9話 深川幸雄の日常
次の日の朝。深川は自室で目を覚ました。
朝だというのにじっとりと汗が滲むほどの暑さの中、いつものようにベッドがら起き上がる。
だが、いつもと違う点がひとつあった。
「しっかし、暑いなあ。シャワーでも浴びてくっかな」
昨日までの深川であれば憂鬱な気分の中のっそりと起き上がっていた。だが今日は清々しさを覚えながらの早めの起床であった。
手早くシャワーを済ませると、冷凍庫から取り出した食パンをトースターで焼きつつ服を着替える。そして調度焼き上がった頃を見計らい沸かしたお湯でコーヒーを入れる。コーヒーの香りを楽しみながらコップとトーストをテーブルに運んで新聞を広げようとする。
「──あれ? 新聞はどこだ?」
いつものローテーションが滞ったことで少し面倒臭さを覚えながら深川は新聞を探した。だが、何処を探しても新聞は見つからない。
「おかしいな……」
そう思い、まだ完全には目覚めていない脳を働かせようとしたとき、深川はあることに気がついた。
「いや、うちは新聞なんて取ってなかったな……。ってか今気づいたがコーヒーに新聞なんて何で今日はこんなことしてんだ僕は?」
いつものこと、当たり前のことのようにローテーションとして行動していたが、思い返してみれば深川は今までコーヒーを淹れる習慣なんて無かったし、ましてや新聞など読んではいなかった。
「いやぁ何故か清々しい気分だったがここまでやってしまうなんて──ああ、そういえば昨日『生まれ変わった』んだっけ?」
気分が変わればここまで行動が変わるのか? という疑問は浮かびつつも気持ちが一新されていることへの高揚感を強く覚えた深川は、少し余裕をもって学校へと向かっていった。
○
学校に到着した深川は、教室の扉を開け「おはよう」と挨拶した。
中にいた数名のクラスメイトは声のした方を一瞥したが、それが深川のものであると分かると視線を戻した。
一方の深川は挨拶の返ってこないことなど気に留める様子もなく、席について今日の準備を始めようとする。
「『おはよう』だってよ。気色悪い」
何処からかそんな声が小さく聞こえたような気がした。だが気にしないことにした。いつものことだ。深川の机は周囲の物に比べて傷ついていた。それは使い古された為ではなくカッターナイフで付けられた傷であった。いつからだったかは忘れたが、ある日学校へ行くと付けられていたものである。
今まではしょうがないからとその机を使い続けてきていたが、改めて机の上に触れてみると傷跡がザラザラとして快適さを欠いていると感じられた。
深川は授業の始まる前にそれを自習室の机と交換しておいた。
今日の予定は午前も午後も夏期テストとなっており、終始机に座っての筆記であった。周りの生徒たちが難しい試験問題、そして長時間の座りっぱなしで辛そうな表情を浮かべるなか深川は一人楽しく解答を記入していた。
──なんで俺、こんなに解けるんだ?
今までなら解けなかったような問題がスラスラと解けてしまう。深川は頭が澄みきっているような心地よさを覚えながら、ただ解答を書き記すのではなく、如何に明瞭かつ綺麗な計算過程を書き記すかといった遊びをも楽しんでいった。
午前の試験が終わり昼休み。深川は朝にコンビニで買った惣菜パンを持って屋上へと向かった。
「流石にいきなり『昼飯を一緒に食べよう』なんて誘うわけにもいかないからなぁ」
昨日までの自分から生まれ変わった。
それは確かに実感しているのだが、だからといって周囲の人からしてみれば昨日今日で自身に対する見方、接し方が変わるはずもないことを深川は弁えていた。急に親しくもない人間から昼食に誘われても困惑するだけである。
「焦らず、自然にやっていけばいいさ」
そう言い聞かせながら階段を登っていた時である。突如として視界が黒く覆われた。
「──は?」
一瞬の混乱の後、直ぐに気がつく。
――なんだ。女性徒が激しくぶつかってきただけか。それで階段から落ちていると
考え事をしていて気が付かなかったが、そういえば誰かがバカ騒ぎをしながら階段をかけ下りてくる音が聞こえていたなあ等と思いながら、深川は宙に投げ出された浮遊感を覚える。
視線を上げると普段わざわざ見る人もないであろう天井と、そして女性徒の引きつり恐怖した表情。
──ああ、そんな不細工な顔してないで先ず謝罪をだな
深川と女性徒は周囲から沸き起こる悲鳴に包まれながら階段を頭から落ちていった。
ゴドンッ!
