16話 天竺 牡丹
男が泣いていた。
男の前に霞んだ空間が《アン》には見えている。男にはどう視えているのだろうか。
彼女が初めて彼の前に姿を現した(視せてはいない)日から数ヶ月、イロの眼を盗んで彼の近くで見続けてきた。
さまざまな感情を抱え、溜め込んだ彼が唯一表現出来ているのは涙だけだった。きっとその涙には多くの感情が混ざっているのだろう。
『日記を読 』
声は自分にしか聞こえない。音ではないのだから声じゃないのかもしれないが。
ああ、聞いてほしい。誰かじゃなくて、貴方とあの子に。
だから、日記を読んで《 》。
その気持ちが届いたかどうかは《アン》には分からなかったが、男は涙を拭き取り、歩き始めた。
その顔にはもう後悔の色はない。
彼の中から少しずつ色が欠けていくのが《アン》には見えた。
ー
店長にコーヒーの淹れ方を初めて褒められた!
あの、店長にだぞ!!
いつも不味い不味いって言ってた店長が俺の淹れたコーヒーを美味いって!
ここに書いて証拠として収めようと思ったんだが、やっぱり生の声でないと効力弱いかな。
でも本当に嬉しかったんだ
叔父さんも文句言わずに飲んでくれたし。
あいつらにもいつか飲みに来てほしい。
最悪淹れに行って、ついでに遊んでも良い。
久々に連絡してみようかな。…いやみんな忙しいかもな。
あんたはあいつらにも淹れてやれたのか?どうだった?
*
「入るんなら、早くしてよね!こっちだって暇じゃないんだから!」
赤髪のメイドさんが頬を膨らませている。
可愛らしい仕草なのだが、状況整理が追いついていない俺は脳内ワードがするりと口から出てしまった。
「誰!?」
「メイドさんだろ?」
と返すはエビ。違うそうじゃない。
「メイド喫茶だったとはな」
「可愛いね」
「………」
「わふ」
俺以外の面々はこの状況に違和感を持っていないのだろう。それもそのはず知らないのだから。だが知っている俺も知らないこととなると驚かざるをえない。
「失礼な客ね。人に名前を尋ねるならまず自分が名乗りなさいよ。予約してあるか確認してあげるから」
「え、予約がいるくらい満席なのか?」
とエビが中を覗いた。
メイドさんが答える。
「いいえ、客なんて1人も来てない。暇すぎて掃除くらいしかやることがないわ。今だって掃き掃除をしにきたところなんですから。ついでに呼び込み。そしたら、あんた達がもたついているのを見かけて声を掛けたわけ。早く入ってくれるかしら」
「随分と威勢の良いメイドさんだな。てか巴、メイド喫茶ならそう教えとけよ。彼女同伴はなかなかだぞ?」
「いやメイド喫茶じゃない。普通の喫茶店だった」
「普通ね…」
「………」
「……くああ」
シロが我関せずで欠伸している。そのまま伏せてしまった。明ちゃんは終始何を考えているのか黙り込んでいるし、花星さんはお店の中を覗いて頭を下げている。マイペースだなぁ。
「そこ!コソコソ話さず早く入りなさいよ!オムライスに名前書いてあげるから」
「メイド喫茶じゃん」
「違う!」
苦笑いのエビに声だけをぶつけて、俺は赤髪メイドを見つめた。知り合いの中に赤髪のやつなんていなかった。後に髪を染めたと思われるエビのように顔や雰囲気、仕草なんかで思い出せそう、という感覚もない。まあ、忘れものが多い自覚もあるので完全に忘れて思い出せていないという可能性も捨てきれなくはないが……
「ちょっと」
「…え?」
赤髪メイドさんと視線が合い、声を向けられたのに遅れて気付いた。
「あのねぇ、いやらしい目で見てくるのいい加減やめてくれる?少しくらいなら理解できるし見逃すけれど、あんたの舐め回すような視線気持ち悪いのよ」
理解が追いつかなかった。赤髪メイドさんは身体を守るように掻き抱き、すこし後退りロングスカートが揺れた。
!?
「ちが!いやらしい目でなんて見てないよ!」
「焦ってるじゃない。それ怪しくてキモくて、いやらしいやつの反応でしょ?」
「ち、違うって!君、初対面なのに失礼すぎるだろ!」
「あーうるさい。そっちのお兄さんとお姉さんたち、そいつ置いて中にどうぞ〜。ワンちゃんは……大人しそうだし他に客も来そうにないし、入れてもいいわよ」
赤髪メイドさん、改め赤髪失礼メイドは俺を無視してエビ達、他の面々を中に促す。勝手にシロの入店を了承しているがこいつに何の権限が?
