰掛けて隣を見たり、木を見たりした。この主観的なイメージは、もしかしたら記憶なのかもしれない。
隣に腰掛ける女性、女の子は制服を着ている。同じ学校なのかは分からない…顔はイメージ出来ておらず、ぼかされていた。たくさんの絵の具をぐちゃぐちゃにして最後に白と黒を混ぜたような色が顔を隠していた。
俺はその女の子の推測を立てる。可能性が高いのが一人。彼女は日音なのではないだろうか。
幼馴染の日音は同じ高校に通っていたらしいし、時折見えた自分の服装の色合いが似ていて、十中八九そうだろう。
なぜ唐突に思い出せそうだったのか、それに関して全くわからないが記憶を思い出せるヒントがあるような気がした。
一ヶ月前、それよりもっと前にも忘れていることがある。それを取り戻せたらなんとかなるかもしれないと思った。
この店がなくなるのは嫌だった。
「なぜ?」
嫌なのは当然だろう。仕事がなくなれば無職だし…
「違う、お前は居場所がなくなるのが怖いんだ」
俺の声で喋る何かから耳を背け、紅陽さんを見やる。まるでそれまで時間が止まっていたかのように、紅陽さんは突然口を動かした。
「小さなベンチなら覚えがあるよ。この町で少しだけ有名なやつならね」
「どこですか!?」
「この店の裏にあるやつだよ」
思っていたよりも近場にヒントはあった。
裏口を出たすぐ近くの所に広場があり、それはポツンとあった。
風化しているからか所々木が割れていたり、ささくれ立っているが想像したものに近い姿だった。周りに何も置かず目立つように設置されていることが、記憶の裏付けのようにも感じた。
ということはベンチの正面に大木があるはずなのだが…。
「ただの広場ですね」
「昔は公園でもあったんだ。遊具は撤去されて殆ど更地になってしまった。…そうだ、昔はここにカエデの大木があった気がするよ。それも撤去されたんだろうね」
「どうして」
「時代の流れだろうね。街開発は年々増え続けていく。象徴としての木よりも、便利な施設に変わった方がいいのかな」
「そんな…」
紅陽さんは現実的なことを言った。それがなんでか悲しくて、でも否定の言葉は纏まらなくて、ちっぽけな自分の意見は無駄のように思えて考えるのをやめた。
紅陽さんがベンチを見つめて嬉しそうに語る。
「懐かしいな、昔楓さんとここでよく待ち合わせをしたんだ。学校終わりに二人で休憩したこともあったな」
「…僕も似たような思い出が有ったみたいなんです。でもそれがよく思い出せなくて…」
他人事のような言い方になってしまっていたのだが、紅陽さんがそこを指摘してくることはなく、楽しそうに店名のことを語ってくれた。
「そっか。ちなみに知ってるかい?うちの店の名前の理由、楓さんがここにあったカエデの木とベンチをモチーフにしたんだ。モミジを眺める休息所ってね。懐かしい記憶がどんどん溢れてくる。はは、年甲斐なくはしゃいでしまっているよ」
「それは…よかったです」
俺の方は全然思い出せないまま。喉まで出かかっているような気持ち悪さはあるけども何かがつっかえさせている。
もう少しなのに。ベンチも見つけたのに…。
「ベンチ……」
何かに気づかされた。俺は後ろのベンチを改めて見る。
ボロボロになり、時間を感じさせるその姿は疑問しかなかった。
「なんでこれだけ残ってるんだ」
「え?…そうだね。座るのも危なそうだしこっちの方が撤去されそうだなぁ」
「だったら」
俺は再び振り返り、広場の中央を見据えた。何も見当たらない。いや見えなくなってるのではないか。
手を前に差し出しゆっくり前進する。紅陽さんは不思議そうな目を向け俺を見ている。五歩進んでもなんの感触がない。勘違いか。でも足を止めない。
六、七、八…
指先に微かな感触があった。ざらざらしているような、凸凹しているような。
俺は手のひらでそれを触った。やっぱり凸凹でざらざらしている。
「あった」
「どうしたんだい」
「ありましたよ。その木が」
「は?」
俺が木の存在を実感した直後、強い風が吹いた。冷たい風は俺たちを飛ばす勢いで襲ってくるので目を瞑ってしまう。
ザワザワ…ザワザワ…
