1話 椋梨 巴
日記の初めのページにこう書かれていた。
『俺は椋梨巴。
18才のフリーター。
身長172センチ、体重52キロのノーマル体型。
特徴は…人より少し目がいい、くらいかな。
黒髪黒目、純日本人。
何故いきなり自己紹介したかって言うと、覚えておきたいことが出来たんだ。
流石に自分を忘れるなんてことはないと思うが、成長を感じるために書いておくぞ。
ただ心配なのは飽き性な俺が続けていけるのかってことだけど…いや俺は変わるって決めたんだ。だよな?
未来の俺、頑張れよ』
ー
俺はバイト帰りにコンビニに寄った。買ったのはコーヒーと肉まん、水とドッグフード。
店員の気の抜けた挨拶を背中に受け、俺はある場所を目指した。路地裏、高架下、それらを通り過ぎて静かな住宅街に着いた。
パタパタとしっぽを跳ねさせて歩く足音。
「しー。吠えるんじゃねぇぞ」
「わっふ」
白を基調とした黒斑模様のデブ犬。門戸の向こうでは首輪紐を限界ギリギリまで引っ張り俺に近づいてこようとする。
口には餌入れを咥えている。
「お前、そんだけ太っててまだ食うんだから凄えーよな」
「わっふ!」
「吠えんなって、今出すから」
俺は買い物袋をガサゴソ漁る。ペットフードの袋が見えてから、デブ犬の呼吸が加速した。
「お前…餌入れが涎まみれになってんぞ。どんだけだよ」
「くぅーん」
「分かった分かった」
俺は門戸の隙間に手を差し入れ、餌入れに入るように袋を傾けようとした。
デブ犬が俺の手を舐めた。
「うひっ!気持ち悪りぃ」
冷たくてざらっとした感触に、思わず袋を落としかけたが何とか持ち堪えた。
餌入れに全部流し入れてやると、ハグハグと食べ始めた。
腕を隙間から抜き、手の甲を見る。
ぬらぬらとした液体が垂れ落ちるのを拒み必死にしがみついているように見える。
あ、落ちた。
「くっそ、お手拭き貰っとくんだった」
俺は犬の家の塀壁に残りのぬらぬらを擦りつけた。少し臭う。水で洗い流そう。
マシになった手で、袋を漁る。肉まんはほんのりとだけ熱が残っていた。頬張る。
「うっま。ぬるいけどうまい。お前は?」
デブ犬を見れば餌入れは空っぽだった。前足で差し出すように餌入れを押している。
「やらねぇよ?これは俺んだ」
「うぅぅ!!」
デブ犬は俺を睨む。
「何だその顔は。お前はもう食っただろ!?」
「うぅぅぅぅううあ」
唸り声を上げ、口を開けようとしている。
「分かった!一口だけだぞ!」
俺は一口サイズにちぎり取った肉まんのかけらを餌入れに入れてやった。端っこに小さく肉汁っぽいのがついてる。
「わっふ」
「何だ、お前はこっちだ。濃いもんは与えて良いのか分かんねぇから。人様の犬だし」
「…ふんっ」
デブ犬は仕方ねぇなという顔でそのかけらを舌で掬い取った。一瞬で消えた。こっちをじっと見つめて食う姿に腹が立った。
「け、可愛くねー犬だお前は。ほら、水も飲め」
さっき開けた水の残りを餌入れに注いでやる。半分くらいで入れるのを止めた。
ピチャピチャと飲み始めた。
俺も買っていたコーヒーを開ける。カシッと空いた飲み口からコーヒーの匂いが漂う。
こちらも既にぬるくなっていた。
「はぁぁ。寒いな」
飲み切った缶を置いて、犬を眺めた。まだピチャピチャと飲んで…いや、遊んでんなこれ。
注意しようかと口を開いた時だった。
ガチャリと玄関の方から音が鳴った。
まずいと思った俺は咄嗟に塀の影に隠れるが、ポカした。
コーヒー缶が見えるところに置かれてる。
「しろ?誰かいるの?」
若い女の声。姿は見られなかったようだ。が、コーヒーが見つかったんだろう。不安げな声に変わる。
「だ、誰かいるんでしょう?」
「わふ」
しろと呼ばれた黒斑デブ犬はわざわざこちらを見つめてきやがる。
「しろ、そこにいるの?」
近づいてくる足音。
これ以上怯えさせるのも悪いと思い、素直に投降することにした。
相手に見えるように街灯の光が当たる場所に出る。
なるべく怯えさせないように説明を…
「すまない。怪しい物じゃ…十分怪しいな」
「ゎおん」
犬が返事っぽく鳴いた。「違う」と否定してくれたのかな?