鈍く大きな音が響き渡る。その聞き慣れない音が事の重大さを知らしめる。深川は廊下に後頭部を激しく打ち付けていた。
「……ぅ………ん?」
一方で、女性徒は直ぐに起き上がり周囲を見回した。深川に抱き抱えられるようにして落下したこともあり、女性徒に怪我はなかった。
女性徒は直ぐに謝罪しようと思ったが、直ぐに周囲の様子のおかしさに気がついた。
「フフッ良かったね静香。『王子さま』に守ってもらえて」
先ほどからクスクスと笑っていた周囲であったが、その言葉を皮切りに大笑いする声まで聞こえてくる。
「え? なになに?」
静香と呼ばれたその女性徒は、自身の下敷きになっている人物が深川であると気がついた。
「いってぇ。ああ、大丈夫だった?」
その時、調度起き上がった深川、後頭部を擦りながら静香を見上げた。
──謝罪……の前になんだその相変わらず不細工な顔は
静香の表情に深川は思わず心のなかで悪態をついた。
彼女の表情は先ほどとは別の意味でひきつっていた。まるで汚いものに身体を犯されたかのような、そんな嫌悪感丸出しの表情である。
「ちょっと、マジで嫌なんだけど。ってかアリエナイ……」
そうこぼすと、彼女は下品に笑う女性徒達の輪の中にそそくさと消えていった。
「ちゃんと『王子さま』にお礼言わなきゃ」
「そうだよ。お礼にチューしてあげなって」
そんな談笑が遠ざがるのを、深川はただその場に座ったまま後頭部を擦りつつ見送った。
気がつけば周囲にできていた人だかりもいつの間にか消えていた。
「……ああ、俺が手すりを持ってなかったのが悪いんだな。守ってあげたのにな」
○
屋上で菓子パンを食べ終えた深川は手すりに寄りかかり、紙パックのジュースを飲みながら遠くの方をボンヤリと眺めていた。
この夏真っ只中の時期。昼休みであっても外で弁当を食べたり食後の運動をしたりしている学生は見当たらない。
ただ青々と茂る草木や日光で炙られた地面から浮かぶ陽炎、そして生命力溢れる蝉の声を感じながら物思いに更ける。
「生まれ変わったとはいえ、今までの環境を覆すには相当な労力が必要なのかもなあ」
先ほどの階段での件を思い返す。
正しくヒーローと成りうる程の良いことをし、その結果得られたものは相変わらずの侮蔑の態度である。これ以上ないほどのチャンスと思われる出来事を経ても環境が好転しないなら、長期的な積み重ねが必要となる。クラスメイトと接していき、生まれ変わった自分を知ってもらう。
だが、今まで酷い扱いを受けてきた深川に対して今更友達となってくれるような人物がいるだろうか。以前のようなネガティブな考えが浮かんでは消えていく。その繰り返しのなか、たまらず深川はため息をつく。
「世の中はこんなに綺麗なのになあ。人間と付き合っていかなきゃならないなんて」
いかんいかん。深川は気持ちを切り替えるように先ほど打ち付けた後頭部を掻く。
その時、深川はあることを思った。
「あれ? 俺って病院に行った方が良いのかな?」
あれだけ後頭部を強く打ち付けたのであれば普通は病院に行って検査を受けるべきである。例え現在異常を自覚しておらずとも後ほど取り返しのつかないほどの症状に悪化していることもある。
だが深川の場合は異常を自覚していないどころか、後頭部を激しく打ち付けた事などなんてことない出来事のようにしか思えないでいた。確かに後頭部を打ち付けた痛みはあった。だが その痛みは想像していた程のものではなく、せいぜい小突かれた程度のものに感じていたのである。だからこそ深川は直ぐに起き上がれたし、今の今まで後頭部を打ち付けたことに対して心配をしていなかった。
「何も異常はなさそうなんだよなあ。真っ直ぐ歩けるし、頭痛だってしない」
あれこれと考えてはみたものの調子の悪いところは見つからない。強いて言うならば──
「そういえば汗はかいてないな。でも、それだけか。別にそんなに暑くないしなあ」
