表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/42

第5話(Re):ウエイトレスは過去を語る

 季節の変わり目って、空気が変わって感じられますよね。

 とても晴れやかな気分になります。


 今回もお決まりの文句を。

 お気軽にお読みください♪



     ◇



「アルバイトを始めたきっかけですか?」

 その問いに、私は過去をふと思い出す。

「別に面白い話でもないですよ?」

 御新規さんは「それでも」と言った。

「……確か五月ぐらいのことでした」

 そう私は前置きして、語り出すのだった。



     ◇



 その日は、たしか土曜日だったと思う。


 二週間前までは、とあるチェーン店のカフェでバイトをしていた曜日だったから。


 高校の時から続けていたバイトだった。

 けれども、人間関係が拗れたから、止めることを決意した。


 他の人が聞いたら、どうってことのない出来事だろう。

 でも、私にとっては大きな出来事だった。


 それ以来、ちょっとした人間不信になりかけていた。

 特に男性と話すことが億劫になっていた。


 自宅にいても悶々とするだけだ。

 だから、気分転換に最寄りの鎌倉駅へと散歩に出掛けた。



 休日の鎌倉は、観光客で賑わう。

 日本人だけでなく、外国人もたくさんいて、様々な言語が飛び交っていた。


 人が一人落ち込んでいようと、世界は回っている。

 私はとってもちっぽけな存在で……。

 なんだか、世界に取り残されているみたいだった。


 鎌倉の風景に入り込み、そんなことを思う。


 私は人混みを避けるように、大通りから脇道へと逸れた。

 小さな保育園から、子たちの明るい声が聴こえる。


 ばさりばさり、と。

 園内には、大きな鯉のぼりが風に靡き、青空を泳いでいた。


 あぁ、もうこどもの日が近いのか。

 子どもの頃は悩みなんてなかったなぁ。


 自由に空を泳ぐ鯉のぼりを見て、感傷に浸っていた。


 私はさらに小道を奥へと進む。


 ようやく閑静な一角にたどり着いた時、小さな一軒の喫茶店を見つけた。


『名曲喫茶【ベガ】営業中』


 看板には、そうあった。


 小ぢんまりとしたお店。

 いかにも売れていない喫茶店といった感じだった。


 店内は薄暗かった。

 本当に営業しているのかな?

 なんて疑問に思う。


 でも、今の私には、丁度良かった。

 人混みからなるべく離れたかったから……。


 気がつけば、自然と中へと入っていた。


 ちりん、ちりんと。

 扉につけられた鈴の音が響く。


「むっ、客か」




 それが私と(すばる)さんの出会いだった。




 その男性は、セミフォーマルな格好をしていた。

 真っ白なシャツ、薄手の黒いテーラードジャケットを着込んでいる。


 店の奥に佇むグランド・ピアノに向かっている姿が、とても似合っていた。


「あ、あのぅ。営業中ですか?」


 私は確かめるように言った。


「いかにも。君は店の前の看板を見なかったのか」


 ぶっきらぼうに答える男性。


「こらこら、昴ちゃん。ご新規さんに愛想悪くしないの」


 すると、おっとりとした声が聞こえた。


 そちらへ向くと、一人の老婦が客席に腰かけているのが見えた。


「ぬぅ。い、いらっしゃいませ。席は空いているところを自由に」


 いかにも不馴れな様子で、昴ちゃんと呼ばれた男性が案内をする。


「ごめんなさいねぇ、無愛想な子で。私はこの店の常連客なの。鈴木千代(すずきちよ)よ。よろしくね」


「あっはい。那須賀雪菜(なすがゆきな)です。よろしくお願いします」


 名乗られたので、つい反射的に自分も名乗ってしまう。


「あら、礼儀正しい子。昴ちゃんにも見習ってほしいわ」


 何だかどっちがお客さんで店員か分からないなぁ。

 なんてことを思いつつ、客席に着いて、メニューを眺める。


「お茶の味は期待しない方がいいわよ。前の店長が引退しちゃって、めっきり不味くなったから」


 鈴木さんは笑顔で酷いことを言い切った。


 もしかしたら?

