1話 始まり
――俺はなんで産まれてきた……
「お父さん、見て!」
帰宅した父親を見て幼い少年は走り寄る。その手には白い紙が握られている。
「これ描いたの! お父さんとお母さん!」
白い紙にはクレヨンで三人の人物が描かれていた。どれも同じような顔だがサイズが違う。それに色遣いも違う。青く大きな父親に、少し小さな赤い母親。そしてその間のオレンジのこの少年。
少年は満面の笑みでその絵を見せた。褒められたいのだろう。だが、疲れ切った父親は別のことに意識がいった。
「どうでもいいよそんなもの。それより――」
父親はリビングへ荒々しく向かう。そして、
「――やっぱり汚してるじゃないか、クレヨンで! 机を早く拭きなさい! 母さんもコイツを躾けろよ!」
苛立ち、視線を台所へと向ける。台所で料理を作っていた少年の母親は身を震わせた。
「……ごめんなさい。ほら、幸雄ちゃん! 早く拭きなさい!」
母親は濡らした台拭きを急いで少年に手渡すと、逃げるように再び台所へと引っ込んでいく。
そんな彼女を見て父親は「ふんっ!」と不満げな咳払いをすると、自室のドアを乱暴に閉めた。
その場に取り残された少年は自身の絵に視線を落とし、泣きだした。
その絵に映る三人の家族は幸せそうに笑っている。それが少年の願望であった。だが、現実はこうである。褒められることもなく、守ってもらえることもない。そのことに少年は深く傷つき、いつも泣いていた。
そして少年は子供ながらに思った。
――僕は、なんで産まれてしまったんだろうか。別に産まれなくても良かったのに……
〇
「夏休みを棒に振っている気がする」
新幹線に座る少年。黒明彰はボヤいた。
その言葉に対面に向かい合って座る少女――風宮怜は笑う。
「そんなに嫌でしたか。確かに強引な誘いではありましたが」
彼女の大きく鋭さも感じられる目が、笑顔により優しげな印象に変わる。そのことに彰は気恥ずかしくなり、目を逸らす。
「ま、まあ……夏休みに受験勉強だらけってのも気が滅入るんですけど……旅行でなく危険な仕事の手伝いに受験生を誘うってのはどうなんですかね……?」
彰が新幹線に乗っているのは旅行目的ではない。怜から仕事――所謂『化け物退治』を手伝うように依頼を受けたためであった。そして彼女もまた手伝いの依頼を受けている。つまり手伝いは一人でも多い方がいい。そういうわけで彰も呼ばれた、とのことであった。
「来てくれたことに感謝していますよ。人手は多いほうが良いので。それとも家で甲子園でも見て、他人の青春の素晴らしさにモヤモヤとした気持ちを抱く方が良かったですか?」
「甲子園なんて見ませんよ。そもそも興味が無い。どこの高校が勝とうが負けようが、それで涙を流していようが、俺の人生には関係ないですから」
「そうですか? まあ、これもいい経験と思って下さい。報酬はちゃんと渡しますので」
「いいように丸め込まれた気がするなぁ……」
特に考えもなく、流されるがまま依頼を引き受けてしまった。そのことを自覚している彰は、本当にこれでいいのかと自身の心の声に責められている気がした。
そんな彰のことなどお構いなしに、怜は再び窓の外を眺めていた。先ほどから窓の外に映るのは見知らぬ田舎の田んぼや土手、そして所々に立ち並ぶ民家や工場。それらが勢いよく右から左へと流れていくだけである。特に物珍しいものがあるわけでもないのに、怜は窓側にもたれ掛りそれらをずっと眺めていた。
「何か面白いものでもありましたか?」
彰は食べ終わったお菓子の袋を丸めながら問いかけた。
「いや……特にありませんね。ただ景色を見ているのが好きなんですよ」
「へえ……まあ分かりますけど――お菓子もう一個空けます?」
「ありがとうございま……いやそっちの甘いやつが良いです。――こうやって知らない土地の街並みを見るのが好きでして。あの学校に暮らしている生徒たちはどんな風に遊んでいるんだろうか? とか、もし自分があの学校や街に住んでいたなら、いったいどんな生活を送っていたんだろうかって、そう妄想するのが好きなんです」
「……なんすか? 病んでるんですか?」
「そんなに変なことですかね? ――とまあ、それも大きな理由なんですが、他にも理由はありまして」
怜がそう言ったとき、車内には駅への到着が近い旨を伝えるメロディが流れた。
「理由……ですか?」
彰も窓にもたれ掛り、到着駅周辺の風景に目をやった。
「まあ運が良ければですが。何か良い情報が手に入るんじゃないかと、そう期待していたりもするんですよ。仕事に関することで」
「何かいい情報ですか? とは言っても何かありますかね」
「そうですねえ……例えは何か死体でも――」
怜がそう言ったところで、二人は同時に車外のものに目がいった。風景と共に流れていくそれを二人して目で追う。
緑の生い茂る土手には似つかわしくない、真っ赤な色をしたもの。その大きさは人間大程もある大きなものであった。二人は直感的に嫌なものだと感じ取った。
「――本当に何かありましたね。お仕事です」
「何かって……いやいや。嫌な予感しかしませんでしたよ。見間違いなら良いんですけど、よく路肩に転がっている『死骸』にしか俺には見えませんでした」
「気が合いますね。私もです」
彰はすぐさま立ち上がり、下車の準備に取り掛かった。先ほどまでの旅行気分は消え去り、緊張と不安感で一杯になっていた。
――これから仕事が始まるのか
彰はただ逸る気持ちを押さえながら、駅に到着するのをじっと待つしかなかった。