──深川は、体温調節のための発汗をしていなかった。
今日は陽炎の揺らぐほどの気温である。また、鉄臭いこの手すりに触れた際に暑さを感じたのも事実である。
だが深川は特にその事に気を留めなかった。いや、ここまできて深川の頭には一つの考えが浮かんでいた。
「俺、人間やめちまったのかな? まあ、いいや」
生まれ変わった自分が今更人間であることにこだわる必要もなく、寧ろスーパーマンにでもなったかのようだとそう思っていた。
「どうせならスーパーマンみたいに空でも飛べたならなあ。そうしたら、あの山に見える鉄塔に登ったり、あの大きな雲を間近で見られたりするのにね」
ため息をつき、口に加えていたストローを離す。凹んでいたジュースの紙パックが音をたてて元の形に戻る。
「ってあれ、入道雲じゃない? これは夕立がくるかしら。検査にいかない口実ができましたね」
深川はゴミを袋にまとめて屋上を後にした。屋上の重い扉を閉めて階段を下りていく。すると階段を下りた先の廊下に此方を見ている人物が目にはいった。
強い日差しの中にいたため未だ目が慣れない。じっと目を凝らして見ると、それは担任の板野であった。相変わらずの痩せこけた神経質そうな顔をこちらに向け、大きな眼鏡の向こうから見下したような視線を送ってくる。
「板野先生。お疲れ様です」
無視をしたと難癖をつけられないよう、深川は当たり障りのない挨拶を口にする。
「なんだ? 屋上で一人で飯食ってたのかぁ?」
「そうですね。天気が良いんで。暑いっすけど」
普段の深川とは受け答えが違うことに違和感を覚えたのか、面食らった表情をした板野は気をとり直すように咳払いをして続けた。
「あ、ああそうか。まぁ、真夏だからな。──ところで深川。お前今日のテストだけどな、随分と書けてたみたいだな。えぇ?」
「そうですか? ありがとうございます。自分でも驚くぐらいで──」
「カンニングじゃないだろうな?」
「──は?」
思わず耳を疑った。だが目の前の板野の顔が醜く歪んでいる様子を見ると聞き間違いではないのだと分かる。
「ははっ。まさか。冗談きついですよ?」
深川は怒りを表に出すことなく適当に受け流す。その様子がますます勘にさわったのだろう。板野は強く舌打ちをし、
「癪に障るなあ。深川がなあ。悪いことをして悪目立ちなんてするなよ? らしくないぞ?」
と悪態をつきながら去っていった。
「はははっ」
乾いた笑いしか出てこない。生まれ変わった自分に対する見方がよく分かったような気がした。
確かに自身は、勉強をして試験が解けるようになったわけではない。だが仮に勉強という努力を積み重ねたところで、彼等の自分に対する見方は変わるのだろうか。
あれだけ人に努力をしろと言っていた人間からの仕打ちがこれなのかとやるせなくなった。
「普通の人間以上に厄介事に割くエネルギーが膨大なんだな。しょうもないことで心が磨り減ってしまう。こんな環境にいては必要な事に注力する気力が生まれないだろう?」
──そうですね……
思わず心の中で相槌をうった。誰が喋ったのかはすぐに分かった。無意識に発せられていた自身の言葉であった。誰かが自身の声帯を利用したのだろう。だが些細なことだ。どうでもいい。俺はずっと疲れていたんだから。勝手に動いてくれるなら都合がいい。
「果たして自分が駄目なのか、それとも他の人間が恵まれているだけなのか。それを知りたいんだろう? だからお前はこれから起こることを見越して『席を離れた』んだろう?」
──多分、そうなんだと思います……
「じゃあ、一緒に新しい人生を味わおうか」
深川に笑みが浮かんだ。足取は軽く自身の教室の前に到着する。扉の先に待ち構えている光景を思い浮かべると心が踊る。
期待に胸を膨らませ、扉に手をかけて開ける。待ち望んでいた光景。望んで作り上げた状況。