 結構毒舌な人なのかな?


 私はそんな印象を受けた。


「……仕方あるまい。急に父が倒れたんだ。俺に期待されても困る。他人を雇わん限り、無理というものだよ」


 あはは、と私は乾いた笑いで誤魔化しておく。


 ハズレのお店、引いたかな。


 かといって、何も頼まずに出る訳にもいかない。


 私は適当にアイスティーを注文した。

 出された紅茶は、確かにそこら辺で飲むインスタントの味がした。


 あー、これ。

 ハズレだな。


 仮にも、喫茶店を名乗ってインスタントはダメだ。

 私は、ある意味期待通りの味に、肩を落とした。


 早めに出よう。

 そう決めていると、鈴木さんが私を見ていった。


「ねぇ、昴ちゃん。せっかくご新規さんがいらしたんですから、何か弾いてあげてはどうかしら?」


 早々に飲み干して、退散しようとしていたところだった。


 曲?

 ああ、そうか。

 名曲喫茶なんだから、そういうサービスもあるのか。


 なんて私が思っていると……。


「別にいいが。何か弾いてほしいものはあるか?」


 昴さんが私に問いかけた。


 と言われても、私には流行りの曲ぐらいを知っている程度。

 ピアノの曲なんて全く知らない。


 困っていると、鈴木さんが助け船を出してくれた。


「でしたら、雪菜ちゃんに合うと思う曲を弾いてあげたらどうかしら」


「……ふむ、よかろう」


 私が口を挟む前に、トントン拍子で話が進んでいく。


「え? いや別に。無いならいいですよ?」


「少し黙っていろ」


 きつい言葉なのに、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 彼としばし見つめ合う。


 なんでだろう?

 あんなに男性を見ることさえも嫌だったのに。



 今思えば……。

 彼の奇天烈な印象に、人間離れした何かを感じ取ったのかもしれない。



「あ、あのう? もういいですか?」


 私の問いを無視する昴さん。

 そして、ピアノと向き合った。


 すっという短い呼吸の後に、私の見知らぬ世界が広がった。






 音が囁くように語りかけてくる。


 長く緩やかに延びるメロディー。

 それに、淡い色をした柔らかな音が重なった。


 そよ風に靡くように、メロディーはそっと揺れる。

 時に風は強くなり、メロディーが大きく揺らめいた。


 と思えば、また優しく包み込むような風に共鳴して、弱く震わせた。


 音が減衰して消え去るまで、その広がりゆく世界が目の前に確かにあった。






 たった、三分にも満たない時間だった。

 なのに、私の心は別の世界へと誘われていた。


 初めて。

 初めて、私は本当の音楽に出逢った。


 音楽の化身とも思える人物の世界に触れてしまった。

 私が、この日の音を忘れることは決してないだろう。



「……あれ、何で私泣いてるんだろう?」


 頬を零れ落ちていく湿った感触に驚いて、声を出す。


「それはね、音楽の神様に触れてしまったからよ」


 私の疑問に、鈴木さんが答えてくれた。


「ああ。音楽の神は気まぐれだからな」


 昴さんも同意するように言った。


「音楽の神様ですか?」


 私はそれが何を意味するのかわからなかった。


 でも、あの世界に触れたことは間違いなくて……。

 それが音楽の神様に逢ったということなのかもしれなかった。


「うむ。逢いたいと焦がれても逢えない。しかし、時に思いもよらぬところで出逢うことがある」


 昴さんが思いを馳せるように、天井を見上げて言った。


 今まで私はこんな世界を知らなかった。


「この曲、なんていう曲なんですか?」


「クロード・ドビュッシーの《亜麻色の髪の乙女》だ」


 亜麻色の髪?

