蟻が嫌いなお年頃。
風が吹き荒れる屋上。僕は一人フェンスを越えて、白いペンキが剥げて金属特有の光沢が目立つパラペットに腰を降ろした。真下の道路では規則的に動く働き蟻がぞろぞろと列を作り、絶える事なく進んでいく。
集団は強い。集団の数によってその場の力関係が決まってしまう。巨大な集団は何をしても許される。しかし集団の中ではなにも出来ない。規律、ルール、決まり、定め、当たり前の事。そんな物に縛られてしまう。
僕は個人で居たかった。何にも縛られない自由で何処にでも行ける『僕』という一人の存在で居たかった。
社会はそれを許さない。社会という集団は否応なく僕をその中へ放り込み、その中で孤立をさせた。『社会』に縛られながら村八分。集団の意見が全て正しく、僕の意見は全て間違いだった。
こんな世界間違っている。
僕は規則的に動く蟻達をいつまでも飽きることなく見つめていた。
チャイムがなって席につく。それが普通になっている事に嫌悪しながら、先生が教室に入ってきて授業が始まる。
「……弱肉強食の一番下が植物であり、その次に虫、草食動物、肉食動物、そして一番上に私達人間がいるのであるから私達は動物を労り守らなければならないのだ」
黒板が埋まるくらい文字を書いた国語の先生は突然こちらを向き、真剣な表情で得意気に話し始めた。
何故人間が一番上に君臨しているのだろう? 人間って肉食動物どころか虫とかに殺されていると思うのだけれど。普段群れない一匹狼な肉食動物がトップなのに、群れなきゃ勝てない自分達が上じゃないと気がすまないなんて本当に憐れ。
僕達は蟻と同じだと思う。蟻の様に厳密に役割を決められて、針に糸を通す様な精密さで毎日を生活する没個性。それなのに人間は神と同じ姿をしているとか、自分達は考える生き物で動物とは違うとか、意味不明な事を信じきって疑わない。僕はそんな愚かで傲慢なマジョリティーに耐えられない。人間もまた動物で、理性という言葉は社会によって作られた首輪。社会のつけた首輪が外れるとそこは野生の世界。野草を貪り、生肉を啜る。簡単に同族殺しを犯し、本能のままにセックスする、危険が詰まったスリリングな日々が待っている。
いつからこんなつまらない世界になってしまったのだろう? 僕みたいな欠落品を簡単に見捨てる癖に「私達は誰も見捨てない」と嘯く糞みたいな世界に。
僕はこんな世界から逃げ出したくて、こんな社会から逃げ出したくて、でも、逃げようとしても逃げられなくて、僕もまた毎日学校という檻の中へ向かい、教室という鎖に縛り付けられ、勉強という建前で少しずつ、少しずつ社会に洗脳されていく。僕達は社会の奴隷。犬の様に金というエサを与えられてしつけられていく。ううん、犬より酷い。犬のエサは生きる為に必要な物だけど、人間はエサを買うには金が必要と思い込まされているだけなのだから。
僕達はどこへ向かっているのだろう。やりたい事もこれといった趣味もない僕は、この学校を卒業してからの未来が全くといって良いほど見えなくてテレビの砂嵐に迷いこんでしまったみたい。もうどうしようもなくなって、いっそ地球なんか無くなっちゃえと思うけれど、地球滅亡の予言ばかり積もっていって全然無くならない。毎日毎日山の間からヌルッて現れて嘲笑う様に山の向こうへ消えていく。
ふと目を開けると授業は終わっていて、周りには誰も居なくなっていて、外からクラスメイトが楽しげに騒ぐ声が聞こえてくる。起こしてくれないなんて薄情な奴らめって思ったけれど、いくらクラスメイトだからといって一度も話した事がないのにわざわざ起こしてくれる人の方が珍しいかと考え直す。窓の方へ移動してグラウンドの方を眺めるといつも通りにサッカーをしていて、先生でさえ僕が居ないことに気付いていないみたい。ちょっとショックだけどしょうがない。それが自分だ。
「人ってなんで生きているんだと思う?」
少女の声が聞こえてきた。僕は「まず生きているという定義から間違っている」と答えた。答えてからここには僕しか居ない筈という事に気が付いて慌てて声が聞こえた方に目線を向ける。
「やあ、君もサボり?」
お昼時の太陽が彼女の短い髪を明るい茶色に染めて、キラキラ反射する埃が僕に向かう微笑みを美しくみせた。彼女が誰なのか分からないけど、多分クラスメイトなのだろうと当たりをつける。
彼女は僕が返答しないのを肯定と受け取ったのか嬉しそうに笑って髪を揺らしながら「で、生きているという定義がどういう風に間違っているの?」と首をかしげた。
「僕達は既に死んでいるんだ」
「死んでいる?」
「ここは地獄。ただ誰も気が付いていないだけ」
彼女は一言「ふーん、」としばらく夢中に動くクラスメイトを眺めていたけど不意に
「私は違うと思うな」
私達は選んだんだよ、このまま消滅するか記憶を消してやり直すか。だからこの世界はどんどんクソみたいになっていく、ほら、今残っているのは消え去る覚悟がなくて未練たらたらな文字通りクソな奴らばっかりだからさ。うん、勿論私達も変わらない。だって逃げてばかりでしょ? 私も貴方も。すぐ順応する犬共も最低だけど、私達も私達。なにも変わらない。ただ繰り返すの、何度も何度も。次こそはなにかが変わるって信じて。でもなにも変わらない。悪化していくだけ。私達はそれに気づかないの、だって記憶を消されているのだもの、悪化しているなんて誰も分かる筈もないのよ。私? 勿論次こそは消滅するつもりよ。そんなの当たり前。事実に気づいたのに、また記憶を消されて事実を知り直さないといけないなんて面倒。え? じゃあ、なんで人口が増えているのかって? ……この世界にいる人間って本当に全部人間なのかな? 私には半分近くはゾンビに見える。ただプログラムされた事しか出来ない存在。朝になったから起きて仕事場や学校へ行き、言い付け通りの行動をする。そしてお昼になったから「お腹すいた」と言って、帰らなければならない時間になったから寝床に帰る。そう、ゾンビは人間と同じように冗談も言うし、悪態も吐く。だから貴方もゾンビかもしれないし、私もかもしれない。見た目では分からないし、自分でも本当に人間なのかなんて分からない。分かる筈もない。まあ、こうやって平気でサボることが出来るのだから私達は違うだろうけどね。うん? 消滅することを選んだら魂だけ消滅して、この世界にゾンビとして身体が戻るって? ……ふふっ、貴方面白いわね! 気に入ったわ! たしかにそうだわ、全く思い付かなかったけどその通りだ。なんでこんな事に気付かなかったのでしょう? ふふっ、笑えてくるわね。アハハ……なによ、そんな目で見ないでよ……私だって、こんな事で笑いたくないわよ、……ああ! もう授業が終わっちゃう! 貴方、この次も勿論サボるわよね? ちょっと付き合って貰うわよ?