交換したはずの傷だらけの机が元の位置に戻っている。そしてその深川の席に群がる数名の男子生徒達。皆はニヤニヤとしながら深川の鞄、そして中にある財布を漁っている。
なんて分かりやすい生き物か。砂糖に群がる蟻なのか。
心でそう思いながら、深川は微笑みを浮かべて近づいていく。彼等は一昨日、橋の下で深川に対し暴行を働いた五人の男子生徒達であった。
──『アリコロリ』は楽しんで貰えたようだ。
その内の一人が深川に気がつくと皆は楽しげにバタバタと財布を鞄に戻しはじめた。遊んでいるのだろう。
だが、その内の一人は抜き取ったお札を財布に戻す気は無いようだ。そちらに視線を写す。男子生徒は悪びれる様子なく視線を合わせたまま無言で札を自らのポケットにしまいこむ。
目の前でポケットに札を入れ、バレバレだと分かっていながらも尚わざとらしくとられる「何もしていないよ?」のジェスチャー。両手を顔の位置まで上げ掌をヒラヒラとさせるその腹立たしい行動でさえ、今は愛らしく思える。
「今、盗ったよね? 返してくれるかな、あぁ──南沢君?」
「あぁ? 俺に言ってんのかァ!?」
南沢と呼ばれた男子生徒は勢いよく立ち上がると、深川の胸ぐらを掴み睨みを効かせた。立ち上がった拍子に倒れた椅子が大きな音をたてる。周囲の空気が張り詰める。
南沢の腕には力が込められており、まるで柔道のように深川の身体を揺さぶりにかかってくる。
だが深川の身体はびくともしない。
「君に言ったんだよ。もしかして、南沢って名前じゃなかったのかな?」
ガコン! という音が静まり返った教室に響く。
深川の顔面に南沢の拳が振るわれていた。ノックアウトを目的としない、腕だけで振るわれた軽い拳。だが顔を殴られたという事実に、普通の学生であれば大事だと恐れ戦意を喪失する。それを目的としたもの。
だが──
「フフフッ……やっぱり痛みがない」
──今の深川は違った。
バキャン! と激しい音がた。途端に南沢の身体はぐにゃりと崩れ落ちる。深川の振り抜いた右拳が南沢の顎を捉えていた。
「おっと……寝るなよ。南なんとか君」
深川は左手で襟首を掴み上げると、再び右拳を今度は顔面に力強く叩き込んだ。
南沢は壁へと吹き飛ばされ、シャツを鮮血に染めながら崩れ落ちた。
シンと静寂の戻った教室を、深川の楽しげな声が支配する。
「ンフフフ。虫けら。貧弱だなあ。──ホラ、後は君達四人だ。いつもみたいに楽しくいこう」
ドンッと拳で胸をうち挑発する深川を前に、驚きのあまり狼狽えていた南沢の仲間達は我に返り、そして虚勢の怒鳴り声をあげた。
「上等じゃねえかゴラァァ!!」
「殺すぞテメェ!」
即座に一人が深川の腰元へと突進。脚を掴んで倒そうとした。ラグビーのようなタックルであった。だが腕でのホールドは非常に甘く、深川が倒れそうな気配は微塵も無い。
「おっとっと。危ない」
組みつかれた深川はすぐにその腕を脚の力で振りほどくと、その勢いのまま男を後方へと投げ飛ばした。扉に打ち付けられた男は、そのまま床に倒れ込んだ。衝撃でドアや窓ガラスは割れ、それに呼応するように教室の女生徒達の悲鳴が響き渡る。
「グッ……痛っ。ちょ、待て――」
「聞こえない」
深川の追撃の蹴り。それが男の顔に正面から叩き込まれた。
「キャー!!」
女学生の悲鳴が一層と大きくなる。
「テメエ! やりすぎだろう!」
後方から二人目の男が拳を振りかぶり向かって来る。
「やりすぎって、弱いのが悪いって散々言ってたのは君らだぞ」
男の助走をつけた大振りの拳を難なく躱した深川はカウンターの拳を顎にお見舞いする。たちまち男は糸の切れた人形のようになった。
男の襟元を掴み持ち上げると深川は盾のようにして構えた。直後に飛んできた椅子が男の身体に当たり大きな音を立てて床に転がる。すぐ後ろにいた三人目の男が放り投げた椅子である。
「クッソ!」