上の方で枝が震える音がした。俺が頭上を見ると紅陽さんも続いた。今は見えないけど、枝が揺れる音が止んでいない。見つけたんだ。
しかし、それまでだった。見えないのを見つけただけで何も思い出せない。紅陽さんが不思議そうに聞いてきた。
「巴くん、そこに何かがあるのかい?この音も見えない何かが出しているのかな」
「…そうです。撤去されてたんじゃなく、モミジの木はここにまだ立っています。理由は分からないけど、今は見えないんです」
「不思議なこともあるもんだね。楓さんだったら喜んでそうだ」
そう言う紅陽さんの顔はどこか嬉しげだった。思い出が蘇った後ということも関係しているのだろうが、どことなく楓さんに似た面影を感じる。不思議なことに流されず受け入れてしまうところも似たもの夫婦だった。
その少しだけ思い出せたことが俺の中できっかけとなり、聞く勇気に変わった。
「店長はどんな病気に罹ったんですか?」
口が重い質問だった。それが一番の近道だったのにまるで逃げるように遠回りをした。日音を思い出すことで、あわよくば店長のことも思い出せると打算した。
結果は違った。どちらも大して思い出せていない。ボロベンチと透明の木は俺になんの変化を齎さなかった。
結局自分で行動するしかなかったのだ。
紅陽さんは苦笑いで答える。
「子宮体がん。痛みを訴え、病院に運ばれてから分かったんだ。一応発見は早期だったらしいけど、入院を余儀なくされた。治る見込みはあるらしいけど、年もあるからね」
「がんですか…」
怖いことを聞かされたと思った。誰もが罹りえて最も恐ろしい病気、それが店長の体を蝕んでいると言うのはショックだった。
「本当に治るんですか?」
「医学は昔よりも進歩しているそうだよ。見舞いに行ったときはベッドの上でも入院前と変わらないあの人の姿だった。痩せ我慢なのかもしれないけど、そこが彼女の強さでもあるんだ」
「…店長なら笑って誤魔化しそうですね」
「実際笑っていたよ。必ず二言目には平気だと言うんだ。私はそれを馬鹿正直に信じることにしたんだ。そうでなければ耐えられない」
「すいませ…」
「謝られることは…泣かないで」
「違っ違うんです」
紅陽さんの一瞬見せた辛そうな顔が決め手だった。止めどなく溢れる涙は自制が効かず、拭っても拭っても溢れてしまう。碌に思い出せてもいないのに白々しい。
自分がこんなにも浅ましいとは思ってもいなかった。
「もう中に入ろうか。寒くなってきただろう」
「すいません」
「楓さんの為に泣いてくれたのだろう。私も彼女もそれが嬉しいよ」
「違うんです」、その言葉が出なかった。どこまでも俺は自己満足でしかない。
やっと涙が止まり、ゴシゴシと袖で払う。
紅陽さんの背中を追いかける。後ろ目で見たベンチはやっぱり孤独に見えた。
裏口に戻ると倉庫部屋に牡丹がいた。
「お爺…マスター、どこ行ってたの」
「牡丹、他にお客さんは来られたかい?」
「来ないけど…アイツらほっといていいの?」
「牡丹と鈴ちゃんなら大丈夫かと思ってね。遅くなったがお昼にしよう。休憩しておいで」
「ほぼ休憩みたいなものだったんだけど…」
店内に戻ろうとした牡丹と目があった。
「泣いたの?」
「関係ないだろ」
「ふん」
牡丹は店内の方には戻らず、どこかに消えた。戻ってきたら包みを持っていて、「投げるよ」の声と同時にそれを投げつけられた。
「なんだよ」
「冷やせば?友達に見られるの恥ずかしいんでしょ」
「お節介かよ」
「あんた、可愛げないよね。モテなそう」
「人に失礼なお前は友達いなさそう」
「ざんねーん、友達いるし」
牡丹は嬉しそうな顔で店内に戻った。手の中の氷嚢がチャプチャプと揺れる。目尻に当てると冷たかった。
紅陽さんからはコーヒーを渡されて、優しさが身に沁みた。熱くなった目頭を冷やすのに意外と役立った。
氷嚢がただの水袋になった後、店内に戻った。
カウンターで話す古草さんたちの輪の中にエビも混ざって話をしていた。
「お、やっと戻ってきたか。仕事終わったんなら何か食わねえ?」
とエビが言うのでそれを受けようと思ったのだが、俺たちが座っていた方の席に視線を向け言葉が詰まる。
