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第1話(Re):店長は音楽変人!

 この曲は、CMなどで一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 季節外れのお菓子感覚にどうぞ。


    ◇


「この喫茶店の店長って、どんな人ですか?」

 そう聞かれると、返答に困る。

 だが、簡潔に言うと、こうなるだろう。

「イケメンだけど、残念な人ですね」

 私はにっこりと、御新規さんに答えたのだった。


    ◇


 真夏の太陽光がまぶしい。

 昼下がりの鎌倉駅周辺は、観光客で賑わっていた。


 じめじめした空気の中で、人々が行き交う。


「お待たせ、待った?」

「今来たところ」

「%#&#%¥$§$」

「¥%℃#♯!」


 国籍なんて関係ない。

 日本語も、中国語も、韓国語も、英語も入り交じる。


 私はそんな駅前を通りすぎて、小町通りへと入る。

 その一本の通りは、緩やかな傾斜があった。


 奥まで見通せる商店街は、様々な店が立ち並ぶ。

 お土産屋、老舗の駄菓子屋さん、そしてアクセサリーショップに、服屋さんなどなど……。


 観光客は手に食べ物を持って、その道を歩いていく。


「わぁ、なにこれ。可愛い!」

「見て見て! これも面白いよ!」


 観光客は、開けた店内の掘り出し物を見つけては足を止め、また新しいお店へと足を運ぶ。


 そんな小町通りを途中まで進み、大きな十字路を横に曲がる。

 すると、それまでの喧騒が嘘のように閑静な通りに出た。


 その道を進み、また一本曲がり、保育園を横切る。


 そこに、私のバイト先、名曲喫茶【ベガ】はあった。


『名曲喫茶なんて、入りづらそうな場所でしょ?』

 そう思うのも仕方ない。

 私だってそう思う。


 実際、【ベガ】は人入りの多い店じゃない。

 小ぢんまりとした店だった。

 営業中の看板がなければ、店だとも思わないかもしれない。


 三ヶ月ほど前の自分だったら……。

 ここでバイトをするなんて夢にも思わないだろう。


 私はうだるような暑さに辟易していた。

 なので、急いで店内へと入った。


 ちりん、ちりんと。

 扉に備え付けられた鈴が鳴る。


 すると、冷房の効いた空気が一気に流れ出る。

 一息ついた私は、店内へ呼び掛けた。


「店長ー、お仕事サボらないでください!」


 返事はない。

 仕方なく、私は店内を見渡した。


 中は営業中を疑うレベルに暗い。

 電気をつけると、店内の姿が鮮明になった。


 壁一面に、無数のレコードや楽譜たちが棚に並べられている。

 さらに、見たこともない楽器が無造作に置かれていた。

 窓側を見れば、喫茶店は三つだけ客席がある。

 そして、部屋の奥には、レコードプレイヤーと、大きめのスピーカー、そしてグランド・ピアノが置かれていた。


「もう、店長! 電気ぐらいつけて下さい!」


 カウンターにいるはずのその人は……。

 やはり、ピアノの前に陣取っていた。


「煩いな、雪菜(ゆきな)君。女性ならば慎みを持ちたまえ」


 演奏だけは止める彼。

 しかし、楽譜から目を離さず、偉そうに言った。


 少しばかり不満げだ。

 内心の怒りを圧し殺して、私は笑みを浮かべた。


「お客さん、来るかもしれないですよ? きちんとして下さい」


「別によかろう。客など来る気配もない」


 それは、電気も付けなかったからでしょ!

 と、怒鳴ったところで変わらない。

 私は諦めと共に、彼をじっと睨んだ。


 彼は武蔵野昴(むさしのすばる)さん。

 この喫茶店の店主であり、作曲家だ。

 と言っても、店長は名ばかりだけど。


 歳は大学生の私より少し上程度で、二十代後半。

 見た目と服のセンスだけは良い。

 今日も高そうな白いシャツに、デニムの長ズボンを着ていた。

 客と間違われそうな出で立ちでしょ?