人が行き交う大通り。建物の上から見たら僕もきっと蟻の一部。いつもは耐えられなくなって路地裏へ飛び込むのだけど今日は我慢。だって隣に人がいるから。誰かと歩くなんていつ以来だろう? 小学校三年生の集団下校が最後だから、なんと八年ぶり。八年前なんて何を考えて歩いていたのか全然覚えてないから、歩調を合わせられなくて気がついたら数メートル先を歩いてる。
八年が経ったら今考えていることなんて忘れてしまって蟻に成り果てちゃうのかって思うと少し怖いけど、僕は大丈夫って根拠のない事を思ってその不安を押し付ける。うん、僕は大丈夫、なにも変わらない。
「ここよ」
彼女の声が遠くから聞こえた。僕は華麗にターンを決めて彼女の所まで戻って彼女が指す建物を眺めてみる。そこはごく普通の民家のようだったけど、よく見たら『喜楽』と小さな看板が立て掛けてある。「君の家?」と聞くと「違うわ、行きつけの喫茶店」と返ってきたから僕は「知ってる」そして彼女はなにも言わずに中へ入っていった。
「いらっしゃい……あら、また来たの、たまにはちゃんと学校に行きなね」
「はーい」
店員は喫茶店の外見からは想像つかない三十才前後の優しそうな雰囲気を醸し出した若い女性。てっきりよぼよぼのお婆さんが店員だと勝手に想像していた僕は少し驚いた。
「おっ、もしかしてカレンちゃん、ボーイフレンド?」
「違うわ彼はただのボーイよ」
「へー面白い名前ね、タダノさんって、ねぇ、タダノさん、カレンちゃんが誰かをここに連れてきたのって全然ないからお姉さん凄く嬉しいな」
「お姉さんって……」
「……カレンちゃんなにか言った? あ、立ち話じゃなんだし席を案内するよ」
勿論僕はタダノじゃない。でも、話が次々と変わっていってしまって訂正することが出来ない。やっぱり誰かと関わるなんて僕には無理みたい。
「さて、貴方の名前はなに?」
案内された席に座って店員に「今日は彼と二人で話したいの」と言って、ニヤニヤされて「もー!」って怒って、それからため息を一つ吐いて彼女は聞いた。
僕はタダノで固定されるとばかり思っていたから驚いてその事を口に出したら「そんなのおふざけに決まっているじゃない」とさらりと言われてさらに驚いた。今日は本当驚いてばかり。
「ハルキ」
「……へ?」
突然の言葉に彼女は理解できなかったみたい。でも「名前」と一言言ったら「ああ、」と腑に落ちた様な顔になったからきっと大丈夫。
「カレンよ」
「うん、よろしく」
「よろしく」
僕は彼女と握手をする。彼女の手は火傷しそうなほど熱くて、マシュマロのように柔らかかった。ふと、火で炙ったマシュマロの味を思い出して、いつ食べたのだろうって不思議な気分になる。でもあれは頬が蕩けるくらいに美味しかった。もう一度だけでいいから食べてみたいなと思いながら、彼女と目があって彼女は微笑んだ。ねぇ、君ってマシュマロの味?
「私は貴方のことが知りたい」
「僕も自分のことを知りたいくらい」
でも僕のことを知っている人なんかどこにも居ないし、居て欲しくもないという矛盾。死にたいのに死にたくない、消えたいのに消えたくない、どこかに逃げたいのにどこにも逃げれない。いつも自分というものが何処にもなく、それこそが自分で、空っぽで埋められた僕が何者にもなれず消えも出来ないで永遠を過ごすという予感を感じる時がたまにある。ぎゃあぎゃあ下らない話し合いを続ける世間から耳を背けたいのに妙に気になって気持ち悪くなっちゃう。そんな矛盾した存在。でもそんな事は一言も口に出せないし出さない。
僕は何者ですか? 貴女は何者ですか? 僕はハルキで貴女はカレンです。そんな名前だけでは分からない、分かる筈もない。生物というものは言葉で全て説明できないしずっと一緒に居ても無理無理。一緒にいるといるほど分からなくなって離れていく。この世界は孤独。個々の世界線は一つ一つ少しずつだけ違がっていてまるで光ファイバー。この世界はどことでも繋がっているのにどこにも繋がっていない。匿名性の壁に阻まれて近付けない。壁の向こうからは透明な悪意が滲み出てきていて自分まで悪意に染まってしまいそう。匿名の仮想世界と現実世界で意見が違うのは世間に怯えてみんな同じ仮面を被っているから。自分を隠して、だから隠さない人にイラついてとことん潰す。そしてそれが世間になってみんな怯える、そんな悪循環。『人間失格』という小説で「世間じゃない、貴方でしょ?」という一文があったけどまさにその通り。貴方が勝手イライラして許したくなくなって世間という言葉を使って潰す。世間という言葉が使われたらみんな無視できない。だって無視したら世間から追い出されるから。だから、匿名になったとたんみんな安心して羽目を外すから本物の意見が見えてくる。でも、それこそも世間。周りの意見と違う意見を発信したとたんみんな暴徒と化して叩きまくる。結論、群れたら無個性な蟻さんで、群れなければただのエサ。……うん、僕達ってなんで生きているのだろうね?
おっと、話が可笑しいくらいに逸れちゃったけど、僕が彼女に言いたいことは一つ「貴女はどっち?」
どっちとはどういうことでしょうか? 暇潰しにはなると思ったのにつまんない、全然全く超絶つまんないつまんないつまんないつまんないつまんないつまんない。考え方ばかり逸脱しているのに全然喋れないただのコミュ障。私は貴方の考え方を知りたいのだからその考えていることをそのまま全部口から吐き出せばいいのに何故しない。とりま「どっちって?」って困惑ぎみに聞いてみるけどその回答は「なんでもない」なんでもないって一体、なに? わーたーしーはーあーなーたーのーしーつーもーんーのーいーみーをーしーりーたーいーのー、ねぇ教えてよねぇ教えてってばねぇねぇねぇ! っておねだりしたいけどどうしよう? 最初妙な達観キャラで行かなければよかったな、丁度三十分前まで読んでいた小説の主人公がかっこよすぎて思わず真似してしまったのですすみません許してくださいって謝ればまだキャラ変が利くかな? いや、無理だ、おふざけキャラは私の心が持たなくて爆発しちゃう。あの子を殺して私も死んだらあの子の考え方が分かったりしないかな? もし分かるのであればすぐにでも実行するのだけれど。おやすみ、そして待っててねって。ああ、ダメだ、切りたくなってきた。血が見たいよぉ、真っ赤な酸素がいっぱい含んだ真っ赤な真っ赤な血。あぁ、貴方の血でもいいのよ? お腹から突き刺して内蔵をぐちゅぐちゅーってしてから心臓を一刺し、そして私の血と交ざり合って一つになるの。ああ素敵だろうな私と貴方の思考が一つになって貴方の考え方が私に私の考え方が貴方に伝わって完璧に分かり合うことができるのああこの場でしてみたいけどきっとしちゃったら誰も許してくれないんだろうなぁ今まで積み上げてきた病弱だけど健気に頑張る少し天然の愛されキャラ像が水の泡嫌だ嫌だ嫌だ折角の物が全部消えちゃうそれだけは絶対嫌だ、あぁ、演じなきゃ演じなきゃ、楽して世間を渡り歩いていくのだから私の未来は安泰なのアハハハッ!