 私は普通の黒髪だけど。


「どうして、この曲にしたんですか?」


 疑問は口から出てしまった。


「君の美しい長髪を見て、この曲を選んだ」


「え?」


 男の人にそんなこと言われたことがなくて、少しドキドキしてしまう。


「あら、ロマンチックねぇ」


「そうだろう。この旋律はまさに風に吹かれて靡く美しい髪のようだ。それまでの機能和声を嘲笑うかのような神秘的な響きも、ドビュッシーの醍醐味と言えよう」


 ……あれ、そっちの話に繋がっていくのか。

 なんていうか、この人、少しずれてる?


「あらあら。本当に困った人。こうなると止まらないわよ」


「ドビュッシーを語る上では、彼の東洋趣味や古代趣味だけでなく、性的趣向も見逃させない。彼は女性の髪に執着していた。それを題材にしたオペラを書くまでにな」


 自分の世界に入り込んでしまった昴さん。


 あー、なるほど。

 こういうタイプの人ね。


 自分の世界を持っていて。

 それ以外は、目もいかない人だ。


 彼の話は、長くなりそうだった。

 呆れた私は、相づちを打ちながら、店内を見渡した。


 そこで、一枚のチラシに目が留まった。



『ウエイトレス、募集中』



 ……もし、ここでバイトをしたら。またあの世界が視えるのかもしれない。


 それはちょっとした好奇心だった。


 私の知らない世界がまた見れたら。

 私も変われるかもしれない。


 気がつけば、私は声を出していた。


「あの、バイトって募集してます?」


 高説を続けていた昴さんがこちらを向く。


「何だ? 音楽に興味がないと思っていたのだが?」


「確かに音楽は全然分かりません。でも、前は喫茶店でバイトしてましたし。ちょうど、新しいバイト先探していたんです。」


「しかし、音楽が分からないとな」


「いいじゃないの。私もあなたの煎れるお茶には飽き飽きしていたの。音楽は昴さん、接客と品物は雪菜ちゃん。バランスがいいわ」


 名案、とばかりに鈴木さんが手を叩いた。


「あの、ダメでしょうか」


 背が高い昴さんを下から覗き込むような形で尋ねる。


「いや、ウエイトレスは欲しかったところだ。給金は高くないがそれでもいいのか?」


「はい! よろしくお願いします」


「それではまた来週に履歴書を持って来てくれ。考えておく」


「まあまあ。ここに来る楽しみがまた増えたわ」


 そう言って、鈴木さんはにこやかに笑った。




 ーーそれはとある休日のこと。

 初夏の昼下がりの出来事。

 私にとって、初めて音楽の神様と出逢った日のことだった。



     ◇



 夏の名残を感じる日のことだった。

 お客さんも帰り、すっかり日も暮れていた。


 あらかた片付けを終えたところで、何とはなしに昴さんへ問いかけた。


「人生、何が起こるかわからないですね」


 私は初めてここを訪れた日のことを思い出して言った。

 そう。音楽の神様と出逢ってしまった日のことだ。

 あの日、私は音楽の神様に救われたのかもしれない。


 昴さんを見て、そんなことを思っていた。


「どうした、藪から棒に。若者の言葉とは思えん」


「昴さんだって、まだまだじゃないですか」


「ふん。生意気な小娘よりは、ずっと大人だ」


「大人なら、ちゃんと片付け手伝ってくださいよ」


「そちらは君の担当だろう? 何を言っている」


「私だってクラシック勉強してるんですから、昴さんもちゃんと仕事してください」


「馬鹿馬鹿しい。身の程を知れ、というものだよ」


 私と昴さんはそれからしばらくあーだこーだと言い合い続けるのだった。



第5話fin

 ドビュッシーの音楽は、寝る前に聴くことが多いです。

 柔らかな響きで、心地よく、穏やかになれるんですよね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] その話に出てくる曲を聴きながら読みたい、そう思うような物語です。 雪菜と昴の掛け合いも、微笑ましくて好きです。 [一言] 楽しく読ませていただいております。 更新作業、がんばってください!…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