「やっぱり、いつもここを通る人ね」
女の子だった。白髪のボブ、いや内側は伸ばしているのか後ろで束ねている。
夜だというのに制服を着ていた。コスプレではなさそうだが、不自然である。
そしてどうやら向こうは俺のことを知っているようだ。俺の方はあまり覚えがないが…
まぁ犬に会いに来た時とか見られる機会はいくらでもあっただろうし、今は状況が悪い。
説明の方を考えよう。
「俺は泥棒ではないし、もちろんストーカーというわけでもなくて…えっと…俺すっごく怪しいな!」
「ゎおん!」
くそ、犬に馬鹿にされてる気がする。
「しろ!変な人の方に行っちゃダメ!」
「変な人!ぐはっ女の子に言われると踊ってしまいそうだ。いや静まれ俺の中の変な人!!」
「わふぅ」タシタシ。
犬が前足で地面を叩いている。どういう意味かは全くわからない。
「もう!しろから離れてください!」
女の子の態度に恐怖感はなくなった。苛立ちの方が強くなっているのだろう。
しかし、俺は門の中に入ってはいない。その場から動いていないし、犬はといえば水をピチャピチャしてる。あ、これは飲んでるな。ちなみに、餌入れは門の近くにある。
「こいつが来てる」
「しぃろぉ!?」
「くぅぅううん」
もう何に対して怒ってるのか分からなくなったんだろう。女の子は犬に説教を始めた。
「もうあんたって子は!…何で餌入れがここにあるの?あんたなんか貰ったんでしょ!きっと食べ物ね。そうなんでしょ?」
「くぅぅん」
犬は喉を鳴らした。飼い主を誘惑している。
「かわいくしても誤魔化されないわよ!何貰ったの?」
俺は助け舟、もとい泥舟を出してやった。
「コンビニのドッグフード一袋、を最近与えていました。すいません。あと、水も少々。本当に、すいません」
「あんた、最近太ってると思ったのよ!知らない人から食べ物もらっちゃダメでしょ!」
「わっふ、わ…ふぅ」
「言い訳してもダメ。あんた明日からいっぱい走らせるからね」
「わふ!?わんわんん!」
「太ったあんたが悪いんでしょうが!」
犬はゴロンと寝転んで服従のポーズ。
愛らしさで懐柔しようと企んだデブ犬。
腹の肉が邪魔で仰向けになれず横向きのままだ。
「へっへっ、わふーん」
「…だ、だめよ?ダイエットしなくちゃ歩けなくなるかもしれないし」
ゴロンゴロン「わん」
「かわ、もう仕方ないわね。走るのは明後日からにします。明日は家の中で特訓よ」
「わん…わふ!?」
犬は飼い主の言葉に驚いてた。媚びた結果が良かったからかは分からない。
ここでようやく飼い主は俺の方を見据えた。年下だと思うがなかなか迫力がある。
「それで、あなたはどうしてうちの子にご飯を与えていたんですか?ちゃんと食べさせていますし、困るんですが…」
「あ、そうだよね…腹が減ってそうで可哀想とかって理由じゃないし、勿論やっちゃいけない事もわかってたんだけど…」
俺は言葉に詰まった。何故だろう。何で与えようと思ったんだろう。分からない。
次の言葉を言いそうにない俺に飼い主は諦めた。
「あの、今後はやめて頂けますか?言葉は悪いかもしれないのですが、こういうのってありがた迷惑だと思うんです」
「そうか…ありがた迷惑。そうだよね、ごめんね。こういう事は今後止めます。…あの、こいつの顔を見に来るのは良い、かな?」
女の子は困った顔をした。気味が悪くて本当は拒否したいんだろう。そりゃあそうだ。こんな夜更けに顔見知り?といえど怪しい男が愛犬に近づいていたんだ。
警察に通報されていたっておかしくない。示談ですんで幸運なのに、それ以上を求めたら今度こそ警察を呼ばれるかもしれない。でも、何故かその場から俺は動けず、相手の返事を待ち続けた。
「わん」
犬が一声鳴いた。はっと犬を見る飼い主。
犬もそれに見返して飼い主の表情が変わった。
「しろがあなたを気に入っていますし、顔を見に来るぐらいなら良いです」
「ほんとに?ありがとう!」
まさかの言葉だった。込み上げてくる嬉しさから俺は女の子に頭を下げた。
「やめて下さい。…あの、親に話してきても良いですか?ご飯の代金とか返さないとですし」
飼い主は玄関に戻ろうとする。
それを咄嗟に止めた。
「あ、やめてやめて!こっちが勝手にやってた事だし!第一こっちが迷惑かけてたんだから。穏便にしてくれると怪しい身としても助かります」
「は、はぁ。ぷ、ほんとに怪しい人なんですね」
飼い主は小さく笑った。いろんな表情を見せる子だなぁ。
あ、今のは気持ち悪い。なしなし今のなし。
話は済んだし、ここらで去った方がいいだろう。
「えっと怖い思いさせちゃってごめんね。俺もう行くよ。じゃあな、し、しろでいいの?」
「はい」
「わふ」
俺は逃げるようにその場を去った。後ろから女の子の声が小さく聞こえた。振り返らずに家に走った。
学生以来だ。こんなに走ってるの。
*
「うおえ、おえぇぇえ…」
家の中で俺は吐いていた。
