ねいちゃー
内容などない。それが駄文である。
今日この日から、私は日記のようなものを書いてみようと思う。なぜかって?思い立ったからだ。思い立った時には誰にも相談することなく、まず始めてみることが大事だと聞いたことがある。たしかに、誰かに相談してしまえば、この日記がこの場に上がることもなかったかもしれない。相談するだけで満足して終わってしまうかもしれないし、相談した人に「いやー、難しいんじゃない?」なんて言われていたらきっと諦めていただろう。
ともあれ、始まってしまった。ちなみに私はこれまでの人生、実に立派な三日坊主として生きてきた。その点ではとても優秀であったと思う。この有能な三日坊主は、本日昼過ぎに「あ、エッセイみたいな日記を書こう。毎週投稿できたら面白いかも。」とか思い立ってしまった。そしてその日の夜である現在、本当に始めてしまったのである。この行動力の根源はいったい何なのであろうか・・・。
第一に考えられるのは、私のねいちゃーであろう。ねいちゃーとはすなわち本質や性質ということだ。この意を「本質」と表記しても“nature”と表記しても変わらないのであろうが、ここでは「ねいちゃー」を採用する。この表記は友人との日常会話でもよく使用しており、私としては最もしっくりくるからだ。何だか話が逸れかかっているが、私のねいちゃーの話である。
たとえば、「石橋を叩いて渡る」という言葉がある。こんな駄文を読んでいる方々は、石橋をどうやって渡るだろうか?叩かずに渡ってしまう人もいれば、ひとしきり叩いてから川にダイブして橋を使わずに泳いで渡る人もいるかもしれない。私なら、とりあえず石橋を叩きまくる。もう、これでもか!!!ってくらいに叩く、ひたすらに。その橋が絶対に落ちないと思えるまで。そして「あ、これは渡れる」と思い立つと、思いっきり足音をたてて大胆に渡る。だってもう落ちないって確認したし。これで落ちたらその時はその時だよね。
つまり、私のねいちゃーとは、安心するまでは長いけど一度安心してしまえばもう何しても怖くない、みたいな感じなのだ。見る人によってはただの馬鹿である。見る人によらなくてもまあまあアホである。しかしこのアホさ加減のおかげでこの「思い立ったら行動」が実行できているわけである。今回の、駄文をここで発表しようと思い立ったことに関しては安心もくそもないわけで、即行動できたわけである。もしこれが知り合いに読まれていたとしても、作者が私だと特定できるわけでもないし。もともと大勢の人に読んでもらえるとも思っていないから失敗とかいう概念も、今回に関してはもはやない。まあこんな思考回路の結果生まれたのがこの駄文である。
そんなこんなでもう1000字を超えた。駄文とはどうしてこんなにも文字数を食ってしまうのやら。そろそろ糖分不足で駄文すらも思い浮かばなくなってきたので、今回本題にしようと思っていた内容は次に回そうと思う。疲れたときに無理するのって良くないし。仕方ないのだ、疲れたら休めるときに休もうと思うのもまた私のねいちゃーなのだから。もし次があれば、もっと立派な駄文を書けるように頑張ろうと思う。
それではまた、次回も読んでくれる稀有な駄文愛好家がいらっしゃればお会いしましょう。
日記とは。