19話 手に入れなれなかった日常
芝生を穏やかな風が吹き抜ける。
穏やかな表情でベビーカーを押す夫婦。駆け回る小さな子供達。人々で賑わう公園の木陰で若い家族が弁当を広げている。
「ちょっと無理があったかしらね。日差しがすっごいわ」
母親は娘に飲み物を手渡しながら笑う。
「ははは、たまにはいいじゃないか。それに、木陰にいれば意外と風も気持ちいいよ」
夫は気にしてないよといわんばかりに笑い飛ばす。
仲の良い幸せな家族。誰が見たってそう思うだろう。穏やかで、そして輝かしい空間が広がっている。
持たざる者が見れば嫉妬するほどである。
夫はサンドイッチを頬張りながらこの幸せを噛みしめるように考える。
――こんな人生を俺はあそこから努力すれば手に入れられたか? 深川と言う人生から。俺が全部悪かったのか? いや、俺は今まさに手に入れているじゃないか。俺はこいつの人生を……
「それにしてもさっきは随分と帰ってくるのが遅かったけど、そんなに自動販売機は遠いの?」
「え? ああ、まあね。ちょっと時間がかかるから、もし必要ならまた僕が買いに行くよ」
「そう。この時期は熱中症が心配だから――って大丈夫? なんだか顔色が悪いようだけど……?」
夫は視点が定まらぬ様子で頭を押さえていた。
「だ……大丈夫だよ。ちょっと眩暈が……」
額から脂汗が滲んでいる。苦しみが抑えられず、徐々にうめき声を漏らすようになっていく。
「あぁ……いたい……ちくしょう……煩いんだよお前らぁ……」
「ちょっと……日射病かしら。直ぐにお水をとって日影に……。あぁそれと救急車」
異変に気が付いたのか娘が心配そうに声をかける。
「お父さん、大丈夫?」
「あぁ……問題ないよ……朱里。直ぐに良くなるから」
「……あかりってだぁれ? あたしミドリだよ?」
「は?」
「……ちょっと……本当に大丈夫? 娘の名前を間違えるなんて。やっぱり救急車を――」
「――煩いって言ってるんだよ!」
夫は立ち上がり、尚も苦しげに頭を押さえる。
「何が殺さないでくれだ! もうお前らは俺に喰われたんだ! いちいちゴチャゴチャと喚いてねえで、俺に人生をくれてやれば良いんだよ!」
何がなんだか分からぬ妻は怯えた様子で娘を抱きしめる。
「何だその目は! てめえらも今から喰ってええぇぇ殺さないでくれぇ! 俺の家族なんだ! アキコ! ミドリと一緒に逃げてくれぇ!」
「あなた……何を言って――」
「いいから早く逃げなさい! あああぁぁやめてくれぇええ!」
妻は慌てて娘の手を取り駆け出す。彼女らの背を追おうとするも足のもつれる夫。
騒ぎに気付いた人々が集まり、周囲に人だかりができ始める。
「記憶が制御できねえええぇ煩い煩いいぃ! なんなんだよこれえええ!」
夫は腹を押さえ、そして大量の肉片を吐き出した。人間一人の体内には到底収まりきらないであろう量をまき散らし、周囲の人々から悲鳴が上がる。
夫の顔はやがて崩れていき、深川の顔が姿を現した。
「騒ぎになったら……またアイツらが来るじゃないか……」
異常な光景を前に逃げ惑う人々。それらに紛れ、深川はすぐにその場から逃げだした。
「なんだってこんな目に合うんだ……せっかく幸せな家族を得られたのに。助けを呼ぶか? 真人、それに真治……いや、思い出せない。誰だ誰の記憶だこれは……」
ぐちゃぐちゃに弄った携帯が手から落ちる。何度も吐き気が押し寄せ、その度に足が止まりそうになる。
「何がどうなっている? 俺は誰なんだ? ここはどこで、なんで俺は走っているんだ? 早く隠れるんだっけ? そういえば甲子園、真人の応援に行くって約束してたんだっけ……? あれ、陸上の夏合宿はなんで行ってないんだっけ……? 夏休み、母さんの実家に帰省しなきゃなあ。孫の顔も見せてやって、今度の大会までにはタイムを縮めて……それから、夏祭りにはこの間買った浴衣を着ていって、幸人とめっちゃ楽しむって言ってたっけ……? それが楽しみだったはずなんだけど……なんで覚えてないんだ、何も」
深川は息も絶え絶えに物陰に倒れ込むと、天を仰いで苦痛が過ぎ去るのを待つ。
――俺が喰った人間の記憶が……ごちゃまぜに襲ってくる……
様々な人生がフラッシュバックする。野球に打ち込んでいた少年の人生。孫が生まれ、実家に帰ることを楽しみにしていた男性の人生。陸上に励み、彼氏との夏祭りを楽しみにしていた少女の人生。それら大勢の人勢の断片が浮かんでは消えていく。
深川はそれらを笑みを浮かべて思い出す。だが、やがてその笑顔は消えていく。
「コイツらの人生に──俺みたいな奴は映ってないんだよ……」
だがもう良いのだ。深川はそれらの人生を手に入れたのだから。今やそれらは自身の記憶なのだから。
そう思いかけた時、記憶の映像に白い人間が写った。
それが自身に近づいたかと思うと、大きな口を突如開け――そして
「うわあああああああぁ!」
喰われた。死への恐怖と痛みが鮮明に思い出される。
「嫌だ。死にたくない! まだやり残したことが! 連れて行かないでくれ! なんで、待って! お願いだから。嫌だあぁ!」
――なんだ、これは。こんな記憶は……
大勢の人々の死に際。次々と喰われていく記憶の中の自分。
視線の先の白い化け物はいつも笑っている。
――そうだ……俺が喰ったんだ。こいつらの記憶と、そしてこれからを。こいつらの人生を……
「嫌だぁ! せっかく、せっかく産んでもらったのに! 死にたくない!」
――やめてくれ……やめてやってくれ。彼女は今から初めてのデートに……
「こんな死に方嫌だぁぁ! おかあさああん!」
「ぁぁああああああああああぁぁ!」
深川は頭を押さえ、生い茂る雑草の中で苦しみのた打ち回った。