グラスがあるのは不自然じゃないが、皿が二、三枚積み重なっている。
「なあエビ、あれはなんだ?」
「前菜みたいなもんだ」
「野菜皿じゃないんだが」
「じゃあ…前飯?だ」
「…すみません紅陽さん」
俺が気づかないうちに注文を一人で受け、捌く現店主の姿が目に浮かんだ。下準備を済ませているとはいえ、俺ここにきてから仕事をしていない気がする。
止め役である花星さんは機能していなかった。というか、姿がない。トイレに行っている間に注文したらしかった。
エビに呆れる俺を見て牡丹が鼻を鳴らす。
「随分と時間かかったわね。食器洗いはあんたの仕事よ」
「…了解。仕事を残しておいてくれてありがとう」
「どういたしまして」
牡丹の笑顔は癪に障るが、仕事を残してくれたのはよかった。サッと終わらせて紅陽さんの手伝いに行こう。
エビが席に戻ってきて抗議の目を向ける。
「昼飯食おうぜぇ。巴も腹減ってるだろ」
「それほどじゃない。それよりも俺は仕事をしたい気分なんだ」
「昼休憩は大事だぜ?働くもの食わぬべからずってな」
「都合のいい諺だなぁ」
「腹が減ってたら仕事はできないだろ」
「じゃあ、腹を満たしたお前が代わりに働いてくれるのか?」
「え、嫌だ」
「…なんだよそれ」
あまりの即答だった。まあ別に代わってもらう気はさらさら無いけども、この後こいつは何に働くと言うのだろう。
なんだか笑えてきた。
昔は頼れそうなやつだったのに、今じゃ腹をすかした子どもみたいな大人に…。
今ぼんやりエビについて思い出せそうだった。さっきの木のことが影響させてでもいるのだろうか。何かきっかけがあれば思い出せそうだ。
「エビ!」
「はい!な、なに?」
「でっかいモミジの木って知ってるか?」
俺は思い切ってさっきの透明の木のことを尋ねた。もしかしたらこいつとも一緒に行ったことがあるかもしれないから。
「どこのモミジ?でっかいってだけじゃ分かんないんだけど」
「二人しか座れなさそうな小さなベンチの前にあるやつだ。この町で少し有名なやつで…」
「へー、知らなかった。来年は見にいくか?」
「知らなか…た。…そうか」
エビは知らないらしい。
俺の中の興奮は冷めていき、裏切られた気分になる。
そして疑念のようなものが沸いてしまった。
こいつが忘れてしまっている可能性。
ここ数日、俺が出会った人たち皆何かを忘れていたり、逆に覚えていたりと変なことが多い。
全てを疑うのは埒が明かないが、俺みたいに覚えていると錯覚して忘れていることに気づかないといったことがないとも言い切れない。
自分と他人の記憶をどこまで信用するのか、俺は迷っている。
「なあエビ、…俺は本当にお前の友達だったのか?自分の記憶を信じる根拠はなんだ?」
俺は今更になってそこが疑問になった。
なんでこいつは俺を友達と言うんだろう?
思い出せない俺なんかを。
「ど、どうした。そんなに仕事代わってほしかったのか?」
「そうじゃない。さっき、自分の記憶を信じられなくなる事があったんだ。お前の方でも間違いのまま覚えてるなんてことが、考えられたりはしないか?」
「間違いのまま覚えてる?何を」
「"友達の"椋梨巴とか…」
エビは驚いた顔で俺を見ている。考えつかなかったからか、或いはバレたと焦っているからなのか。長い沈黙が居た堪れず、俺は「仕事に戻る」と言ってその場から逃げようとした。
エビの笑う声で俺は立ち止まる。
「あはははは、マジかよ」
「な、なにがだ」
「ふぅ…思い出したわ、お前のこと」
「…そ、それは…やっぱり…」
友達じゃなかった、別人だった、勘違いだった、エビの声を勝手に想像し脳内で繰り返させる。胸の奥をがなり立つほどに脈は打ち続け、痛みを生んだ。体は強張り、背中に冷や汗が走る。
「俺は……」
「ビビリ。んでもって卑屈。優柔不断で、流され気質」
「…なに?」
「人のことを忘れて…思い出そうとして、自信がないから否定から入って、それを後悔するバカだよお前は」
「はあ?」
エビは頼んでいたコーヒーのおかわりに口を付け、美味そうに啜った。その落ち着き払った態度に騙されそうだが、今こいつは人のことを散々罵倒したのだ。遅れて言葉を理解した頭に怒りが湧いてくる。
