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第34話︰苦々しい壁

暑い日が続きますね。

どうかお体を大切に。


それではいつもの文句を。

お気軽にお読みください♪

「お久しぶりです、武蔵野むさしの先生」


 いつも閑古鳥の鳴く名曲喫茶【ベガ】に珍しく、見ない顔のお客さんが現れた。


「おお、日和君か。久しいな」


「お知り合いですか? 店長」


「ふむ。彼女が中高生の間、ピアノのレッスンをしていた子だよ」


上戸日和かみとひよりです。こちらのお方は?」


 そう名乗った彼女は自分と同じぐらいの年齢、大学生に見えた。

 穏やかで優しそうな目付きをしているのが印象的な女性だ。


那須賀雪菜なすがゆきなです。この店でウエイトレスをしてます」


「あぁ、なるほど。マスターがいなくなったからですね」


 彼女はこの喫茶店の状況をある程度把握しているようだった。


「むぅ、そう言われると癪に障るな」


「だって武蔵野先生、音楽以外からっきしじゃないですか」


 いいぞ。

 もっと言ってやれ!

 私は内心でそんなことを思っていた。


「あっ、アイスコーヒーとチョコレートケーキをお願いします」


 思い出したかのように、注文を言う日和さん。


「かしこまりました。はぁ」


 例のごとく全く動く気配のないすばるさんを見て、大きなため息を吐く。


「それで、日和君は何をしにここへ来たんだ?」


「ちょっと今、スランプ中でして。久しぶりに武蔵野先生のアドバイスが欲しいなっと」


「はい。それで、今ついている先生がちょっと個性的というか、感覚的というか。……。今、レッスンが第一音目で止まってるんです。とにかくどうすればいいのか分からなくて」


「それで、ここに来たという訳か」


「そうです」


 スランプかぁ。

 音楽家って大変なんだなぁ。

 私にはわからない感覚だから黙っておく。


「一度、音楽を聴いてみないと分からんな。今、やっている曲を弾いてみてくれ」


「はい!」


 そう言うと、彼女の目つきが変わった。



 じゃーん、

 強烈な響きが広がる。

 彼女の優しげな印象と違って、狼が牙を剥いたかのような音が響き渡る。

 それに続き、浮き上がるような音が続く。

 そしてまた、じゃ、じゃーん、と痛烈な音が響く。

 優しげな音色が響いたかと思えば、すぐに断頭台のギロチンのように暗い音が落ちてくる。

 そして、音の羅列が始まった。

 低い音が続々と迫ってくるように連続で叩かれる。

 そして右手が徐々に鍵盤の上へと登っていく様子が見えた。


 鬼気迫るその音楽は、とても温和そうな彼女から、放たれているものとは思えなかった。



「もういい。そこまでだ」


 急に昴さんが音楽を止めた。


「何か間違っていましたか?」


 戸惑う日和さん。


「いいや、君の演奏は譜面に忠実だ。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ第八番ハ短調、通称〈悲愴〉。その譜面をよく読んでいることは分かる」


「じゃあ何で?」


 思わず口に出してしまう私。

 とてもスランプには思えない演奏だったのに。


「譜面に忠実過ぎるのだよ。彼女の演奏には、彼女が弾く意味がまるでみえない。機械が自動演奏しているのかのように忠実だった」


「はい。今の先生にも似たようなことを言われました。でも、今までそうやって演奏してきたから、どうしたらいいのか分からなくて」


 それがスランプなのか。

 立派に演奏出来ていたら、それでいいんじゃないかなぁ、なんて思うのは私だけだろうか。


「この曲の特徴は最初のGraveグラーヴェにある。今までのピアノソナタが第一主題を初めに置いているにも関わらず、あえてこの曲は序奏が付けられている。君はそこに何を見出す?」


「ベートーヴェンの苦悩と情熱です」


「……ふむ。そこに、君の苦悩と情熱は含まれているか?」


「い、いえ」


「君は大作曲家ベートーヴェンの影を追い続けている。それは大変結構なことだが、時にピアニストは自分も表現しなければならない。まだ、若いが君にも苦悩や情熱があるだろう?」


「なるほど。……そうですね。少し家で考えてみます」


 そう言った日和さんの眼は燃えているように見えた。


「はい、アイス珈琲とチョコレートケーキのセットです。難しい話はここまでにして、甘いものでも食べましょう? 日和さん」


「ありがとうございます」


 日和さんは、にこやかに答える。


「しかし、楽聖たるベートーヴェンはなぜこの曲に序奏を付けたのだろうな。いや、なければならなかった理由とは何だろうか? フランス革命の影響か、それとも日々悪化を辿る自身の耳の影響か……」


 完全にスイッチが入ってしまった昴さんを横目に、私は日和さんに声をかける。


「何か掴めましたか?」


「まだですけど、糸口は掴めたかもしれません」


「だったら、良かった。店長の演説を嫌がらずにまた来てくださいね」


「ふふ、私も慣れてます」


 私達はお互いに見合いながら笑うのだった。



     ◆



「店長、今日はいつもと違いましたね」


「ん? なにかね」


「ほら、いつもだったら、ベートーヴェンの音楽とはとか永遠に演説を言って聞かせるじゃないですか」


「演説しているつもりはないのだが。まぁ、彼女はその域を脱していた。新しい壁にぶつかっている時期なのだよ」


「新しい壁、ですか」


「音楽家は時に自分と向き合わなければならない。彼女も自分が何を表現したいのか考えなければならない時期が来たのだろう」


「店長にもあったんですか?」


「もちろん。……余程の天才でない限り、苦悩は付きまとうものだ」


 私の淹れた珈琲を飲みながら、苦々しげに昴さんはそう言った。

〈悲愴〉にはちょっと思い入れがあったりします。二楽章もとても有名ですので、ぜひお聴きください。

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