第8話(Re):ウエイトレスの醍醐味
近頃めっきり寒くなって、布団から出るのも嫌になります。
ではお決まりの文句で。
お気楽にお読みください♪
◇
「アルバイトをしていて面白いことはありますか?」
御新規さんの問いに、私はこう答えた。
「色々な方と巡り会えることですね」
その答えに、御新規さんは感心したように頷いた。
「今まででは出会うこともなかった人と知り合えるんです」
続けて私は嬉々としてそう言ったのだった。
◇
午後も深まり、日の沈みかけた頃合い。
早々に紅色で染まった空を眺めながら、秋の訪れを感じていた。
今日は短いバイトのため(片付けが適当な昴さんのせいでバイトに行くことになっているのだが)、この時間から名曲喫茶【ベガ】へ向かっていた。
散々たる有り様になっているだろうカウンターを想像して億劫になりつつ、店内に入る。
「昴さんー、お疲れ様です」
「おや、お客さんですかな」
「いえ。あれはアルバイトの雪菜君です」
「おや、そうでしたか」
珍しいことに客がいた。
テーブルに着いていた一人の老人が私を見ている。
わぁ。いかにも長老みたいな男性だ。
白い髭と髪を長く伸ばし、 和服を身に纏う姿は、どこか異国情緒を感じる。
いや、ここは日本だから異国情緒ではなくて、古風といった方が正しいだろう。
背筋を伸ばし、優雅にコーヒーカップを傾ける姿は、和洋が混在しているのに、何だか絵になっていた。
「アルバイトの那須賀雪菜です。こんにちは」
「これはどうも。わたしは神田芳一楼と申します」
私が軽く会釈すると、立ち上がった男性も頭を下げる。
その一つ一つの動作に、洗練された麗しさを感じた。
「神田先生は、日本の音楽を研究している先生でな。中でも、横笛について詳しい」
「なんのなんの。わたしなどまだ若輩に過ぎませんよ」
いや、あなたが若輩なら私たちは赤子同然だ。
「何を言いますか。……神田先生は鎌倉周辺を散歩することが趣味でな。ここへ来てくださることがある。くれぐれも失礼のないようにな」
「はい」
お偉い先生なんだ、と身構える。
すると「お気になさらず」と言って、彼は柔和な笑みを浮かべた。
まさに気品あるご老体だ。
「わたしはここの雰囲気が好きなだけです。今では落ち着いてお茶を嗜む場所も少なくなりましたので」
「お気に召しているようで何よりです」
これほどまでに、腰を低くしている昴さんも珍しい。
私は積み上がった、主に昴さんの汚しただろうカップやお皿を洗いながら思った。
「夏も終わりまして、蟋蟀のさざめきだす季節になりましたから。ここらで一つ、お茶と一緒に耳を傾けようかと寄ったんですよ」
そういえば、今日は音楽が鳴っていなかった。
おそらく、昴さんが気を使ったのだろう。
「すっかり秋ですからね。秋と言えば、お月見の季節でもありましょう。今年の十五夜も晴れると良いのですが」
「ですな。鎌倉ならば木々の葉も色めき、さぞ綺麗なことでしょう」
二人でまったりと談笑する。
不思議と居心地は悪くなかった。
神田先生の雰囲気が、この空間を和らげているからかもしれない。
「……そうです、神田先生。この雪菜君はあまり音楽に詳しくなくてですね。よろしければ、笛の音でも聴かせてあげてはくれませんか?」
突然と私の話題になり、吃驚した。
あっ、でも。私も日本の笛に興味あるかも。
日本に住んでいながら、この国の笛とかお祭りでしか聴かないし。
「私からも頼めませんか? とても興味があります」
「ほぅ、そうですか。しかしわたしなんぞの音では満足できるものでしょうか」
「いや先生だからこそですよ。何とかお願い出来ませんか」
懇願するように昴さんが言った。
「そこまで言うのでしたら。……そうですね、わかりました」
