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第37話︰二つの即興曲

 この曲は有名すぎて知っている方も多いでしょうか。タイトルは知らないけれども聞き覚えはあるかなと思います。


 それでは、ごゆっくりお読みください♪

 ちりん、ちりんと。

 鈴の音と共に、二人の男女が入ってくる。


「こんにちは、武蔵野先生いらっしゃいます?」


 一人の女性は昴さんの教え子の上戸日和かみとひよりさんだった。

 その後ろで、もじもじとしている少年には見覚えがない。


「店長ならいつも通り、ピアノと向き合っていますよ」


 私がそう言うと、二人で客席についた。


「アイスコーヒー一つと、チョコレートケーキ一つください」


 手慣れた風に注文を言う日和さんに対して、少年は慌てたようにメニュー表を開きだした。


「……僕はアイスティーとチョコレートケーキで」


 か細い声で言う少年。


「かしこまりました。……店長、お客さんですよ」


 私は注文を取り終えると、昴さんに呼びかけた。


「ふむ、筆が乗っていたというのに。君か、日和君」


「はい。ちょっとご相談したいことがありまして」


「どうした? 歯切れが悪いな。恋の悩みは受け付けておらんぞ」


「恋なんかじゃないですよ! 彼、高垣奏太たかがきそうた君っていうんですけど、二人で2台ピアノをサロンコンサートですることになったんですよ」


「いいではないか。二台ピアノはなかなか弾くこと

がない。良いチャンスだろう」


「そうなんですけど。ちょっと問題がありまして。私と彼の息が全く合わないんです。聞いてみるのが一番だと思います」


「奏太君、と言ったかね。何か一曲弾いてみたまえ」


 そう言うと、奏太君は少しうれしそうな顔をする。


 ピアノ椅子に座る奏太君。


 あんな気弱そうな子が大丈夫かな、なんて考えは彼の繰り出される一音目で吹き飛んだ。




 力強い音が長く伸び、また力強い音が鳴らされる。

 そして左手の伴奏に乗せられて、旋律が素早く動き出す。

 旋律はどこか遠くへ行きそうなほど速く速く上り詰めていく。

 まるで天空を目指すかのように上り詰めた後、音が落っこちていく。

 がらがらと階段を落ちるように落っこちていった。

 そして、曲の雰囲気が変わる。

 まるで妖精が飛び跳ねて遊んでいるかのように、楽し気に音楽が流れていく。

 その後、再び力強い旋律と共に伴奏が帰ってきた。

 進めば進むほど、彼の世界が構築されていく。

 後半になると、激情が溢れ出すように音が紡がれていった。

 まるで叫び声のように。

 最後は妖精たちが消え去るように音楽は締めくくられた。




 私は思わず拍手をした。

 だが拍手をしていたのは私だけで、昴さんと日和さんは頭を抱えていた。


「なるほどな。君との相性があまりに悪すぎる」


 昴さんはそう言った。

 奏太君は客席に戻る。


「そうなんですよね。彼、明らかに天才型のタイプじゃないですか。私はどちらかというと譜面とにらめっこするタイプなのでどうにも息が合わなくて」


「日和君、君は譜面ではなく、彼の音をよく聞いて合わせるように。そして、奏太君。君は音楽が好きかね?」


「……はい。言葉よりも自分を表現できますから」


「だとしたら、もっと譜面と作曲者と向き合わなくてはならん。君が弾いた曲は、フレデリック・ショパンの即興曲第四番嬰ハ短調作品六十六番、通称〈幻想即興曲〉ではあるが、まるで別の曲だ」


「よく言われます」


「君はショパンの手が小さかったことを知っているかね」


「いいえ」


「彼の手はピアニストの手としては驚くほど小さかった。博物館に手形が残っているので、周知の事実だ。しかし、彼の作った曲はオクターブを超えるパッセージが非常に多い。これが何を意味するか分かるかね」


「ええっと、頑張って弾いた、とかでしょうか」


「それは違う。彼は良く弟子たちに言っていたそうだ。『もっと手首を柔軟に使いなさい』と。君は手の大きさに胡坐をかいた演奏をしている」


 昴さんはそう言うと、ピアノ椅子に座った。




 力強い音が二回打ち鳴らされ、音楽が始まる。

 でも、奏太君の演奏とは違う。

 指がまるで踊るように、音を奏でていく。

 切なげなその旋律は、誰かを追い求めているように感じた。

 妖精が飛び跳ねていた箇所は、誰かに囁くように甘くほろ苦い音色がした。

 そして、再びうねりを帯びて流れるような伴奏と共に旋律が走り出した。

 最後は、名残惜しそうに愁いを帯びたメロディが低音で鳴らされて終わった。




 まるで別の曲を聴いているかのようだった。

 それは奏太君も感じたようで、目を輝かせていた。


「奏太君。君は充分にピアノと会話をしている。だが、まだ作曲家と譜面との会話がおざなりになっている。よくよく考えながら向き合うといい」


「はい!」


「二台ピアノは一人が寄り添えばいいものではない。期待しているぞ」


 そう言った昴さんはまたピアノとにらめっこを始めてしまった。


「もう、これだから店長は」


 私の愚痴に日和さんが笑う。


「これ、渡しておきますね」


 日和さんは二枚のチケットを私に渡す。


「サロンコンサートのチケットです。ぜひ、武蔵野先生と聞きに来てください。それまでに二人の息が合うように練習しておきますから」


「ありがとうございます、店長にも後で渡しておきますね。二人がいい演奏できるように祈っておきます」


 私に出来ることはそれぐらいだから。



      ◇



 二人が帰った後、私は昴さんに聞いた。


「奏太君の演奏、そんなに酷かったんですか? 私、感動しちゃったんですけど」


「いいや、彼にしかできない演奏だったと言わざるを得んな。あれは確かに彼の〈幻想即興曲〉だった」


「それじゃあ、どうしてあんなこと言ったんですか?」


「音楽の世界は広い。彼がソロで演奏するならばそれで良かったかもしれん。だが、今回の件は彼にも大きな糧になるだろう。人と合わせるとはそういうものだ」


「難しいですね」


「この世に簡単なものなど有りはしないよ」


 昴さんは何か懐かしむようにそう言った。

 その表情に、私は何とも言えぬ寂しさを感じるのだった。

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