俺はすぐにでも店長に事を伝えようと裏口に回る。自然と足音が大きくなる。足裏に痛いくらいの衝撃だが、この後これらが報われでもするだろうと確信していたため我慢できた。
後ろの方からエビっぽい声がしていたが無視した。心苦しさなどは起きず、足はずんずん進む。見慣れた扉がもうすぐだ。
営業時間中は基本鍵を開けている扉は軽く、壊してしまいそうなくらい勢いよく開いた。
「店長!!表の生意気メイドはなんですか!?新しい(バイトの)子だとして、ちゃんと面接してくださいよ!!」
扉を開けるとそこは倉庫然とした部屋になっている。少なくも多くもない段ボール箱たち。家用よりは少し大きい冷蔵庫。休憩室も兼ねているので机と数脚の椅子。表のカウンターに繋がる入り口と、2階の店長宅につながる階段が奥に見える。
店長はいなかった。店長たちはバイトよりも先に仕事を始め準備している。仕込みやら掃除やら。俺も最初は手伝おうとしていたが、店長独自のやり方があるから手を出さなくていいと邪魔者(は言い過ぎかもしれない)扱いされて以降その通りにしている。
掃除は生意気メイドがなんか言ってたから、仕込み出しの方か。
入り口前でチラッと店内を見た時影が見えていた。花星さんが会釈をしていた時だったか。
その時、正面の扉が開き男性が出てきた。もちろん顔馴染みである。
「あれ、君は…」
灰色髪の白の度合いが増してきている壮年の男性。店長の旦那さんで名前を
「紅陽さん!店長は表の方ですか?」
「………?」
椋路地紅陽さん。髪は白に近いがそれ以外は若々しいくらいのイケおじ。スタイリッシュな細眼鏡。皺だって目尻と額に少々。ほうれい線はまあ仕方ないとして、ピンとした背筋、エビに並ぶくらいの身長は今も健在であり、そこが羨ましくもあり尊敬する。こういう元気なお年寄りを目指したいものだ。
紅陽さんはなぜか目を細めて黙り込んでしまった。
あ、挨拶を忘れて話しかけたものだから気に掛かったのだろうか、と思い口を開こうとして俺は固まってしまった。
「失礼ですが、お名前を聞いてもよろしいかな?」
御歳がいくつだったか。確か70手前と聞いた気がするが彼は記憶力に衰えがなかった。認知症の疑いなど一度もないくらい元気な方、しかし冗談を言って笑わせるほど気さくでもなく、どちらかと言えば話を聞いて笑っている方だ。
遅刻、ではないが時間ギリギリになってしまったのを注意するためにそんな前振りをしたのだろうか。…知らないふり。
俺の頭は戸惑い・焦り・不安達が思考を奪い、無難な返しができずに沈黙する。
しばしの無言の空気が過ぎ、優しい声音が響いた。
「あの、お名前は…?」
彼の表情には怒りの感情がない。どちらかといえば嬉しそうで期待と戸惑いが少しか。俺はゆっくりと答えてみた。
「椋梨巴、です」
「椋梨さんですか。…覚えがあるようなないような」
俺は怒られる事を不安に感じていたわけじゃない。むしろそっちの方が助かった。だって怒りは、ある程度の関係性が存在しないと生まれるはずのない感情。「時間を大切にしなさい」とその優しい声音が言ってくれるなら俺は真っ直ぐそれを聞き入れようとした。
彼は冗談を言わない方だ。それを覚えているんだ。
だからこれは
「失礼ですが、どうしてこちらに?そこは裏口で入り口とは違いましてね」
忘れられているのは俺の方だった。
「アルバイト?」
「はい。僕はここで働かさせてもらっていました。今日もそのつもりで来たんです」
「はあ。それはありがとうございます」
紅陽さんがゆっくりと頭を下げる。
俺はそれを苦々しく思い、歯に力がこもってしまう。
「雇い主としてお恥ずかしいです。もう年という事でしょうな」
「いえ、そんな…」
苦笑いで自分の頬を撫でる紅陽さんを見ると心苦しかった。本当に覚えがなかったらしい。その態度と人柄は嘘を言っていない。
「いやはや手伝いを頼んでいるくらいでして、人が増えてくれるのは助かります。先ほどお客様が来られましたので早速手伝って頂けますかな?」
「も、もちろん!」