「もう暗くなってきたわね」
「……? まだ全然暗くなってないし、そもそも二時だけど」
その言葉で私は正気に戻りました。危ない危ない、もう少しで爆発しちゃうところだった。
「ううん、暗くなったのよ、そろそろ場所を移しましょ」
彼はその言葉に納得していないようだったけど流石コミュ障、軽く頷いて移動する準備を始めてくれた。さて、どこに行こうかな? って私は「あれ、もう行っちゃうの~?」と冷やかす店のおばさんを軽くあしらいながら考えていた。
本当どこ行こう? さっきからぐるぐるぐるぐる回っているけど全然いいところが見つからなくて私達の方が先に目が回ってしまいそう。どこか町を見渡せる高台とかあるといいのだけれど、どっかあったっけ? まあ、取り敢えず山の方に行けば見つかるよね、最終的に薄暗くて座れる様なところでも、いいし。あ、このまま一日中歩き続けるっていうのもいいかも! どこまでもまっすぐ進んでいって私達二人とも知らない町に行くの。それってなんか素敵じゃない? 今日始めて会ったのに世界に二人残されて二人きりの世界で生きていく。実際はいっぱい人間は居るのだけれどみんな他人。私達にとっては居ないも同然。私達は殻の中に閉じこもって外があることを忘れている。私達の目には世界がどこまで続いているのかしかない。学校とかでは当たり前のように”ちきゅうはまるい“とか”ちきゅうはあおい“って言っているけど、それが本当かどうかは誰も知らない。少なくとも私はしっかりこの目で確かめないと信じることが出来ない。
科学は全てを疑う学問なのになんで科学という概念は疑わないのだろう? 「全てを疑って残ったものがこれなのでこれが絶対に正しいのです」なんて物知顔知ったかの天狗で言われてもそれは、あなたの全てを疑っただけでしょう? そんなの怪しいカルト集団の言っていることの方がまだ説得力があるわよってその鋭く伸びきった鼻を折ってやりたい。かといって”信じればそれが真実“なんて言うオカルトも私には無理。そんなのただ考えるのを辞めることでしかないし、思考停止は生きることを辞めるのに等しい。思考を止めるときは死んだ瞬間、その瞬間でありたい。それまではギリギリ、ギリッギリまで思考を止めず考え続ける人でありたい。逆に思考を止めたときは死んだとき、私にとって生きる意味が無くなったので自ら命を絶とうと思っております。勿論今死んでみろと言われたら絶対に無理。でも、その時は思考が停止しているのだから簡単に死ねる。今が過去になって未来が今になって今の私がどこかに消え去ってしまうのが怖い。それが大人になることと大人は言うけれど、それは大人たちが歩んできた道がたまたまそうだったの、だから必然じゃない。私が大人になって「それが大人になるっていうことよ」なんて絶対に言いたくない。大人たちの過去をただ繰り返すだけなんて、それは人生なの? 満員電車に詰め込まれてガタゴトとレールに引かれた道を歩んでいるだけ。それは人生じゃない。私は人生を歩みたい、この二本の足でしっかりと地面を踏みしめて。
彼女は一体どこに行こうとしている? 知らない場所、知らない道、知らない風景、それは僕を歓迎しない。周りの風景が一斉に背を向けて知らん顔。でもそんな感覚も嫌いじゃない。誰も知らない誰も相手にしない新しい世界は、知らずに受け入れられていた古い世界から生まれ変わって新しい人生が始まったみたいで中にあった黒がスーッと消えていく。僕は完璧に自分という存在を消し去りたくなって、持っていた荷物からペンとメモ帳、そしてお金を取り出してその他は全部投げ捨てた。
これで僕は何者でもなくなった、少なくとも社会から見て僕が何処の誰かなんて分からない。彼女は突然の僕の行動に驚いた表情を見せていたけど、それは”何をしているの“という軽蔑の驚きではなくて”そうなのね“という理解の驚き。そして彼女も持っていたバックを少しだけ漁って、なにかを取り出した後に、バックを放り投げた。そのバックは綺麗な弧を描いてどこかに消えていく。そして彼女は言った「行こう」僕は頷いて彼女の手を取り歩き始める。この時僕達は不思議とお互いのことを完璧に理解し合っている様に感じたし、実際多少の齟齬があれど同じ様なことを考えていたと思う。
僕達は黙々と歩き続けて、いつの間にか辺りに建物が無くなり見渡す限り自然。
世界は繋がっているというけれど本当に世界というものが存在しているのかなんて僕には分からない。もしかしたらこの山の向こう側は怪物に支配されていて僕達はそれに気づかずに呑気に暮らしているのかもしれないし、一定の位置を越えるとそれ以上進めなくなって”この町“から抜け出すことが出来ないのかもしれない。自分が見れないところがどうなっているのかなんてたとえ逆立ちをしても分かりっこないし、自分が見ている物でさえそれが実際に自分が見ているのだなんて誰にも断言できない。脳ミソだけ切り取られてホルマリン浸け、貼り付けられた電極から流れる電流がこの瞬間を見せ、僕自身を作っている。そんな予感が頭によぎって僕を震え上がらせる。そんなの僕じゃない。誰かが作った誰かの人格だ。ボタン一つで生かすことも殺すことも、はたまた人格を変えることだってできる。そんなの個性じゃない。一体個性はどこ? ここに在って、どこにも無くて、どこにでも在って全然見えない。私達は機械に勝たなきゃなりません。だから個性は大切です、でも、先生、個性なんて邪魔なもの。じゃあどうやってイキテイクノ? 蟻さんども。
こんにちは私は普通です、そうですかあなたは普通が分からないと、じゃああなたは普通ではありませんね普通というのは普通誰でも分かるものものなのですよ、ええ、残念ながら、……基準が誰なんてそんなの決まっているじゃありませんか、そうです勿論『大多数』です、大多数が正しいと言ったものは全て正しく大多数が間違いといったものは全て間違いなのです、たとえばこの種族は悪魔だと大多数が言えばそれが正しくなるのはあなたも知っていると思いますが、はい、それは歴史が生んだ間違いですね、それが普通です、え、意味が分からない? やっぱりあなたは普通じゃないのですね……。
辺りが暗くなってきて「今日はここで休憩ね」と彼女が指した場所は車が一台停まれる位の停車場。二人とも薄衣な僕達は寒さと飢えを凌ぐためにできるだけ密着する。
「ねぇ、私、夜になると不安になるの」
彼女の声は震えていて、苦しそうだった。
「私達はこの世界に閉じ込められているの、でも、広すぎてとてもじゃないけど外までたどり着けない。ああ、外の世界はどうなっているのかな? 下らないことでもがき苦しむ私達を見て笑っているのかな? それともそもそも箱の中身なんか眼中になかったりするのかな? ねぇ、私達が逃げる場所はどこなの? こうやって半日歩き続けても山の一つも越えられないのだから、この宇宙からどころかこの国からでさえ一生かけても出ることは叶わないのでしょうね。私はここから逃げたいの、この場から違う場所に。なのに歩いても歩いても同じ、変わらない。誰か、ねぇ、誰か私を連れてってよ! この籠から外に、ここではない他のどこかに。苦しいの、ただただ逃げたいって感情だけが溢れだして爆発しそうなの。それなのにどこに逃げたいって訳でもないの、考えると考えるだけどこにいても一緒なの、たすけて、私はどこに……!」
彼女の言っていることは理解できる。今も上を見上げるとどこまでも空は続いていて、僕達はその空まで行くことが出来ないし、どこまで歩いてもそこには空があるんだ。でも、彼女はそれに苦しんでいるわけではない、だから僕は彼女の身体をしっかりと抱きしめて、彼女に、そして自分にも言い聞かせるように言った。
