第7話(Re):ウエイトレスの結論
軽く読める程度であればよいのですが。
どうかお気楽にお読みください♪
◇
「音楽家と接していて思うことですか?」
御新規さんの問いに、私はしばらく時間をかけて考えなければならなかった。
「……そうですね。意味不明、理解不能な生物ですよ」
私が出した結論は、答えになっていたのだろうか?
でも、御新規さんも頷いていたのだった。
◇
今日も閑古鳥が鳴く喫茶店【ベガ】。
私は来るかもわからないお客さんのために、テーブルを拭いていた。
ただ珍しいことに。
昴さんはレコードを聴くこともなく、店のカウンター近くで立っていた。
彼は軽く右足でコツコツと音を鳴らす。
そして、ちらちらと時計を気にしている。
どうも落ち着きがない。
「なにか用事でもあるんですか?」
気になって聞いてみる。
すると、彼は仏頂面で答えた。
「知り合いというか、昔の生徒が来ると言っていてな。もう時間のはずなのだが」
彼が言い終わった直後……。
ちりん、ちりんと。
鈴が鳴り、扉が開かれた。
「あっ、武蔵野先生。ご無沙汰です」
制服を身に纏った男の子が入ってくる。
手には鞄を持ち、肩には楽器ケースを背負った少年だった。
「十秒遅刻だ。音楽家を志すならば、時間を守れとあれほど言っておろう」
どの口が言うか、と突っ込みたくなる。
この前、終業時間を破ったくせに。
しかも、理由はピアノに没頭していたせいだ。
「んなこと言ったって。掃除の時間が延びたんですよ」
「言い訳無用」
「そんなぁ。ってあれ、誰? カノジョ?」
少年が目を丸くして、私を見る。
「何を言うか! 誰がこんな音楽の“お”の字も知らん奴と交際するものか!」
「こっちの台詞です! こんな音楽以外に能のない変人、彼氏にするもんですか!」
私と昴さんはしばし睨み合う。
「あー、仲いいことはわかったんで。誰です? この人」
「アルバイトの雪菜君だよ。父が倒れた穴を埋めてくれている」
「なるほど。僕は本田陸です。雪菜さん、よろしくお願いします」
「え? あっはい。よろしく、本田くん」
私を昴さんの彼氏と間違えたことは憤慨ものだ。
だが、礼儀はわきまえている子のようだった。
「陸君は、俺が昔教えていた音楽教室でヴァイオリンを習っていた子だ。彼にはソルフェージュを教えていた。こうやって時折、遊びに来るのだよ」
ふーん。ソルフェージュが何なのかわからないけど、教え子ってことね。
昴さんが子どもの扱いに長けている一面は、その頃養われたのかもしれない。
「あー。急いできたから疲れちゃった。武蔵野先生、お水ください」
「よかろう。雪菜君、アイスティーを二つ頼む。いや、伝票はいらん」
どうやら、彼は奢るつもりのようだ。
こういう面倒見のいいところ、あるんだよね、昴さん。
紅茶を飲み、一息ついたところで、彼が私にお礼をいった。
「雪菜さん、ありがとうございます。武蔵野先生と違って美味しかったです」
「この。他人の店で生意気な餓鬼め」
「だって事実じゃないですか。前にコーヒー頼んだ時、マジで泥水だと思いましたよ」
「あー、なるほど」
時間も分量も守らないものね、昴さん。
「あっそうだ。お礼にはならないかもしれないですけど、何か聴きたい曲とかあります? 弾ける曲なら聴いてほしいな」
「え? 私なんかでよかったら喜んで。でも……」
生憎、私にヴァイオリンの曲なんてわからない。
「雪菜君は大が付くほど音楽音痴なのだよ。そうだな、《G線上のアリア》程度ならば、知っているかもしれん」
「んじゃ、それ弾きます。武蔵野先生、伴奏頼めます?」
「よかろう。君の腕が鈍ってないかみるいい機会だ」
二人で話し合うと、本田くんはガサゴソと準備を始めた。
こうやってみると、やっぱりヴァイオリンって優雅だよなぁ。
私は彼が構えた姿を見て思う。
二人がアイコンタクトをする。
そして、本田くんのすぅっという息づかいの後に、緩やかに旋律が奏でられた。
確かに、その曲は聴いたことがある曲だった。
でも、何か違う。
小さな店の一角で、奏でられた音楽のはずだった。
たった二人が紡ぐ音の波と波。
それが互いに混じり合う。
細い線と太い線のようだ。
それらは戯れるように寄り添い、時にぶつかる。
そして、前へ、前へと音は延びていく。
前進する音楽。
広がる響き。
その音色は、小さな店では収まり切れない。
音は憂いを帯びて、ひたすらに延びていく。
それは、まるで地平線の彼方まで延びていく光のようだった。
生の音楽って、テレビで聴く音と何かが違うんだよな。
もっと空間が感じられるというか……。
二人の演奏を聴き終わった私はそんな感想を抱いていた。
「どうでした、雪菜さん?」
「とっても良かったよ。真っ直ぐに光が延びているみたいだった。月並みな感想しか言えなくてごめんね」
「ふむ、雪菜君はそう思ったか。俺はいまいちだったな」
昴さんは手厳しく言った。
「むっ。なにがダメだったんですか!」
「大海を意味する偉大なるヨハン・セバスチャン・バッハが聴いたら激昂するであろう。君は腰を据えて歩く低音を感じていたか? 美しい対位旋律に寄り添っていたか?」
「ちょっと待ってください。それは武蔵野先生に言いたいです。のったりし過ぎなんですよ。いくらゆっくりした曲でも、あれはないと思います」
「未熟者め。全身で音楽を感じていないから、そういう考えになるのだ。なぜ、彼らの足取りに気を配らん!」
「それは武蔵野先生の足取りが遅いからです! もっと前に行くんです。この曲は!」
わぁ。
訳わからない罵倒が飛び交ってる。
私はどうすることも出来ず、見守ることしか出来なかった。
「もういいです! 武蔵野先生がこんな年寄りに成り果ててたとは、思ってませんでした!」
「ふん、それはこちらの台詞だ。何を焦っている。馬鹿馬鹿しい。まるで幼児だ」
結局、二人は和解することなく、本田くんは私にだけ丁寧な会釈をして帰ってしまった。
「いいんですか? 店長。なんか喧嘩別れみたいになってましたけど」
しかし、昴さんは面白そうに笑っていた。
あれ? 怒ってたんじゃないの?
「いいのだよ。時として音楽家は譲れない一線がある。頑固者と言われようともな。あれは彼にもそれが芽生えた証拠だろうよ」
「それがわかっているんでしたら、言い方とかあったんじゃないですかね?」
「ふん。それは音楽の父、大バッハの名に置いて決して許されない。音楽に嘘も誤魔化しもないのだよ」
それを聞いて、確かに音楽家って頭が固いのかもしれない、なんてことを思った。
ちなみに、本田くんはそれから二週間後、何ともなかったように現れ、昴さんと仲睦まじげに話していた。
うん。
さっぱりわからない生き物だな、音楽家って。
――それはある夏の日のこと。
地平線の彼方へと広がる光を見た日の出来事。
私にとって、小さく愉快な疑問が湧いた日のことだった。
第7話fin
突如として彼らの会話が聞こえてきたので、書いたものです。
他にも大バッハの名曲を聴いていると、悩みが消えてなくなる不思議なことがあったりします。
まるで、機械時計のような美しさがあるんですよね。