第5話(Re):ウエイトレスは過去を語る
季節の変わり目って、空気が変わって感じられますよね。
とても晴れやかな気分になります。
今回もお決まりの文句を。
お気軽にお読みください♪
◇
「アルバイトを始めたきっかけですか?」
その問いに、私は過去をふと思い出す。
「別に面白い話でもないですよ?」
御新規さんは「それでも」と言った。
「……確か五月ぐらいのことでした」
そう私は前置きして、語り出すのだった。
◇
その日は、たしか土曜日だったと思う。
二週間前までは、とあるチェーン店のカフェでバイトをしていた曜日だったから。
高校の時から続けていたバイトだった。
けれども、人間関係が拗れたから、止めることを決意した。
他の人が聞いたら、どうってことのない出来事だろう。
でも、私にとっては大きな出来事だった。
それ以来、ちょっとした人間不信になりかけていた。
特に男性と話すことが億劫になっていた。
自宅にいても悶々とするだけだ。
だから、気分転換に最寄りの鎌倉駅へと散歩に出掛けた。
休日の鎌倉は、観光客で賑わう。
日本人だけでなく、外国人もたくさんいて、様々な言語が飛び交っていた。
人が一人落ち込んでいようと、世界は回っている。
私はとってもちっぽけな存在で……。
なんだか、世界に取り残されているみたいだった。
鎌倉の風景に入り込み、そんなことを思う。
私は人混みを避けるように、大通りから脇道へと逸れた。
小さな保育園から、子たちの明るい声が聴こえる。
ばさりばさり、と。
園内には、大きな鯉のぼりが風に靡き、青空を泳いでいた。
あぁ、もうこどもの日が近いのか。
子どもの頃は悩みなんてなかったなぁ。
自由に空を泳ぐ鯉のぼりを見て、感傷に浸っていた。
私はさらに小道を奥へと進む。
ようやく閑静な一角にたどり着いた時、小さな一軒の喫茶店を見つけた。
『名曲喫茶【ベガ】営業中』
看板には、そうあった。
小ぢんまりとしたお店。
いかにも売れていない喫茶店といった感じだった。
店内は薄暗かった。
本当に営業しているのかな?
なんて疑問に思う。
でも、今の私には、丁度良かった。
人混みからなるべく離れたかったから……。
気がつけば、自然と中へと入っていた。
ちりん、ちりんと。
扉につけられた鈴の音が響く。
「むっ、客か」
それが私と昴さんの出会いだった。
その男性は、セミフォーマルな格好をしていた。
真っ白なシャツ、薄手の黒いテーラードジャケットを着込んでいる。
店の奥に佇むグランド・ピアノに向かっている姿が、とても似合っていた。
「あ、あのぅ。営業中ですか?」
私は確かめるように言った。
「いかにも。君は店の前の看板を見なかったのか」
ぶっきらぼうに答える男性。
「こらこら、昴ちゃん。ご新規さんに愛想悪くしないの」
すると、おっとりとした声が聞こえた。
そちらへ向くと、一人の老婦が客席に腰かけているのが見えた。
「ぬぅ。い、いらっしゃいませ。席は空いているところを自由に」
いかにも不馴れな様子で、昴ちゃんと呼ばれた男性が案内をする。
「ごめんなさいねぇ、無愛想な子で。私はこの店の常連客なの。鈴木千代よ。よろしくね」
「あっはい。那須賀雪菜です。よろしくお願いします」
名乗られたので、つい反射的に自分も名乗ってしまう。
「あら、礼儀正しい子。昴ちゃんにも見習ってほしいわ」
何だかどっちがお客さんで店員か分からないなぁ。
なんてことを思いつつ、客席に着いて、メニューを眺める。
「お茶の味は期待しない方がいいわよ。前の店長が引退しちゃって、めっきり不味くなったから」
鈴木さんは笑顔で酷いことを言い切った。
もしかしたら?
結構毒舌な人なのかな?
私はそんな印象を受けた。
「……仕方あるまい。急に父が倒れたんだ。俺に期待されても困る。他人を雇わん限り、無理というものだよ」
あはは、と私は乾いた笑いで誤魔化しておく。
ハズレのお店、引いたかな。
かといって、何も頼まずに出る訳にもいかない。
私は適当にアイスティーを注文した。
出された紅茶は、確かにそこら辺で飲むインスタントの味がした。
あー、これ。
ハズレだな。
仮にも、喫茶店を名乗ってインスタントはダメだ。
私は、ある意味期待通りの味に、肩を落とした。
早めに出よう。
そう決めていると、鈴木さんが私を見ていった。
「ねぇ、昴ちゃん。せっかくご新規さんがいらしたんですから、何か弾いてあげてはどうかしら?」
早々に飲み干して、退散しようとしていたところだった。
曲?
ああ、そうか。
名曲喫茶なんだから、そういうサービスもあるのか。
なんて私が思っていると……。
「別にいいが。何か弾いてほしいものはあるか?」
昴さんが私に問いかけた。
と言われても、私には流行りの曲ぐらいを知っている程度。
ピアノの曲なんて全く知らない。
困っていると、鈴木さんが助け船を出してくれた。
「でしたら、雪菜ちゃんに合うと思う曲を弾いてあげたらどうかしら」
「……ふむ、よかろう」
私が口を挟む前に、トントン拍子で話が進んでいく。
「え? いや別に。無いならいいですよ?」
「少し黙っていろ」
きつい言葉なのに、不思議と嫌な気分にはならなかった。
彼としばし見つめ合う。
なんでだろう?