「お前の気持ちはよく分かる、だから僕と一緒に逃げよう、自分は自分、自分以外何者でもない。そもそも全然隠せも演じもできてないんだから、なにも隠さなくてもいいし、なにも演じなくていい。僕もお前にはなにも隠さない。自分自身の心のなかまで見せる。だからお前も僕に対してだけでもいい、なにも隠すな、そう、今こそこの二人でこの檻の中から抜け出すんだ」
そう、彼女は周りのどう思われてもいいといった態度をとっておきながら異常なほど周りを気にしていたのだろう。きっと友達というものが沢山いるんだ、そしてそれが見えない鎖となって彼女を拘束していた。人は孤独。どんなに人と繋がっているつもりだとしても実は繋がっていない。だからほんのちょっとなにかが狂うだけですぐに皆離れていく。社会の箱のなかで何度も交わって離れていく。人は繰り返す。栄えて衰えて飢えて反発して新しくなってまた栄えたと思ったら衰退する。そして人は繰り返していることに気が付いていない。自分はこうだから違うと理由をつけて行動する。さあ、逃げよう、それすらも繰り返しているのだとしたら逃げる努力だけでもしてみせる。自分の考えで動けなくなればただの蟻、諦めて立ち止まればただの死体。死体が嫌なら動けばいい、 蟻が嫌なら考え続けて自分の意思を貫けばいい。僕達は社会に反発をする。それが思春期? 関係無い、大人になったら無条件に自ら社会に首輪を着けてもらって喜ぶようになるのか? 大人になったら無条件に個性なんて必要ないと簡単に言えるようになるのか? 違う、お前たちが簡単に諦めて、愚かにへりつくろっているだけだろうが。そうしないと生きていけない? そうしないとただ苦しいだけだ? じゃあなんで残業残業、挙げ句の果てに会社に隠れてまで残業。それ、生きているっていうの? それ、苦しくないの? 休みの日まで仕事のこと、仕事がなくなればなにをすればいいのか分からない。それ、あなたはそこに居るの? 僕は理解できない。だから逃げる、大人になんか成りたくない。今の自分を手放したくない。
「ねぇ、私、貴方のこと好きになっちゃったかも」
「奇遇だね、僕も君と一緒にずっと逃げ続けたいと思っていたところだよ」
彼女は笑った。僕も笑った。彼女は目を瞑った。僕は彼女の唇に僕の唇を近付けた。彼女の呼吸を感じる。僕は軽く唇に触れ合わせた。初キスの味は真っ赤なピンクだった。彼女が「ありがとう」と囁く。僕達はお互いしっかり抱き合ったまま深い眠りに入った。
鳥の声をアラームに目を覚ますとまず、温もりを感じた。その温もりは暖かく、温かい。彼女は僕にしっかりとしがみつきながら気持ち良さそうに眠っている。僕は無意識に頬を緩めていることに気が付くのと同時にいつも胸の奥に存在している苦しみも今は身を潜めている事にも気が付いた。彼女の温もりがまるでモルヒネのように僕を気持ちよくしてくれる、こんな気持ちになったのは初めてで少し不安。
小さなうめき声と一緒に彼女が目を覚まして大きな欠伸をした後に「ありがとう」って呟いた。
「私、どんなに頑張っても二時間しか寝れてなかったの、でも今日は凄くぐっすり寝れた。こんなに熟睡できたのなんて本当に久しぶり」
彼女はにっこりと嬉しそうに微笑む。
「僕もいつも感じている苦しみが全然感じなくて、なんか安心」
僕も笑みを浮かべる。こんな自然な笑みが出来たのは久しぶりだ。僕達はお互い自然に唇を合わせ、頭の中できっかり一分間数えた後に背中に回した腕をほどいて身体を起こす。
「ところで、貴方はなにか食べれるものとか持っていたりする?」
「そういえばなにも持ってないね」
「じゃあ出発しましょ」
「そうだね」
僕達は立ち上がって手を繋いでまた歩き始めた。空を見上げるとやっぱりどこまでも続いていて苦しい。でも、彼女と一緒ならこの空からでさえ逃げ出せるような気がしてくるから不思議。だってほら、僕達は歩いている、一歩ずつ前へ前へ。今いるこの場から逃げ続けるんだ、僕達二人、この青い檻から抜け出す為だったら空の青さえ消してみせる。
なんでだろ、私は辺りを見渡しながら思う。いつもより色が鮮明。草木の青が昨日と比べ物にならないくらい美しいし、彼もちゃんと思ったことを全部口に出すって約束してくれたし、ほんと泣いてしまいそう。
ここには私達しかいない、だから今、私達は存在していない。だって誰も私達を認識していないのだから。逆に、私達は誰も認識していない。だからきっと、この世界には誰もいない、私達は存在していないし、他の人も存在していない。じゃあ私はなにをしても大丈夫。私は貴方のことを全て知りたいのって彼を押し倒してべろちゅー、無理矢理服を脱がしてから私も脱ぐの、それから私が彼の彼が私の首に手を回して、一気に締める。きっと苦しいだろうけど、彼も苦しい。そして一緒に気絶して一緒の夢を見るの。夢の中は全部筒抜け、彼は私を私は彼を全て知るの、きっと楽しい。私達は本当の意味で一つになってずっと一緒。貴方を知るのには言葉じゃ全然足りないの、私は。
「そろそろ休憩しようか、」
そうだね、私は彼の意見に賛成する。実際疲れていたし、そろそろ彼について色々我慢できなくなってきていたから。
ねぇねぇ、好きな動物を教えて・猫かな・じゃあ食べ物・カレー・本・人間失格・じゃあ飲み物・ミルクティー・甘いものと辛いものだったら・どっちでも大丈夫・国・どこも一緒・そうね、音楽は・歌詞が深い曲ならなんでも・暇なときなにを考えてる・思ったこと・ティッシュを取るときは何枚・取り敢えず五枚くらい取ってから一枚ずつ・私のことは・好き・じゃあ痛いのは・嫌い・気持ちいいのは・どういう分類かによるね・性行為・やったことないから分からない・リストカット・やったこと無いけど……気持ちいいの? ・うん、凄く・今度やってみようかな……。
私は貴方のことを全て知りたいのにやっぱり言葉だけじゃ貴方のこと全然足りなくて、知りたいって欲求がどんどん溢れていく。どうやったら彼のことを全部知ることができるんだろう? まだ出会ってすぐだから焦らないで一緒にいようって世間は言うかもしれないけれど、そんなんじゃ遅い、遅すぎて二人とも死んでしまう。死んだらもともこもないし、アホらしい。
「ねぇ、君ってしたことないんだよね?」
「ないけど?」
「あれってさ、一つになってるーって感動しているシーンとか見たことあるんだけど、一つになったらお互いのことを全部知ることができるようになったりするのかな?」
「人は人を全て知ることは出来ないよ、知ることができるのは見えるとこだけ」
見えるとこだけ、それじゃ足りない、全然足りない。私は貴方のことが知りたいのそして私のことを知って欲しいの、いっそ貴方と私、一つになりたい、ぐちゃぐちゃーって混ざり合って、一つに。セックスなんかじゃない、そんなただの性行為、オスとメスが子孫を残すためにある下らない本能。彼がどのように生きてきて、彼になったのか、彼がどのような思考でどのような考えに至ってどのように動くのか。そんな彼自身の中身、構成内容、構成過程全てを知りたいしそれと同時に私の全てを彼に知られたい。でも、出来ないのかな? したいのにできない。それは私を苦しめて黒くする。こんなに彼は近くにいるのに手をいくら伸ばしても彼の中身には届かない、苦しい、私は彼との距離を近付いて、くっつく。彼は温かくて私をリラックスさせてくれる、でも、もっと彼の身体を通り抜けるくらいに近付きたいという欲求はどこまでも膨らんでいって止まらない、止まってくれない。ねぇ、助けてよ、貴方の胸に手を入れて貴方の記憶を全部盗みたい。私は貴方を欲しい。欲しいの、貴方は私を愛してくれた、でも、まだ貴方は私の物じゃない。私は貴方を全然知らないから。ねぇ、私にちょうだい? 全部、貴方の全部を。
彼のそろそろ出発するかっていう一言で休憩は終わった。黙々と歩く君に一言。今、この瞬間、一体なにを考えているの?