続けざまにもう一つ投げつけようとする男を前に、深川は持っていた肉の盾を打ち捨て言う。
「凶器は反則だぞ。自分の力で努力しろよ」
「うるせえカスが!」
全力で投げつけられたその椅子を深川は腕一本で難なく払い飛ばす。
流れ弾ともいうべきその椅子は凄まじい速度で前方の黒板に衝突、バラバラになった。
「は……? 嘘だろ、ありえねえ……」
あまりの力に男は言葉を失った。
そんなことにはお構いなしの深川は男の前にやってくると、組み合わせた両手をハンマーのように振り下ろし男の脳天に叩きこんだ。
床にビターンと倒れ込んだ男をカーペットのように踏みつけながら、深川は最後の四人目、ずっと動けずに呆然としていた男の方へと歩み寄っていった。
「さて。後は君だけだが」
深川に恐れを抱いた四人目の男は既に戦意など失い怯えている様子であった。
「なんだそのザマは。たとえ強者に嬲られようとも立ち向かう。そういう努力をしろよ」
深川は男の胸ぐらを両手で掴み頭上へと持ち上げていく。自身の体重により首元が絞まっていき男は苦しそうなうめき声を漏らす。
「お前はいつも俺をいじめたよな。弱いのが悪いんだって、そう言っていたな。俺たちは強いんだとそう思い込んでたのか? みな迷惑ごとに関わりたくないから、お前らみたいな出来損ないのせいで怪我や警察沙汰になりたくないから放っていただけじゃないのか? そもそもお前らは強くなる努力をしていたのか?」
深川の腕に力が入る。言葉にも怒りの感情がこもっていく。
「今後も俺はお前たちを毎日毎日苛め抜いてやろうかと考えている。目が合うたびにぶん殴って、学校に来なくなれば家まで押しかけて、徹底的にいたぶってやるのもいい。服でもひん剥いてポルノ写真をばら撒いて尊厳を奪うのも良い。それを俺が毎日毎日、何日も、何か月も、何年も続けたとして、それでも君らは強くなる努力をして数年後に俺を見返してくれるんだろう?」
「うぅぅ……くるしぃ……」
「質問に答えろよ。見返す努力を続けると誓ってみせろよ?」
ますます締め上げる力が強まる。もはや男の顔は真っ赤になっていた。
だが男は反撃するでもなく、ただ力なくこの時が過ぎるのを願うばかりといった様子であった。反撃をすることで更に酷い目にあうことを恐れているのであろう。もはや男が深川に対し精神的に屈服してしまっていることは誰の目にも明らかであった。
しかし深川は力を緩める様子は無かった。
これ以上やれば確実に死ぬ。それが分かっていながら、誰一人深川を止めに入れるものはこの場にはいなかった。
「まぁ質問には答えられないか。答えたところでそれが本心かどうか、実際に成し遂げられるかどうかなんて分かりはしないのだからどうでもいいんだが。だから俺はお前らを――」
「コラァ! 何をしとるかあああああ!!」
その時、ようやく教室には男性教師が数名血相を変えてなだれ込んできた。
「何って。ちょっと食って掛かってみただけじゃないですか」
「ちょっとだと? どう考えてもやりすぎだろう!」
床に飛び散る血痕を指さしながら先頭の体育教師が息巻く。
「そうですかね。俺も結構ひどい目にあってきたもんで、よく分からんですわ」
悪びれる様子のない深川に体育教師は胸ぐらを掴みかかろうと手を伸ばした。だが直ぐにその手を引っ込めることとなった。
今までそっぽを向いていた深川が教師の方に向き直った。その目を見た教師はなにやら言葉にできない恐怖感じて背を震わせた。海中で巨大な鮫と対面したならこんな感じだろうかとそんなことが頭をよぎっていた。
「生徒指導室ですかね?」
言葉を失っていた体育教師に深川が問いかける。
「あ……ああ、そうだ。さっさと来い!」
ハッと我にかえった体育教師はその場を他の教師に任せ、深川を先頭にぞろぞろと生徒指導室へと向かっていった。
教室に張り詰めていた空気がようやく緩み、皆から安堵のため息が漏れていた。