あんなに男性を見ることさえも嫌だったのに。
今思えば……。
彼の奇天烈な印象に、人間離れした何かを感じ取ったのかもしれない。
「あ、あのう? もういいですか?」
私の問いを無視する昴さん。
そして、ピアノと向き合った。
すっという短い呼吸の後に、私の見知らぬ世界が広がった。
音が囁くように語りかけてくる。
長く緩やかに延びるメロディー。
それに、淡い色をした柔らかな音が重なった。
そよ風に靡くように、メロディーはそっと揺れる。
時に風は強くなり、メロディーが大きく揺らめいた。
と思えば、また優しく包み込むような風に共鳴して、弱く震わせた。
音が減衰して消え去るまで、その広がりゆく世界が目の前に確かにあった。
たった、三分にも満たない時間だった。
なのに、私の心は別の世界へと誘われていた。
初めて。
初めて、私は本当の音楽に出逢った。
音楽の化身とも思える人物の世界に触れてしまった。
私が、この日の音を忘れることは決してないだろう。
「……あれ、何で私泣いてるんだろう?」
頬を零れ落ちていく湿った感触に驚いて、声を出す。
「それはね、音楽の神様に触れてしまったからよ」
私の疑問に、鈴木さんが答えてくれた。
「ああ。音楽の神は気まぐれだからな」
昴さんも同意するように言った。
「音楽の神様ですか?」
私はそれが何を意味するのかわからなかった。
でも、あの世界に触れたことは間違いなくて……。
それが音楽の神様に逢ったということなのかもしれなかった。
「うむ。逢いたいと焦がれても逢えない。しかし、時に思いもよらぬところで出逢うことがある」
昴さんが思いを馳せるように、天井を見上げて言った。
今まで私はこんな世界を知らなかった。
「この曲、なんていう曲なんですか?」
「クロード・ドビュッシーの《亜麻色の髪の乙女》だ」
亜麻色の髪?
私は普通の黒髪だけど。
「どうして、この曲にしたんですか?」
疑問は口から出てしまった。
「君の美しい長髪を見て、この曲を選んだ」
「え?」
男の人にそんなこと言われたことがなくて、少しドキドキしてしまう。
「あら、ロマンチックねぇ」
「そうだろう。この旋律はまさに風に吹かれて靡く美しい髪のようだ。それまでの機能和声を嘲笑うかのような神秘的な響きも、ドビュッシーの醍醐味と言えよう」
……あれ、そっちの話に繋がっていくのか。
なんていうか、この人、少しずれてる?
「あらあら。本当に困った人。こうなると止まらないわよ」
「ドビュッシーを語る上では、彼の東洋趣味や古代趣味だけでなく、性的趣向も見逃させない。彼は女性の髪に執着していた。それを題材にしたオペラを書くまでにな」
自分の世界に入り込んでしまった昴さん。
あー、なるほど。
こういうタイプの人ね。
自分の世界を持っていて。
それ以外は、目もいかない人だ。
彼の話は、長くなりそうだった。
呆れた私は、相づちを打ちながら、店内を見渡した。
そこで、一枚のチラシに目が留まった。
『ウエイトレス、募集中』
……もし、ここでバイトをしたら。またあの世界が視えるのかもしれない。
それはちょっとした好奇心だった。
私の知らない世界がまた見れたら。
私も変われるかもしれない。
気がつけば、私は声を出していた。
「あの、バイトって募集してます?」
高説を続けていた昴さんがこちらを向く。
「何だ? 音楽に興味がないと思っていたのだが?」
「確かに音楽は全然分かりません。でも、前は喫茶店でバイトしてましたし。ちょうど、新しいバイト先探していたんです。」
「しかし、音楽が分からないとな」
「いいじゃないの。私もあなたの煎れるお茶には飽き飽きしていたの。音楽は昴さん、接客と品物は雪菜ちゃん。バランスがいいわ」
名案、とばかりに鈴木さんが手を叩いた。
「あの、ダメでしょうか」
背が高い昴さんを下から覗き込むような形で尋ねる。
「いや、ウエイトレスは欲しかったところだ。給金は高くないがそれでもいいのか?」
「はい! よろしくお願いします」
「それではまた来週に履歴書を持って来てくれ。考えておく」
「まあまあ。ここに来る楽しみがまた増えたわ」
そう言って、鈴木さんはにこやかに笑った。
ーーそれはとある休日のこと。
初夏の昼下がりの出来事。
私にとって、初めて音楽の神様と出逢った日のことだった。
◇
夏の名残を感じる日のことだった。
お客さんも帰り、すっかり日も暮れていた。
あらかた片付けを終えたところで、何とはなしに昴さんへ問いかけた。
「人生、何が起こるかわからないですね」
私は初めてここを訪れた日のことを思い出して言った。
そう。音楽の神様と出逢ってしまった日のことだ。
あの日、私は音楽の神様に救われたのかもしれない。
昴さんを見て、そんなことを思っていた。
「どうした、藪から棒に。若者の言葉とは思えん」
「昴さんだって、まだまだじゃないですか」
「ふん。生意気な小娘よりは、ずっと大人だ」
「大人なら、ちゃんと片付け手伝ってくださいよ」
「そちらは君の担当だろう? 何を言っている」
「私だってクラシック勉強してるんですから、昴さんもちゃんと仕事してください」
「馬鹿馬鹿しい。身の程を知れ、というものだよ」
私と昴さんはそれからしばらくあーだこーだと言い合い続けるのだった。
第5話fin
ドビュッシーの音楽は、寝る前に聴くことが多いです。
柔らかな響きで、心地よく、穏やかになれるんですよね。