紅陽さんはニッコリと笑顔をこちらに向けると、荷物を取りにきたのだろう棚の方に向かった。手に取ったのはコーヒー豆の袋だった。
俺はその背中に声をかけた。
「あの、表のメイドさ……女の子は?」
「女の子…ああ、さっき言った手伝いの子ですよ。慣れない子なので教えてあげてもらえますか?」
「あ、はい。わかりました」
彼女に対する怒りはいつのまにか引っ込んでいた。また顔を合わせれば再発しそうなので出来ればその機会は訪れてほしくないが、彼女の態度は接客に相応しくない。我慢するしかないだろう。
入り口に向かう紅陽さんの後ろをついていく。
扉を開けると怒鳴り声が響いてきた。
「あんた!良い加減にしなさいよ!!」
「離して!!」
女性達の声。いや、女の子2人の怒鳴り声だった。
1人は想像通りの赤髪メイド。そしてもう1人は明ちゃんだった。
赤髪メイドが明ちゃんの腕を引っ張り逃がさないという姿勢。対して明ちゃんは射殺すような目で睨んでいた。
「なんなのよ、その態度!文句があるなら言いなさいよ!!」
「うるさい!離してって言ってるでしょ!!」
明ちゃんが力強く腕を振り、赤髪メイドがガクンと揺れた。目論見通り腕は離れる結果となった。が、
「つっ……」
明ちゃんの手から血が垂れた。爪で切れてしまったようだ。
「あ、ご…」
パンッ!!
赤髪メイドが何かを言う前に大きな音が彼女の頬から鳴った。首を振った赤髪メイドの頬が赤くなっている。
「「…………」」
両者が再び視線を交わす。いや、睨み合う。
2人が互いに飛びかかろうとしたところを俺とエビが止めた。
「うがああああ!!」
「んんんん!!!」
2人の唸り声は獣じみていた。犬猿では言い表せない…虎と熊が会敵し争ったらこのような絵になるだろうか。血に飢えた獣のような目で相手を睨み合う。
拳を振るおうとする赤髪メイドの脇下から腕を通し、拘束を試みるが暴れる暴れる。力強過ぎるだろ。
エビも似たような姿勢ではあるが、力の差か明ちゃんは振り解こうにも未だ逃げられていない。くそ、エビだけいいカッコしやがって!…そんな冗談も考えられないくらい拘束に意識を向ける。
2人の暴走を止めたのは静かな声二つだった。
「「やめなさい」」
「落ち着いて、明ちゃん」
「牡丹止まりなさい」
花星さんと紅陽さんだった。
牡丹と呼ばれた赤髪メイドと明ちゃんは名前を呼ばれた方を向き、静かになった。ふいに明ちゃんと目があったのだが、泣きそうな顔になった後俯いてしまった。
俺は2人の喧嘩の原因を見ていただろう2人に訊ねた。
「何があったの?」
語ったのはエビだった。とりあえず2人を抱えている腕をそれぞれ離し、明ちゃんは席に座らせた。牡丹は俺の手をすり抜けるとカウンター裏に隠れた。
「えっと、巴がさ、1人でどっかに…裏口か?に行った後、俺たちは店に入ったんだよ。んでメイドさんがこの席を用意してくれて。俺と藍は店内の装飾とか見て楽しんでたんだけど、明ちゃんだけ浮かない顔しててさ。なんか盛り上げたかったんだけど巴がいないと無理そうかなとも思ってて、そんで……」
エビの説明は要領を得ないと言うか、言いづらさを隠しきれていないと感じた。チラチラと明ちゃんの方を確認してるし、この先も吃るような説明では分かりにくいかと思い、もう1人この状況を見ていただろう人物に視線を送る。
「……メイドさんが、シロちゃんを、触ろうとしたの。…………それを明ちゃんが、拒んだの。そこから先は、言い合いになって、2人は怪我をしたわ」
「………」
明ちゃんは黙ったまま花星さんの簡潔な説明を聞いていた。否定も言い訳もしないのだろうか。
カウンター裏にいる方も物音はさせるが、声は出さない。
どちらもがその説明だけでも、先の状況を言い表せていると認識しているのだろう。
「明ちゃん」
「!!」
俺の声に彼女の肩が震えていた。彼女の顔を見続けても、視線を合わせようとしない。
「拒んだのは、どうして?」
「……っ」