そうだね、ごめん、自分でもよく分からないんだ。嬉しいのに苦しい、苦しいのに嬉しい、世界がこんなに美しく見えるのに、世界がこれでもかと醜く見える。君と居ると安心するけど、不意に居なくなって欲しくなる、でもすぐに居て欲しくなってまるでスクランブルエッグ。きっとこの苦しみはこの世界が滅びないと無くならない、今ここに居て周りの世界は見えないけれど、ここを越えてもなにも変わらないという予感がして苦しい。今の世はグローバル、どこに逃げても本質的に社会は変わらない、建前に建前、本音に嘘を重ねてどれが本当、どれが嘘か分からない言葉を次々に吐き出すクソども。どこに逃げても首輪をつけられた家畜で一杯。上にはペコペコ下には圧力、世間体は死ぬより大切で金より権力、そして金は権力。こんな腐った人間で溢れた世界、とっくに腐ってる。腐ったところに目を向けず、ただただ時だけを延ばしてそれを永遠だと嘯く、民主主義という甘い言葉、民衆が主であることを忘れ、卓上の空論をギャーギャー並べて批判、トップが変わって批判批判。まるで今は江戸時代後期。どこに行っても腐ってる、僕達に逃げるところなんてない、ならいっそ世界を壊してしまいたい、って考えていたよ。
彼の考えは私にはないものだった。でも、まるで私の苦しみを代弁しているかのよう。これが彼の考え、これが、貴方の考えなのね! これは貴方の全てではないけれど、私の心の黒は半分くらい流れていって少しだけ楽になった。でも、挙手、一つ疑問、世界を壊す方法とは?
世界を壊す方法、世界を壊すだなんて紙の中か、画面の中じゃないと絶対に不可能。ましてや僕みたいな今の社会に不適合な人間がいくら騒いだって誰も相手にしてくれないし、数は力、そもそも二人だけではその辺のコバエ一匹にすら劣ってしまう。ネットに自分達の考えを書き込もうにも、ネットも人間、なにも変わらない。有象無象の戯れ言の批判に埋もれてしまう。
「じゃあ、こういうのはどう? まず僕達は超能力を手に入れる、とびっきりすごい奴ね。その力を使って世界のトップを誘拐する、殺しちゃ駄目だよ? 生きているっていうのが重要、で、僕達は生きているトップ達に言うんだ、世界を変えたいから国を貸してってね、そして議会の解体を全世界で宣言する。ほら、世界は変わった」
彼女は今にも笑いだしそうな表情をしながら「それで、できるの?」だから僕は言ったんだ「勿論無理だね」そして僕達は笑い合った。
笑いが一段落、僕も彼女に聞いてみた。貴女はいつもなにを考えているの?
そうね、私は貴方の考えを知りたいだけなの。私にとってこの世界はどうでもいいし興味もない、ただ私は流れに乗って生きていきたかった。でも、私には無理、ちょくちょく体調が悪いって断って休んでいたんだけど、それも限界になって初めて無断でサボった時、一人外を眺めている貴方を見つけたの。私の中で貴方はルールを簡単に無視するのに、周りの不良とは違って自ら破りいこうとは思っていないみたいでどちらのグループにも属せない人というイメージ。貴方はいつも一人で居た。なのに全然苦しそうじゃなかった。私は不思議に思ってたの、誰かに合わせて生きるのは苦しいけど、ずっと一人で居るのはもっと苦しい筈。私は思った、貴方の全てを知りたい、だから貴方に話しかけた。妙な達観キャラだったのは貴方に合わせようとしたから。全然合ってなかったけどね。でも、これが私。今の私は貴方と二人だけの世界に閉じ籠って永遠に生き続けたいって考えているの、私がカレンで貴方はハルキ、それ以外はただの物。私は貴方を貴方は私しか見ない、周りの人間なんてどうでもいいの私達は二人、やりたいように暮らしていく。そう、もう人間なんて知らない、勝手に腐って朽ちてしまえ、世間なんて気にしていたら苦しいだけだからもう見ない。私は貴方と殻の中で生きていきたいのです、永久に。
僕と貴女の考え方は似ているようで似ていない、でも、どっちも正しい考えにはたどり着けていない、と思う。僕の方はまず実行不可能で、貴女の方はきっと楽園が待っているだろうけれどそれはただ目線を逸らしているだけで逃げてすらない、逃げるためにはしっかり物事を直視して考えなければすぐに見つかる、それじゃあすぐにその殻は崩れてしまう。きっと僕達の考え方の真ん中、足して二で割った考え方が一番丁度良いんだよ。僕は彼女に伝えて「例えば、何かあるかな?」と聞いてみた。
「そうだね、こうやって哲学をぶつけ合っているけれど、私達にはあの町でただ腐っていくか、旅を続けるしか道はないんだよ、きっと。それこそそれ以外は卓上の空論、絶対に成功しないし、私達が望んでいなかった結果になっちゃう。貴方もそんなの嫌よね? 旅を続けましょ、まずは二人でこの山を越えて、その後もどこまでも二人でずっと一緒に」
「僕達は本当にこの山を越えることが出来るのかな? ある地点に到達したらある地点まで戻って永遠に同じ場所を歩き続けていたり、僕達は歩いているつもりでも実は足踏みをしているだけで全然進めていなかったり、そもそもこの山に終わりが無かったりして越えられないんじゃないかってずっと不安だった」
「大丈夫よ、たとえあの町以外の町が全部滅んでいても私達は歩き続ければいい、食事なんて虫が食べている葉っぱをかじっていればある程度は生きられるし、水は川がある。そして、川には魚もいる。川を辿れば海があって、塩分も取ることが出来る。本来、旅というのはそういうものだった筈、安全が保証された旅なんてただ虚しいだけだわ」
確かにその通り、別にこの先に町がなくても全然問題は無いんだ。旅というのはこの先に何があるのか分からないから旅というのだし旅をしている以上、この先に町があると分かりきっている筈がない。ただ人づてにこの先に町があったと聞いているだけ、もう既に滅びているかもしれないし、そもそもそんな町すら 存在していないのかもしれない。彼女の言った通り、食べ物がなければ採ればいいし、飲み物がなければ汲めばいい。そんな事すら忘れていたのは、何でもあるのに何も無いあの町の常識が染み付いて全然落ちなくなってしまっているから。あの町を嫌っている癖に僕は無意識の内に町のルールに則って考えてしまっている。それに比べて彼女はどうだ、彼女の考えはすごく自由、あの町なんか関係無くありのまま、人間本来の考え方を持って物事を捉えることが出来ている。僕は彼女を尊敬、やっぱり僕も彼女のことが知りたいと思った、彼女の思考、彼女の記憶、そんなものを一から十まで全部知りたい、いっそ僕は彼女に成りたい。一瞬でいいから彼女に。僕は彼女に「確かにそうだね」と返しながらそう思った。
今日もまた太陽が傾き、一日が終わる。なんと一日中動いているのに食べ物を全く口にしていない。
「お腹すいたわ」
彼女も同じようなことを考えていたようで沁々と呟きながら近くを走っている獣道に目線を向けた。僕も「そうだね」と返しながらチラリと彼女の見ている道を見る、その道はまっすぐ奥へと伸びていて、今から入るとなると一時間も掛からないで日が完全に落ち、暗くなってしまって元の道へ戻れなくなってしまう。
「こんな道を歩いていても食べ物なんか見つからないわ、行きましょ」