俺はエビの胸ぐらを掴み上げ、席を立たせようとする。
「なんでいきなり悪口になるんだよ」
「本当のことを言っただけだろ、自覚してるから怒ってんのか?」
「違う!喧嘩売られたから買おうとしてるだけだ」
「売ってない売ってない。勘違いもプラスか?」
「ふざけんなよ!」
俺はエビの襟首を投げるように突き飛ばす。抵抗しないエビは座席のソファに背中をぶつけ、少しだけ咳き込んだ。「いってぇな」と文句を言うが怒った様子は見せない。益々こいつの事が分からなくなり、苛立ちが募る。
口が勝手に動いて、思っていることも言いたくないことも全部吐き出してしまった。
「俺は、お前のことがはっきり思い出せないんだよ!お前だけじゃなくて、花星さんも、日音のことも!そのくせこの店のことや、店長についての記憶は都合のいいことしか覚えてないんだ!嫌なことだけ忘れてるかもしれないって考えたら、お前たちの、ことも…怖いんだよ!!」
涙は流し切ったと思ったのに、またすぐ出てきやがった。こんな大声で泣いていたら明ちゃん達にも聞こえてしまっているだろう。見てほしくないこんな姿。エビにだって弱音を吐くつもりは…。
「怖い…か。それってさ、思い出すことが怖いんじゃなくて、忘れたことを認めるのが怖いってことか?」
「……え?」
「図星だな?お前が俺たちを忘れようとしているって可能性にも気づいたんだろ?後ろめたくて突っぱねるような言い方してんのか、こら」
「……ち……」
違わない。そうだ。俺はエビが言う可能性に気づいてしまった。
俺はエビ達のことを覚えていないんじゃない、忘れようとしている最中かもしれないのだ。それこそ都合のいいように記憶をツギハギだらけにしてでも。
記憶をいじるなんてことが人間、簡単に出来るなんて今まで考えられなかった。
でも、俺の脳はそれを無意識に出来てしまっている。思い出せないことは、ストッパーを掛けた俺自身が邪魔している、そう思えてしまう。
立ち上がったエビが俺の目を見て問いかける。少しだけ威圧感を纏っているエビを見上げる形になり、体がまた強張る。
「どうなんだ?おい」
「そうだよ。俺は忘れようとしているんだ、お前達のこと」
「簡単に認めてんじゃねぇよ、ばーか」
エビが俺の頭に手刀打ちした。痛みはほとんどないのに衝撃が頭の中に走る。モヤモヤ浮かんでいたモノたちが叩き落とされて頭の中が真っ青になった。空みたいな色が一瞬見えて、すぐさま眼前のエビに切り替わる。呆れからくる笑いみたいな顔をしていた。
「おいおい、明ちゃんが言った通りのこと言ったぞこいつ」
「やっぱりですか。でも泣くほどとは予想外でした」
「な、何を言ってるんだ」
声に振り返り、背後に立っていた女の子と目が合う。
明ちゃんはいつも通りになっていた。
その後ろには覗くように見る古草さんと鼻で笑う牡丹もいた。
「私、気づいちゃいました」
揶揄うような彼女の顔は少しだけ陰って見えた。
ー
「あなた、大丈夫?」
誰だろう。懐かしい声だ。
目を瞑っている間、ボクは寝てしまっていたらしい。
「怪我をしているのね。酷い。歩けないんでしょ」
声をする方を見ても誰もいない。これは視えない何かだ。
優しい声だから、怖くなかった。それどころかどこか心地いい。
「誰を探しているの?あなたのご主人?」
ううん、友達だよ。それと大切な妹。ボクたちの…あれ、たち?
「そう。手を貸してあげるわ」
お姉さんの手は見えないよ?どう貸すの?
「視えなくても触れることはできるわ、あなた重いのね」
温かい手だった。少しだけ小さいから両手を回して抱えるようにボクを持ってくれている。なんだか小さい頃を思い出す。
ボクとお姉さん昔会ったことがある?
「さあどうかしらね。…教えてあなたのいきたい場所」
懐かしい匂いと温もりがボクを包み込む。段々と眠くなってきた。だめだ、彼の元に着くまでは…… ちゃんの元に…………。
「ごめんね、あなたを利用させてもらう」
声はそこで途切れた。いやボクの意識がそこで途切れたんだ。
読んでいただきありがとうございます。
2023/05/02
細かい修正、言葉の表現の小変更