その理由が俺には分からない。シロは人を毛嫌いしない。彼がこの数日出会った人たちとの関わり方で、すごく優しいやつだってことは俺が彼女の次に分かっていると言っても過言じゃないと思ってる。それくらい良い犬なんだ。だから、シロに問題がある訳じゃない。
明ちゃんが牡丹を拒んでいるんだ。
さっき紅陽さんと再会した時に思ったこと。《怒りは、ある程度の関係性が存在しないと生まれるはずのない感情》ということ。
明ちゃんは怒っていた。いや、憎悪に近い感情を牡丹に向けていたのだ。シロを触られることも耐えられないくらいに。
「……私はあの人を知っています」
「…やっぱり。その先を聞いても?」
「天竺牡丹、それが彼女の名前でしょう?違いますか?」
明ちゃんは紅陽さんの方を見て敵意を持って問うた。紅陽さんは明ちゃんの迫力に動じることなく答える。
「うちの孫をご存知なようですね。…御学友でしょうか?」
牡丹が孫だったことに少し驚いた。しかし俺の驚きを置き去りに会話は進む。
「……たまたま教室が同じなだけです」
「あたしはあんたなんか知らないわよ!」
バンッ!と叩きながら顔を出して睨む牡丹。その顔は怒りが殆どでまさに鬼気迫った表情。
明ちゃんは顔は向けずに、嫌悪と侮蔑を混ぜた言葉を浴びせる。
「よくもまぁ言えますね。貴方が犯したこと、忘れたとでも言いたいんですか?冗談でも軽々と言える訳ないと思いますが、まあ自己防衛の一種だと捉えてあげましょう。残念な人」
「ねえ、なんで知りもしない奴にこんなこと言われてるの?あたしがあんたに何したって言うのよ!たかが犬を触ろうとしただけで」
「シロのことは貴方だけには触られたくなかっただけです。…まさか本当にしらばっくれる気ですか?ふざけないで!」
「だから、知らねぇってんだろばーか!あんたなんか知らないし、あたしはあんたに何もしてねーだ…」
「私じゃない!!」
バンッ!!!
机を勢いよく叩いた衝撃でコップが倒れてしまった。机の上に広がった水は端の方まで流れていく。ポタポタと雫が床に溢れる。よく見れば水は明ちゃんの方にも流れていたようで、服にかかってしまっている。
隣の花星さんが静かに机の上の水をハンカチで拭いている。
それを見て少しは溜飲が下がったのか、元の丁寧語に戻って明ちゃんは謝った。
「…すみません。溢してしまいました」
「いいから。今のじゃ、あの子を、嫌いなことしか、分からないよ。明ちゃんらしくない」
「…はい。……すみ、ませ……っ」
そこでとうとう明ちゃんの中の何かが決壊した。シロがその足元に擦り寄りご主人の顔を窺おうとする。
「なんで、私が悪いみたいになってんのよ…意味わかんない。あたし、ほんとに何も………」
「牡丹、裏で少し休んできなさい。話はその後からで良いですかな?」
「お、お祖父ちゃんまで…」
紅陽さんが諭すように言うと牡丹は絶望を顔に滲ませた。まるで拠り所を失ったとでも思ったのだろうか。しかしその顔は一瞬だけで、歯を食いしばった後、素直に裏部屋に入っていった。
牡丹がいなくなった後、紅陽さんはカウンターに一人立ち、徐ろに珈琲を挽き始めた。
誰一人会話をしようとせず、泣きじゃくる一人が話し始めるのをただ待った。
しかし、話を始めたのは紅陽さんの方だった。
「老いぼれがこぼれ話をしましょう。
ある偏屈で頑固な男がおりました。男は何をやるにも1番に拘り、叶わなければ意味なしと捨てることも厭わない阿呆でした。運が味方か、少しの努力でそれらは叶ってしまい、男はつけ上がりました。
しかし、ある日突然歯車は狂い始めました。ある女との出会いがきっかけでした。この女というのがまた面倒で、美しく、明るく、そして才能に満ちておりました」
唐突だったが皆、紅陽さんの話に耳を向けた。
紅陽さんは挽いた豆をポットに乗せた布フィルターに入れていく。
「男はその女に会うまで負け知らずでした。それゆえに負けたことを理解するのに時間がかかりました。
なんとも傲慢ですが男は女に負けてしまったことに腹を立て再戦を言い渡しました。女は再戦を了承してはくれたのですが、内容変更を条件としました。男が何故かと聞くと『同じ内容と結果ではつまらない』と言い、女もなかなかの傲慢でした」