彼女もその事を分かっている筈なのに、真剣な眼差しで僕を見つめる。僕は「道に戻れなくなるよ」彼女は「戻れなくてもいいのよ、私達には目的地が無い、自分達の思うまま、気の赴く方へ進んでいけばいいの」なるほど、僕はまたあの町の常識に囚われていたらしい。コンクリートで固められた人工の道だけが道じゃない、そもそも本来、決められた道などなかった。動物が歩くから道ができ、人間が便利に通ろうとして大きく整えられ、人間が独占しようとしてコンクリートという人以外は歩きづらい道になった。僕はつくづく言葉だけの人間だ、蟻になるのが嫌だといいながら蟻の常識でしか考えられていない、社会が嫌だといいながら社会が作ったおかしなルールに囚われ、それなのに社会から逃げ出したい、こんな生活から抜け出したいと抜かす、僕はバカだ、こんなんだったらナイフで頭をぶっ刺して他の人格に身体を譲ってやりたい、ああ、それすらも社会の常識、人は本当に頭で考えている? 違う、頭ではない。じゃあどこ? そうか、僕は気がついた。人は主にお腹で考えている。お腹には沢山の物が詰まっていて、毎日二十四時間、要るもの、要らないもの、要るけど捨てるもの、仕分けて捨てるものを身体の外、おしっことかうんこになって出ていく。お腹はただ黙々と仕分けるだけじゃつまらないから、考える、考え続ける。それが反映、僕になる、脳はただその考えにしたがって身体を動かす言わば司令官、多少の独断は許されるけど、基本はお腹、そういった意味だと身体を一つ一つが考えている。指が、腕が、足が、胸が、頭が、そしてお腹が。この身体はまるで軍隊、自由なんか無いんだ。僕が嫌だと思った事がこの身体の中でも起こっている。あぁ、いつか指とか腕とか足が一斉にボイコットを起こして全部バラバラに動いたり、動かなくなったりしてしまうんだ。この世界はいったい、何故、何の為にできた? きっと動物と、この身体と一緒、宇宙の何処かが考えた通りに地球は動いている。勿論なにを考えているのかなんて分からない、身体達の中で何が起こっているのかが分からないように。よし、行こう。僕達は僕達の世界を探しに旅に出ている、もう社会になんかに囚われてたまるか、僕は「うん、行こう」と言って彼女と一緒に踏み出した。僕にはその瞬間からようやく旅が始まったように感じられた。
道に入ってすぐに日は落ちた。日が落ちると辺りが全く見えなくなり、身動きが取れない。先に進みたい彼女をなだめ今日はここで眠ることにした。
「暗いわね」
ポツリと呟いた彼女の言葉に僕は「そうだね」と頷く。
「落ち着くわ、真っ暗な所にいると自分と闇が一緒になってどこか遠くへ連れてってくれるみたいで好き。闇は私を包み込んで貴方とも一つにしてくれる」
「分かるよ、暗闇にいるともう少しで世界の全てが分かるようになる気がする。でも怖い、闇を通じて全人類と繋がって気が付いたら自分すらも蟻、つまりゾンビみたいになってしまいそう」
彼女は「そう、」心ここにあらずに呟いて不意に「一瞬でいいから貴方になりたいわ」だから僕も「僕も一瞬でいいから貴女になりたいよ」と言った。
二人の気持ちは一緒で誰も傷つかないのに、どう頑張っても僕達は入れ替われない。胸の奥がぎゅーって心が、そして身体が青くなる。この感じなんだろう? 言葉にすると、そう、『むなしい』。お互いの同意があるのであれば、お互いに心からそう思っているのであれば、別に入れ替わらせてくれてもいいじゃないか、最近入れ替わりものの話が流行っているのにこの世界ではいくら手を伸ばしても手に入れることができない。ああむなしい、むなしすぎる。僕達はこの世界にオギャーって生まれ落ちておはようおやすみこんにちはさようなら繰り返してきたけど、どんなにその人と離れたくなくても同じ、どんなに苦しくても世界は知らん顔、ただ一秒、また一秒と進んでいく。僕達がこうして逃げているこの瞬間でもあの町では淡々と同じ時間が進んでいて変わらない。僕が手を伸ばすと君も手を伸ばしていて触れ合う。やっぱり彼女の手はマシュマロ、彼女を食べれば彼女の考え方が分かるだろうか? でも食べてしまったら僕は一人、永遠に孤独のままこの森をさまよい続けることになる、僕は彼女がいるから耐えられる、きっと彼女も僕がいるから耐えられている、お互いのことを知りたくてお互いのことを知れなくて、僕達は旅をする。いつかお互いの考えていることが分かるようになると信じて、お互いを分かり合うことが出来ると信じて。今はそうやって生きていくしかない、いや、そうやって生きていこう。空を見上げるといつの間にか分厚い雲がどこかへと消え去って木々の隙間から星の雨を降らせた。
「きれいね」
彼女の言葉に僕は触れ合った手に少しだけ力を入れて返事をする。
「あの星々に手が届くのならどんなにいいことか、いくら手を伸ばしても届かないわ」
僕も試しに星に向かって手を伸ばしてみると、手を伸ばさない時は感じなかった絶望的な距離を感じて彼女の言葉が凄く分かる。やっぱり僕達はちっぽけな存在でこんなところにポツンと二人居ることに僕達以外気付かない。今、この瞬間、世界は空っぽ。ただ闇だけがどこまでも続いていて漂う。僕達は何に苦しんでいるのだろう? この少しでも気を緩めると狂ってしまいそうになるこの苦しみはどこから来ているのだろう? 僕達はどこに逃げればいいの? ねぇねぇ教えてよって僕は気付いた。僕達は僕達から逃げたいんだ、空っぽなのに黒くて赤くて禍々しい自分自身から逃げ出したい。だからいくら手を伸ばしても、いくら町から逃げ出してもこの苦しみは無くならない。この苦しみは死ななければ永遠に無くならない、あるいは僕達が世界になるか。僕は衝動的に彼女に起きているかどうかを聞いた「起きているわ」彼女は起きていた。
「気付いた、僕達が奥で燻っていたのはこの旅じゃない、これじゃ苦しみからは解放されない、この苦しみから解放されるのは死ぬことだけ。本当は僕達は僕達から逃げ出したかったんだ、このクソみたいな自分から。でも、自分からはどう頑張っても逃げられない、当然、どこに逃げたって自分はどこまでも着いてくるんだもん。だから僕達が世界になろう、こんなところで二人ひっそり朽ちてもなにもなんない、町へ戻ろう、ここに逃げても意味がないんだから」
「私は私自身から逃げたい、そうだ、私は私自身がこんな醜い魂が引き裂いてやりたいぐしゅぐじゅに腐りきっているのに世界が腐りきっているから分からないまだ大丈夫まだ食べれるって放置、私は血がみたいから自分の身体を切っていると思っていたけど違うのですね、私は私を外に出したいと思っていたから切っていたのですね。そんなの知ってしまったらすぐに死ぬしかないじゃない、世界を変えるなんて無理、私達自身腐っているのだから同じく腐っている世界を変えるってバカ、ねぇ、一緒に死にましょ? お腹に人指し指ぐちゃっ混ざりあって恍惚、混ざりあって一つ、私が貴方貴方が私にっこり笑って気持ちいい、手を伸ばせば咬み千切るそんな関係。今死にましょ、苦しいから苦しいまま本能、死にましょ? ほら、私達はここまで逃げてきたじゃない、それと一緒、永遠に私達逃げ続けるやっぱり私達は私達の世界、永遠生きようよ」
彼女は楽しそうな声で僕のお腹から撫で上げて心臓で止める、僕はここで死にたくない、せめて死ぬのであれば世界にささやかな仕返しをしてから死にたい。いや、仕返しとして蟻どもの目の前で死んでやりたい。
貴女は社会に積み上げられた有象無象の死体、そんななにかを伝えたかったのに孤独、なにも伝えられなかった者達のように消えていってもいいの? 人は二回死ぬ、一回目はこの肉体が生命活動を停止した時、二回目は人々から忘れ去られた時。永遠に僕達一緒に居たいのなら、永遠に忘れられない様な死に方をしなければならない。ねぇ、それでも貴女はこんな孤独で消え去りたい?