「そんなこと言ったって……。常連さんもいるんですから」


 私はそう言って、バックヤードへ行き、びしりとエプロンを身に付けた。


「ほら、店長も」


 エプロンをもう一枚、放って投げる。

 昴さんは嫌々ながらも身に付けた。


 すると……。

 ちりん、ちりんと。

 鈴の音が鳴って、扉が開かれた。


「あらあら。外でピアノの音が聴こえたから、来てみたのだけど。お邪魔だったかしら?」


 ふふ、と。

 歳のいったお婆さんが、小さく微笑んで入ってきた。


「あっ、鈴木(すずき)さん。いらっしゃいませ」


 彼女はご近所に住む【ベガ】の常連、鈴木さんだった。


 ほら見たことか。

 と、私が昴さんを見る。


「むぅ」


 一層、彼は苦々しい表情になった。


「こちらメニューになります。いかがなさいます?」


「それじゃあ、アイス珈琲とチョコケーキ。お願いできるかしら?」


「はい、かしこまりました」


 私はいそいそとバックヤードへ戻る。

 そして、珈琲の準備を始めた。


 ちなみに、ケーキは近場の洋菓子店から仕入れている。

 なので、私や店長が作っているわけではない。


「ふん、ふーん♪」


 鼻歌混じりに、お湯を沸かす。

 珈琲はサイフォンで煎れるに限るよね?

 面倒と言われようとも、そこは私のこだわりだ。


 ちなみに、昴さんはその間何もしていない。

 彼曰く。


『喫茶店は道楽だ。常連以外来ない。気楽にやれ』


 とのことだ。

『この人、本当に店長なの?』

 って態度である。


 珈琲の準備を終えて、テーブルにケーキと共に並べる。


「こうやって見ると、雪菜ちゃんが店長みたいね」


 私はその言葉に頷いた。

 しかし、昴さんは首を横に振る。


「いやいや。こんな青二才には任せられませんよ」


 どの口が言うんだ!

 と反論しようとすると……。


「あら。確かに、クラシックの方はまだまだですものね」


 ぐうの音も出なかった。


 子供の頃から、私は外で遊ぶことが好きだった。

 なので、音楽といえば、流行りのポップス程度しか知らない。


 昴さんもうんうん、と頷いていた。

 私はそんな彼を睨む。


「まぁまぁ。二人で役割分担してていいじゃないの」


 嬉しそうに言う鈴木さん。


「んー」

「むう」


 私たちは互いに何も言えなくなってしまった。


 鈴木さんはその様子を見て、笑っていた。


 そして、今度は、昴さんへ向けて注文をした。


「ねぇ、昴さん。さっきの《ムーンライト・ソナタ》をもう一度、弾いてくださらない」


 ムーンライト・ソナタ? なんだそれ。

 と思っていると、昴さんが答えた。


「別にいいが。一楽章だけで構わんか?」


「ええ。こう暑いとね、涼しげな曲が聴きたいのよ」


 それを聞いた昴さんは、優雅に一礼し、ピアノへ向き直った。


 昴さんの目付きと姿勢が変わる。

 とたんに、世界が止まった。


 私はクラシックのことなんて全く分からない。

 だからこそ、感じるのだろう。

 彼が別の世界へ旅立ったように。


 ……しばしの静寂の後、ゆっくりと音楽は始まった。




 

 重く低い音の上を、流れるように音が紡がれていく。

 波のようにたゆたい、浮かんでは沈んでいく。

 淡く儚い光が点滅するように、光が差し、滲んで消える。

 そして、長い音が二度ほど鳴り響くと、音楽は止んだ。




 時間にして、およそ四分程度。

 まるで深海の世界にいるようだった。


 昴さんはやっぱり変人だ。

 視えない世界を創造出来るんだもの。


「ありがとう、昴さん。とてもいい演奏だったわ」


 その言葉で、私は思い出す。

 ずっと呼吸を止めていた。

 私は大きく息を吸ってから言った。


「まるで深い海の底にいるみたいでした」


 それを聞いた鈴木さんは、くすくすと笑った。


「何か間違えてました? 私」


 クラシック無知な部分が出てしまったかな?