トポポポ………トポポポポ……という一定の間隔で優しい音が耳に届いてくる。人を誘う深い香りも漂ってきた。
「不服ながらも男は女に従い、次の勝負を決めました。
結果は男が負けました。男が決めた勝負内容にも関わらず女は余裕綽々に勝ち終えたのです。
男はすぐさま次を決めて、女に頼み込みました。女も乗り気だったので次の勝負が始まり、そしてまた女が勝ちました。日を変えても二人は新たな勝負をし、必ず女が勝ちました。もう男が新たな勝負内容を思いつかなくなった時、女が言いました。『この先はきっとつまらなくなる。もうやめよう』と」
ポットに最後の一滴が滴り落ちた後、紅陽さんはティーカップに珈琲を注ぎ始めた。
「男はそれでも勝負を続けてくれと懇願しました。女が『何故そんなに拘るの?』と聞くと男は黙り込んでしまいます。
男の中でその答えは決まっていましたが、それを言ってしまえば本当に負けてしまうと思い言葉にできませんでした。
男はその結果を捨てられなかったのです。」
何を言っているんだろう。なんの話なのだろう。恐らく俺以外にもそんな考えが浮かんでいるのではないか。紅陽さんの昔話?は意図が分かりづらく、しかし彼の優しい声音は聞くものを落ち着かせ、静かに聞き入らせる魅力があった。
コトッとティーカップが四人それぞれの前に置かれ、白いカップの中で魅惑の香りと美が渦を巻いていた。
「ミルク、お砂糖はいかがですかな?」
「……は!すいません、俺も手伝います!」
「いえいえ。冷めても味わい深いですが、淹れ立ての味は別格です。どうぞ召し上がってください。幸いまだ仕事は入っておりませんし」
「…あ、ありがとうございます、紅陽さん」
「ええ、お砂糖とミルクはご自分達で入れて貰えますでしょうかな。少し裏を見てきますので」
「はい、分かりました」
「どもっす」
「頂きます」
「どうぞ」
「………(こくり)」
「いえ」
明ちゃんの会釈に笑顔で返してから、紅陽さんは裏部屋に入っていった。
「「「「…………」」」」
俺たちは再び黙ってしまい、それぞれのカップに視線を向け先に動いたのはエビだった。
「なあ、俺苦いの苦手なんだけど……苦いよな?」
「子ども舌だもんな?」
「うるっせ。でもさ、なんかすっげぇ香りが誘ってくるっていうかさ。匂いが美味そうなんだけど、これどうなの?」
「飲んで、みたら?」
「………巴、コーヒー好きだろ?先に飲んで俺でも飲めそうか確かめてくれよ」
「ビビリか。俺はブラックもいける口だし、甘いのはむしろ苦手だ。お前がどうかは知らんし、美味そうな香りのするやつはな、結局美味いんだよ」
俺はエビが心配そうに見守るなか、湯気立つコーヒーカップに口をゆっくりつけた。今のは少しカッコつけた自覚があり、ここで火傷なんかして笑われるのも癪だった。熱くても顔には出さず、スタイリッシュに飲むのが理想。
そう思いつつ、ゆっくりと口に含んでいくと…あっという間に喉を通り過ぎてしまった。
ゴクゴクとダサい喉音が鳴る。俺自身の。
気づけば、カップの半分くらいを飲み干していた。
「…………!!」
「どう?」
喉を通り過ぎてお腹の奥から温かいものが広がり、体全体に伝わっていく。思わずコーヒーカップを見つめ独り言が漏れてしまう。
「もう半分しかない」
「一息に飲んでたからな。そんなに美味いのか?」
「分からない。気付いたら無くなっていた」
「おいおい。間抜けヅラしてるぞ。……ごくり」
俺のことを鼻で笑いつつ、カップを見つめるエビは喉を鳴らした。未だにどうするか迷っているのだろう。
エビの対面に座る花星さんがポツリと溢した。
「美味しい…」
「そ、そうか。俺も!」
我慢できない、と言った様子でエビも口をつけた。エビも、スタイリッシュとは言い難くゴクゴクとジュースでも飲むかのように喉を鳴らして、珈琲を飲み干した。
「ぷはぁ。めちゃくちゃ美味い、このコーヒー!」