彼は懐から一本の横笛を取り出して、私に見せてくれた。
「これは室町の末期から伝わる篠の笛でして。骨董品屋で、転がっていたものを修理したものです」
短い一本の笛。
けれども、言われてみれば時代を感じる佇まいをしていた。
「触ってもいいですか?」
「勿論ですとも」
木目をそのまま残したしなやかな感触が、指先に伝わってくる。
室町から伝わる木か。
こうやって、私が触る前にも何人もの人々が、この笛に触れてきたのかな。
そう思うと、長い歴史を経た笛が特別なものに思えた。
「では、つまらぬものですがご披露致しましょうか。そうですね。月の話も出ましたし、簡単ですがあれにしましょうか」
手元に戻った笛をゆっくりと彼は構えて言う。
そして、その詩は小さな笛から奏でられた。
あぁ、風の音がする。
漏れた息の音が、まるで風のように感じられた。
メロディーは私も知っていた。
中学校で習ったことがある。
確か《荒城の月》だ。
哀愁を漂わせる音色が、空気を震わせている。
ぴりぴり、と。
その音は店の空間いっぱいに広がる。
なんとも言い難い、垂れるような音程がまた心を揺さぶる。
外から漏れ聴こえるコオロギのりんりーん、という音と合わさり、和の合唱曲のようになっていた。
「さて、いかがでしたか」
私ははっと目が覚めたように、視点を神田先生に合わせた。
「自然と一体になって、私の心に何かを語りかけてくるようでした」
「とても良い感性をお持ちのようだ」
私の感想を聞いた神田先生は、にっこりと微笑んだ。
おそらく、お世辞だろう。それでも私は嬉しくなった。
「《荒城の月》か。確かに、雪菜君に聴かせるにはぴったりかもしれんな」
「あっ、私も知ってましたよ。確か満月みたいな禿の人の作品ですよね」
「むっ。山田耕筰のことか。失敬な。後、それは編曲版の方だ。原曲は、日本で初めて西洋音楽を作曲したとも言える瀧廉太郎の作品だ」
「そ、そうなんですかぁ」
中学校でやったから、合ってると思ったんだけどなぁ。
「山田耕筰版も非常に有名ですから。仕方ありませんよ」
「瀧廉太郎は日本を代表する偉大な作曲家の一人だ。他にも《お正月》などの曲もあるな。本人は肺結核に犯され、二十三歳というあまりにも早い生涯を閉じた」
「えぇ? 私とそんなに違わないじゃないですか。可哀想に」
「その通り。彼の遺作、《憾》はまさにその時の心情を映し出しているかのようだ」
「彼の死には国家の陰謀が関わっている、と騒がれているほどにあまり早い死でしたからな」
「うむ。彼がもう少し生きていたら、どれだけの傑作が生まれたことか」
「ですなぁ」
昴さんと神田さんは、残念そうに顔を俯けていた。
「先程の《荒城の月》も、愁いを帯びた日本らしい響きのする名作だな」
「日本人が出せる声の音なのかもしれませんな。さて、雪菜さん。日本の音楽はどうでしたか?」
「西洋のクラシックとはちょっと違うなと。何だか自然と音に入り込むようでした」
「それはあなたが日本人である証拠でしょうね」
神田さんは、私を真剣に見つめて言った。
ちなみに、昴さんの方は……。
「うむ。日本と西洋では言語が違う。篠笛にしてもタンギングを用いないことは、言語に由来するかもしれん。他にも、いわゆる雑味を味と捉えることも……」
などと、あれだけ神田先生に気を回していたのに、完全に自分の世界へ入り込んでしまった。
もう、音楽となるとこれなんだから。
私と神田先生は、そんな彼の高説に、しばらく付き合うことになったのだった。
――それはある秋の訪れを感じる日のこと。
自然に寄り添う音楽に触れた出来事。
私にとって、日本の心を感じる日だった。
第8話fin
瀧廉太郎の国家陰謀説。不謹慎ですが面白いと思ったことがあります。
何を思って遺作を書いたんでしょうね。