 そう私は思った。

 でも、鈴木さんは首をゆっくりと横に振った。


「音楽に間違いなんてないのよ。でしょう? 昴さん」


「あぁ、音楽は平等だ。聴き手は感性に従えば良い」


 こんな時の昴さんは、意地悪を言わない。

 音楽にだけは誠実なのだ。この人は。


「でも……。《ムーンライト・ソナタ》って名前なんですよね。だとしたら、私の答えは間違いなんじゃ」


 腑に落ちなかった私は、疑問を口に出した。


「そもそも《ムーンライト・ソナタ》、すなわち《月光》は作曲者が付けた名前ではない」


「どういうことですか?」


 昴さんの言葉に、興味が湧いた私は続けて尋ねる。


「この曲は誰が作曲したか知っているか?」


「いえ、全く。誰の曲なんですか?」


 私の問いに、大きくため息を吐く昴さん。

 答えは、鈴木さんが言ってくれた。


「ベートーヴェンよ」


「あのベートーヴェンですか? ジャジャジャ、ジャーンの」


「そのベートーヴェンよ。それは交響曲5番の《運命》ね」


 へえ。

 運命って言うんだ。


「まぁ、その《運命》も作曲者が付けた名前ではないのだがな。……それは置いておこう」


 ますます、混乱する私。


「それじゃあ、誰が付けた名前なんですか?」


「確か、詩人なんですっけ? 昴さん」


 当然湧いた私の疑問に、鈴木さんも加わる。


「ああ。ベートーヴェンの死後に、とある詩人が曲を聴き、言ったのだよ。『湖の月光の波に揺られる小舟のようだ』と。それから《月光》と呼ばれるようになった」


 それを聞き、私はまた一つの疑問が浮かんだ。


「じゃあ、本当はなんていう名前なんですか?」


「本人は《幻想曲風ソナタ》と銘打っている」


「なるほど。確かに幻想的でしたね」


「厳密に言うと、ここでいう《幻想曲》は、君の考えている意味とは違うのだがな。まあよかろう」


「ほぇー」


 私は曖昧に相づちを打った。

 ここで深追いしたら、昴さんに火を付けてしまいそうだ。

 しかし、時すでに遅かったようで……。


「この曲は、当時発展途上にあったピアノという楽器の特徴を活かそうとした工夫が随所に見受けられる。ダンパーを上げ続けるなどの発想は、彼にしか思いも付かなかっただろう。やはり誰もが知る名曲中の名曲だな」


 昴さんは嬉々として話し出す。


 いや、あの……。

 その誰もには、私は含まれないんですけどね。

 ダンパー? 何それって感じだ。


「でも、雪菜ちゃんが『幻想的』と言った気持ちも分かるわねぇ」


「む?」


「だって、とても淡い夢の中を漂っているようですもの」


「ふむ。明暗が曖昧なところからそう感じるのかもしれんな。……幻に漂う夢か」


 譜面とにらめっこしながら、昴さんはぶつぶつと言った。

 そして、また別の世界に旅立ってしまう。


 そんな昴さんを他所に、鈴木さんは私を見つめて言う。


「名前の由来も分かったところで。音楽に答えなんてないことは理解できたかしら?」


「なんとなくですけど。思ったままでもいいんだな、とは」


「そうよ。だから雪菜ちゃんにとって、この曲は『深い海の底』でいいのよ?」


 そう言われて、少し嬉しくなる。

 私だけのこの曲。

 何だか特別に思えたのだ。


 一方で、私が感慨に耽っている間、昴さんは……。


「やはりベートーヴェンは音楽界において、最高の革命家の一人と言えるだろう。彼の書く作品は、斬新で、新しい世界の芽吹きをもたらしている。例えば、ソナタという形式においてもそれまでとは違い……」


 などと、完全に別世界に入り込んでしまっていた!


 私は虚空に長々しい解説を始める彼を慌てて止める。


「店長、ストップ! ストップ! お客さんの前です!」


「あらあら。スイッチ入っちゃったわねぇ。こうなると、しばらく止まらないわよ」


 鈴木さんが、ころころと笑う。


 もう! この人は、本当に音楽変人なんだから!


 その後、私はしばらくの間、ピアノの側を離れようとしない昴さんと格闘することになったのだった。


    ◇


 ――それは真夏の昼下がりの出来事。

 何てことはない日常のこと。

 私にとって、ちょっとした避暑のような時間だった。




第1話fin

 もし、曲に興味を持っていただけたなら、一度聞いてみてください。本来ならば、三楽章通して聴くことをおすすめします。ソナタは全て聴いてこそですし。二楽章は明るく、三楽章はカッコイイ。いずれも名曲です。


 もちろん、時間に余裕がなければ一楽章だけでも聴いてみていただけると嬉しいです。


12/22 加筆修正を行いました。よろしければごらんください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 音大生かと思える程の知見と熱量の込められた文章にすっかり魅入って、気付けば一話読み終えていました。 久々に『第一話』読んだ時点で『第一巻』を買いたくなるような衝撃を味わえて嬉しいです。 …
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