空白の時間、時間が止まったように虫の音だけが聞こえる。彼女が不意に僕の胸に置いていた手を下ろし、立ち上がって「いくよ」と一言歩き出す。僕も安心のため息一つ、暗闇の中見失わないように急いで立ち上がってもと来た道を戻り始める。
来るときは旅の始まりと希望に満ちていたこの道も帰るとなれば身体が重く、やる気が出ない。僕は頭のなかで繰り返し何度も『とうりゃんせ』を歌い続けた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ──。
夜が明けて日が上り傾いてまた夜が来て明けた。僕達は一度も立ち止まらずふらふらと歩き続けていて端から見るとまるで亡霊。僕達は疲れ果てて倒れそうなのに立ち止まる気になれず、お腹が空いているのに積極的に探す気にもなれなかった。今の僕達だと、たとえ目の前にご馳走が置いてあっても無視して歩き続けると思う。
ああ──、ぼくたちはなんでここにいてなんでここをあるいているんだっけ? そもそもボクタチってだれ、ボクはめのまえにいる。タチなに、タチってなんなの、となりにいるひと、かのじょとなりいる? ダメしかいがボヤけてみえません。でもヒカリがきれいです、キラキラ、キラキラってもしかして未来、ああちがうのですね、はいあれは、そうですか、カミサマですか、ああカミサマわたしはカミではありません、わたしはいよかんです。そう、きいろいオレンジいよかんです、いよかんおいしいいあいうえお、いよかんスッパイかきくけこ。アハハなんかオモシロイ、ミンナデワライマスカ? ソレトモケリマスカ? ソレトモ──。
謎の暖かみ、横になっている感覚、周りにいる人の気配に僕は目を覚ました。白い床と白い壁、部屋の真ん中に六個の白い机が置いてあってそこに座っている人達は皆黒い服を着ている。僕は身を起こす。そこで謎の暖かみは毛布が掛かっていたのが原因だということに気が付く。隣を見ると同じように毛布を掛けられた少女がぐったりと倒れていて、一瞬誰だろうと考えたけどすぐに彼女だということに気が付いた。彼女は僕の知っている彼女よりやつれていて儚くどこかに消え去ってしまいそうな雰囲気。「おお、目が覚めたのか」と黒い服を着た中年の男に話しかけられた。黒い服はよく見ると警察の制服で、それに気が付いてようやくここは交番だということが分かった。
「君はハセガワハルキ君だね?」
僕は頷く。
「じゃああの子はニシキノカレンちゃん」
今度は頷けなかった。僕は彼女の名字すら分からない、カレンという名前すら間違っているかもしれないと疑っていたくらいだ。だからずっと彼女のことは貴女と呼び続けていたし、そもそも僕のなかで彼女は彼女であって、彼女以外の何者でもなかったのだった。
頷かない僕を見て警官は少しだけ首をかしげながら、手に持っていた手帳を置いて「お母さん達が心配していたからカレンちゃんが目を覚ましたらすぐに家へ送ってってあげるね」と長い伸びをした後、元居た机に戻ったと思うとすぐによく分からない作業を忙しそうにやり始めた。
彼女は死んじゃったんじゃないかって勘違いしてしまいそうなくらい深い眠りに入っていて、なんかおかしい。近くで工事でもしているのか、外からはガタガタピーピーザーダダダダダと大きな騒音が聞こえてくる。今この場にいる警官は四人で男二人、女二人なのだけど、中年の男とまだ青年に見られてもおかしくない多分新人、三十才くらいと中年を越えていると言ってもいいくらいのおばさんって年齢は点でバラバラ。小さな窓から外を眺めると無機質なアパートが天に向かって伸びていて、「ここはどこ」と今すぐに叫びだしたい気持ちで胸を満たされた。僕は、ポケットのなかに入れておいたメモ帳に大きく”僕は一体なにをしている? “と書きなぐる。ここ数日間の出来事全部が馬鹿馬鹿しく思えてきて、この世界のことなんかどうでもいい、彼女の言葉が今ではよく分かる。急速に色をなくしてつまらなくなった世界、あの時死んでおけばよかったという後悔、この世は地獄、死んだら一体らどこにいくの? だから僕は死ねない、この地獄で苦しみ続けなければならないんだ。目覚めた彼女はなんて思うだろう? こんな世界に戻されて、しかも死ねない。きっと絶望、僕は鬼。彼女は独り、孤独の世界に入ってしまう。それは嫌だ、なんか分からないけれど嫌だ。だったら道化を演じよう、かの『人間失格』の主人公のように、恥の多い生涯を送ってやろうじゃないか。彼は道化によって辛うじて人と繋がっていた、僕は道化によって彼女と辛うじてでも繋がろう。繋がってさえいれば彼女が死ぬ時間を延ばすことができる、時間が過ぎれば死にたいって気持ちも薄れるでしょう。そんなものだ、ほら、ただ一さいは過ぎていきます。きっと大丈夫。
ふと目線を戻すと、彼女はもう目を覚ましていて、同じ警官が同じような対応をしていた。
「戻ってきちゃったわね」
彼女と目線があって一瞬だけ笑ったかと思うと、口がそう動いた気がした。
「じゃあ、家に送っていくよ」
手帳を片手で勢いよく閉じながら警官は僕達を車に乗るように促す。「じゃあ行ってきますね」他の警官に伝え彼も僕達とほぼ同時に外に出た。警察は恐い。警察こそ真実を隠して建前に建前を重ねて建前しか言わない人達の集まりだから。パトカーの後部座席に乗り、扉を閉められた瞬間、僕達は固まった。多分同じ理由だろう、閉じ込められた、この小さな空間に。その間に運転席に乗り込んだ彼は「あー、君達ってどこに住んでいるの?」と聞きながら、カーナビに迷いなく僕達の住んでいる住所を打ち込む。僕達は無視をした。彼は肩をすくめて車を発進させた。
「まあ、なんであんなところに倒れていたのかは聞かないけどさ、あまり大人達に迷惑をかけるなよ?」
そうですか、大人には迷惑をかけてはいけないのですか、逆に大人が子供に迷惑をかけまくっているのではないですか? それなのに大人にはかけちゃいけないなんて、なんの驕りですか、だったら大人は子供を身守らなければなりませんなんて、大層な嘘をなんの躊躇もなく吐かないで頂けますか? 僕達はただ自分が思った通り、自分を貫きたくて、自分に責任をもって動いているのだから、勝手にそんな義務を作って迷惑をかけるなはおかしい。大人達の迷惑は大人達が思っている通りに動かないこと、要するに僕達は大人達の奴隷であって、命令なしに機械並みの働きをしないときっと大人達は「迷惑をかけるな」「迷惑をかけるな」と騒ぎ続ける。そんなのおかしい、僕達は動物であり、人間だ。お前らと同じ、人間。お前らそんなに人間至上主義であるならば、差別はんたーいって騒ぐのであれば、大人が子供を奴隷のように操るのをやめないか? クソくだらないことでは騒ぐ癖に、重要なことには目を向けないクソ民衆、お前ら一体なに考えている? ストレス発散か? ストレスが最近溜まっていて~、だからネットで批判をして発散しているんですぅ~、え? 世界をいい方向に? そんなの考えているわけないでしょくだらないってか? くだらないのはどっちだよ、クソ蟻ども、ごちゃごちゃ群れやがって。
