第26話:蝶の舞う夢
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それは小町通りの町並みから、お正月の飾り付けも消えた平日のことだった。
夕日もとうに落ち、外は暗闇に包まれていた。
ちりんちりん、と。
閉店の支度をしていたところで、鈴の音が鳴った。
「マスター。まだやってるか?」
入ってきたのは、よれたスーツに黒いコートを着込む三十代半ばの男性だった。
あっ。
仕事終わりに、時々やってくる常連さんだ。
「無論だとも。どこでも好きに座るといい」
昴さんが簡潔に言う。
私も閉店準備を止めて、珈琲の準備を始めた。
多分、彼の注文は……。
ホットの珈琲、ミルクはなしのはず。
「ウエイトレス。ホットの珈琲を。ミルクはいらない」
コートを椅子にかけながら、注文する男性。
案の定だった。
「かしこまりました」
私は事前に準備していたこともあって、素早く、客席に珈琲をお出しした。
「マスター。今日はニコライ・カプースチンから何かを弾いてくれ」
「承知した」
淡々と会話をするサラリーマンと昴さん。
この二人のやり取りってなんか大人の雰囲気が漂うんだよね。
渋い喫茶店でバイトしているみたいな感覚になる。
昴さんがピアノにつき、鍵盤に指を置く。
あれ? 今日はレコードじゃないんだ。クラシックの曲なのかな?
なんて思いつつ、彼の演奏を待った。
それは、蝶が羽を緩やかに伸ばすような音から始まった。
お洒落な響きで、耳がとても癒される。
これ、ジャズっぽい。でもクラシックなのかな?
私は疑問を抱きながら、耳を傾け続ける。
暖かな日差しが差していた。
淡い色をした空の下、蝶は風に揺られながら、ひらりひらり、と翔び回る。
目の前には、果てしない花畑が広がっている。
白色、水色、黄緑色に薄紅色……。
実に美しい花々が、私を誘っている。
蝶は甘い蜜の香りにつられて、あちらへこちらへと翔んだ。
そして……。
一片の花弁に腰を落ち着けて、はたりと羽を畳む。
そんな光景が目に浮かんだ。
……まるで泡方の夢のように美しい一時だった。
「ウエイトレス。会計を」
音楽を楽しんだ後、しばらくして珈琲を飲み終えた男性は席を立った。
「はい。四百円です」
彼は相変わらずの無言で店を出て行く。
本当に不思議な常連さん。
その背中を見て思った。
その後、私は先程抱いた疑問を昴さんに投げ掛けた。
「あのぅ。今の曲ってクラシックですか?」
「ふむ。何とも言えないな。クラシックであり、近代の音楽、ジャズやビックバンドなどが融合した新しい音楽といえる」
「そうですよね。なんかお洒落なんですけど、クラシックっぽさがありました。なんていう曲なんですか?」
「ニコライ・カプースチンの作品四十の二番、《夢》だ」
「やっぱり、夢のような音楽だと思ったんです!」
「そうか。確かにテンションコードが多分に含まれていて、柔らかな響きをしている曲だからな」
「これって、いつの時代の音楽なんですか?」
現代の音楽っぽいんだけど、ポップスとは違うし。かといって、クラシックとも言い難いし。
「近代、いや現代になるか。そもそも、そうやって区分することが愚かかもしれない。音楽史など我々が勝手に分けているだけだ。音楽は音楽でしかないのだからな」
「えっと、新しい音楽ってことは、わかりました」
歴史区分とかそういう難しいことはわからないし。
昴さんに聞いたのが、間違いだったな。
「ちなみに、カプースチンはご存命の作曲家だぞ」
「そうなんですね! じゃあ、新しい音楽で当たってるってことだ!]
私も、音楽についてちょっとは敏感になったんじゃない?
なんて……。
少しだけ嬉しくなった。
「ふむ。となると……、やはり現代音楽となるか」
そう言って、昴さんはぶつぶつと考え込んでしまった。
あー。話題提供しなきゃ良かったかも……。
私はそんな昴さんは放っておいて、片付けを進めることにしたのだった。
――それはとある平日の夜のこと。
蝶が淡い色の空を舞う日の出来事。
私にとって、泡方の夢のような時間だった。
第26話fin
カプースチンの作品はどれも大好きです♪