「んぷ、気持ち、悪い…」
シンクに汚物が溜まっている。水を流すと排水溝にどぽどぽと流れていく。
茶色の中に小さな赤や緑、肌色や白色があってテカっている。
「汚ねぇ。はは」
持っていた袋の中に水が残っていたのを思い出した。ガサガサと袋の中身を出した。ブワッと思い出した。
「あ!缶忘れてんじゃん!やっちゃった」
明日取りに行こうか、いや次の日すぐ行くのも気持ち悪いよな、今行けばバレないかな?犬も寝てるかもだし。
行くか行かぬか、しばし悩んだ。とりあえず口の中のイガイガを水で流す。
「行くか。…ばれないように」
帰宅してすぐ家を出ることになった。マスクと読書用のメガネを付けて玄関を出る。
ガチャリと鍵を閉めて、俺は目的地を目指した。
吐いたばかりということもあって歩くことにする。
夜の住宅道は静かで暗く、見慣れた景色になぜか高揚した。景色に意識を向けたのは久しぶりな気がする。
「てか、寒いな」
雪が降っているわけでも、風が強く吹いているわけでもない。けれど、芯から冷たくなっていく心地がする寒さ。数枚重ね着しているはずなのに体が震える。
「あの犬、この寒さで元気だったな。脂肪が厚いからかな。ふ…」
人様の家の犬を笑ってしまった。あの女の子が聞いたら怒るだろうな。
街灯の白い光を浴びる。見れば、その光の中に緑と青と赤を見つけた。
「へぇー、光って真っ白じゃねぇの」
白といえば、あの犬の名前もシロだった。黒斑なのに。汚れという感じはしなかった。
「今度から呼んでも良い、のかな」
そんなことを考えてるうちにあの犬の家の近くまで来ていた。
これから行う一連の流れを脳内で組み立てる。
まずマスクとメガネを装着。次に抜き足差し足で、標的まで接近。音を立てずにブツを回収。速攻リターン。問題なく家に帰着。
簡単なことだ。よし、実行しよう。
「ふー、ふー」
普段、マスクをつけることが少ないため、慣れない。呼吸をするとメガネが曇る。そもそも息がしづらい。
よし、息を止めよう。
抜き足、差し足。
ん?犬の気配がしない。家の中だろうか?
とりあえず塀壁に付かず離れずで接近。
門戸付近を確認。
あれ!ない!?
そういえば缶の色は黒かった、見え難いのだろうか。
それか女の子が見つけて持っていってしまったのか?
念のため、手探りで探した。
それはそこにあった。
しかし、違和感がすごい。
これは缶じゃないのかもしれない、そう思ってしまう。
とにかく確認するために急いで家に帰ることにした。
また吐くのは嫌なので、小走り程度で家に向かう。
道中、俺は手の中のものを決して離さなかった。
離せば絶対に見つからないと思うから。
手にした缶は黒くなかった。
缶は暗い肌色になっている。
「マジかよ、これ」
水が浮いている。円柱の水が机から少しだけ浮いている。
魔法?呪術?怪奇現象?何と説明すれば良いのか分からない。だが、分かっていることが一つあるのはわかる。
「やっぱこれ、缶の形だよな」
水が形成したものは缶の中にある液体、その状態である。そして、水を入れるときに付着した水滴が周りの凹凸を見せていた。
宙に浮いたプルタブ、水の円柱とは分離した水滴が手前に浮いている。飲み口らしき部分には水がついていない。穴には付着できないということだろう。
水が上手いこと缶の形を現していた。
「色が失くなってるんだよな、これ」
浮いている水を持ち上げた。硬い感触がある。手と水の間に薄い隙間が見える。
中の水を少しだけシンクに流してみた。水は排水溝に流れて消えた。水に異常はない。
机に再び置くと、さっきより高さが減った円柱の水が小さく揺れて、やがて止まった。
「なにこれ、どうしたら良いんだ」
とりあえず、誰かに言ったほうがいいんだろうか、叔父さんに連絡?見つけた過程を説明しなきゃならないのかな?嫌だな。
「めんどくさい、幻覚だ。寝よう」
目の疲れだ。もしかしたら、犬の辺りから夢を見ていたのかもしれない。今日はあの犬に会わず普通に帰った。女の子が優しかったのも、よく分からんものを拾ったのも、俺が布団の中で見ている夢だったんだ。
現実だったら、通報されて缶を気にすることもなく、警察署で事情聴取だ。
これは夢だ。夢の中で寝たら、現実に帰るかもしれない。
机の上の透明缶は放置。俺は布団の中にイン。
目を閉じたら暗闇になり、羊を数えれば眠気がやってくる。
「おやすみ、夢の俺」
ー
ヒュウっと冷たい風が吹いた。
風は器用に一枚だけを捲った。
日記はまだ続いている。
ベランダから戻り、窓を閉める。
うるさいテレビを切り、音楽をかけた。
クラシックが部屋全体に響き渡る。
ソファにもたれかかり瞼を閉じる。
世界が変わったような感覚。
そのまま眠りについた。
読んでいただきありがとうございます。
2023/07/11
変更箇所
巴がネットで情報を得ようとする
↓
叔父さんに相談しようとする
その他細かい修正。