「うん。苦味は、少しあるけど、香りと、円やかさが、口の中に、広がって、すごく美味しい」
「明ちゃんの親父さんがあんなにハマるわけだ。俺もこれなら毎日でも飲める。てか飲みたい!」
二人とも大絶賛だった。一人この味を知っていた俺でも驚く美味さ。俺が関わったわけではないが、この反応は俺も嬉しかった。
だから彼女にも同じ体験をしてもらいたかった。
まだ口をつけていない少女にも。
「明ちゃん、このコーヒーが俺の勤めている店の1番人気なんだ。飲んでみてよ」
「…………」
まだ目の端に涙を浮かべる彼女はゆっくりとカップに手を伸ばし、口に運んだ。
ゆっくりと傾いていくコーヒーカップと明ちゃんはとても雰囲気があっていて綺麗に見えてしまった。
今日は彼女が変に見えてしまう。もちろん俺の眼の方に問題があるのだろうけども。
ゆっくりとカップをソーサーに戻した明ちゃんは小さい息を吐いた。
「美味しいです」
「でしょ。後で紅陽さんに言ってあげて」
「はい」
少しだけ笑顔が戻った。今はシロを優しく撫でている。ご主人からの愛撫に素直に応じるシロは、顔を伺い続けるのをやめ、隣に伏せた。
「すみません、もう落ち着きました」
「そっか。……理由を聞いてもいいのかな?」
「はい。でも牡丹にもこの場に来てほしいです」
「分かった。呼んでくるよ」
俺が席を立ち、二人を呼びに行こうとすると、ちょうど二人が裏部屋から出てきた。
牡丹の顔は頬だけでなく目元まで赤くなっていた。しかし態度には一切その雰囲気は残っておらず、出会い頭の時のように高慢な物言いに戻っていた。
「あたし、嘘じゃなくて本当にあんたのこと知らないんだけど。それでもこの話続ける気?」
「……っ」
明ちゃんは一瞬、唇を噛んでいたが、コーヒーを一口飲むことで自分を落ち着かせていた。
「……ふぅ。まず先ほどは殴ってしまい申し訳ありませんでした。正当防衛のためにやむなくとはいえ、それほど痕が残るとは。清々したのと同時に哀れに見えるので、そこは反省しています」
「……あんた、喧嘩売るのうまいよね。その両頬よこしなさいよ!」
牡丹が詰め寄ろうとする前に、俺は二人それぞれに手を突き出し、止まれのポーズ。
落ち着いた雰囲気はどこへ行ってしまったのだ。
「ストップ!!明ちゃん、喧嘩じゃなくて話をするんだろ?もう一度珈琲を飲んで、落ち着いてから話して?」
「ズズッ」
「ちっ」
この先もこの調子なら話なんて出来るはずがない。今のは軽い冗談だったと受け止めておくしかない。明ちゃんは賢い子だ。流石にこの空気感でわかってくれていると思うけど……。
「ふぅ。このコーヒーとても美味しいです」
「ありがとうございます。おかわりもご用意しましょうか?」
「是非」
「ちぃっ!」
明ちゃんは紅陽さんに笑顔で話しかけた。
そして牡丹が明ちゃんの賛辞に舌打ちをしていた。話が進まない苛立ちかとも思ったが、頬が赤く口角が少し上がっている。俺と似た感覚が彼女の中に生まれせめぎ合っているのかも。
明ちゃんが空になったカップをソーサーに戻すとようやく話し始める気になったようだ。
「私が知っている天竺牡丹の話をしましょう」
ー
ネットニュースにこんな記事があった。
『怪奇現象!宙に浮いた服!落ちない葉っぱ!!そして、未確認飛行物体か!?』
どれも失色物だと思われる。
マネキン・ゴールポストのネット・電信柱の柱部分・取手のない板etc.
殆どが忘れ去るには残り過ぎていて、しかし一部分だけ急速に失色している物たち。
そんな物でも俺の眼には一応見えてしまうのだから分かる。
しかし、分からないものが少なからず出てきた。
「UFO?なんだこれ」
飛行機が空中で失色した?一部失色?だとしても分からない。
「なんで中身が透けて見えてるんだ?」
写真には俺が今まで見てきたものとは状態が違う失色物が写っていた。
それは空を飛ぶ銀色の弾みたいな形をしていた。
伏線回収のつもりが特に拾えず、新たな問題が……
投稿頻度も遅くなってるし、いつ終わるんですかこれ
読んでいただきありがとうございます。