「あ、ハルキくん、家に着いたよ。お母さんにはもう伝えてあるから大丈夫、じゃ、また明日」
明日? もしかして事情聴取みたいなのがあるのかな? 凄く憂鬱だけど、適当に頷いていれば終わるでしょと適当に頭を下げて車を降りた。数日ぶりの家はなにも変わっていないようでいて、なにかが変わっているようでもあった。何故か自分の家が他人の場所のように感じられて、中に入る踏ん切りが付かない。よし、と覚悟を決めて玄関の扉を開くと、目の前に髪を逆立てた女性が凄い剣幕をしながら仁王立ちをしていた。母だった。僕は「ただいま」といった。
だだいまじゃないでしょ馬鹿! どこでなにをしていたのよ、制服をこんなボロボロにして……制服って凄く高いのよ、絶対新しいの買わないからね! 突然帰ってこなくなったと思ったら、今度は警察から電話でお子さんがいないのになんで私達に相談しないんですか? って別に心配をしていなかっただけなのになんでおかしな人とのような扱いを受けなきゃいけないわけ? 貴方がどこかに行かなかったらこんな扱いを受けなくてすんだのに、本当どこ行っていたのよ! 学校でもほとんど授業を受けてないそうじゃない、二時間くらいずっと貴方の悪口を聞かせられるこっちの身にもなりなさいよ、いつからこんな駄目な子になっちゃったの……、ねえ、答えてよ、答えてって言ってるでしょ! 貴方には口がないの? 貴方は昔からいつもいつもそうやって私をおちょくって心の中で笑いやがって、なんで貴方なんかを私が育てないといけないのよ、勝手に死んでしまえばいいのに、……なにニヤけてるの! あ? そんなに私がおかしい? おかしいか? そんなにおかしんだったらもういい知らない、どっかで勝手に生きてろ、どうせお金がなかったらこの世界は生きれないんだ、どこかで泥水を啜りながら苦しめ、私は限界だ、出てけ! 異常者!
僕は肩をすくめた。これが親の言う言葉でしょうか? 自分の世間体ばかり心配して、挙げ句、異常者扱い、金がなかったら生きれない? 知らねぇよ、自分の世間体の為の道具なのか? 子供は。ペコペコ取り繕う蟻を「いい子ねぇ」、自分を貫く人間を「異常者」やっぱり狂っている、僕が狂っているんじゃない、この世界が狂っているんだ。
「僕は貴女の子、僕が異常なら貴女も狂っていることになるけど?」
「違う! 私の子じゃない!」
「知ってる、でも、血が繋がっていなくとも貴女が育てた。だから変わらない、僕は貴女の子だよ」
そもそも血がなんだ、家系がなんだ? 性格になにか影響があるのか? 僕は目の前の女性に育てられた。じゃあもし僕が狂っているのだったら、僕を作った君も狂っているんだよ、お母さん?
「ででけ!」
母は物凄い剣幕で歯軋りを激しくしながら叫んだ。僕は「ほら、すぐキレる、外から見たら貴女も十分狂っているよ?」と言って扉を開けて外へ出る。母は思いっきり壁を殴り付けていた。
お腹が空いた。僕は思い出したかのように痛みだしたお腹を押さえる。ポケットを漁ると五千二百三十一円出てきた。取り敢えずコンビニに入ることにする。
中に入ると「いらっしゃいませー」と耳に突き刺さるような大声が重なって聞こえてきて、ああ、戻ってきてしまったと嫌になる。適当にお腹に溜まりそうな物を籠にぶちこんでレジへ置く。「千三百円です」僕は三千円を渡す。七百円が戻ってきた。お金は不思議。今出した三千円は過去に何回僕の手に渡ったのか、これからの未来何回手に取ることができるのか、誰にも分からないし、知るよしもない。そしてそれはこの町にとって心底どうでもいい事であり、誰も気にしたことすら無いのだろう。僕はお釣りをポケットに入れて、買った商品を受け取りながら思った。
どこで食べよう? とふらふらさ迷い歩き、森のように緑色のした公園にたどり着いて、僕はベンチに座る。レジ袋の中には非常食めいたクッキーとか、中身がぎっしりつまっていそうな黒くどっしりとしたパンが大量に入っている。取り敢えず『黒糖パン』と書いてある長方形のパンを取り出して、パンを包んでいるラップを爪で破いた。瞬間、甘い匂いが鼻腔をくすぐるり、目の奥がギューって引っ張られてくらくらとしてくる。昔からこの匂いを嗅ぐと食欲が無くなるのだけど流石に今日は大丈夫だったようで、すぐに食べきることができたけど、後に甘ったるいネバついた味だけが残って涙が出た。周りには僕以外誰もいなくているのはさらさらと流れる木々だけ。隣に彼女がいるような気がして見てみたけど、やっぱりいない。なんとなく手を前に伸ばしてみる。なにも届かなかった。僕はなにもできない、なにも変えられない。ただ、過ぎていく、誰の意思も関係なく、ただただ風のように。それは誰かがプログラムしたことなのだろうか? 違う、それは直感だったけど、 正しいように感じられた。この世界はなんだろう? 自然だ。なんの意味もなく突然始まったそんな世界。人間だって、猫だって、はたまたアルマジェロだって存在していることになんの意味もない。僕達が生きている意味なんか存在していないし、逆に死ぬ意味すら存在していないのだ。僕達は自然に任せるしかない、死ぬも自然、生きるも自然、いくら伸ばしても届かないこの手のように虚無。
僕はなにをすればいいのだろう? この無力感、僕ができることなんてなにもない。なにも変えることなんてできないんだからなにかをする意味なんてない。そんな考えが身体に居座り、動かない。僕はその場に横になった。太陽が目を貫いて、顔を焼く。場所を変えるために身体を動かそうとしたが、身体が動かない、司令官の命令を嘲笑うかのように一ミリも動いてくれない。遂に身体がボイコットを起こしたんだ、やる気のない上層部に嫌気を指して、全てを投げだしてしまった、でも、それでもいいのかもしれない。それこそ自然、最初から決まっていたことなのだ。僕は太陽に顔面を焼かれながら、彼女は今どこに居て、なにをしているのだろう、とただ漠然と考えていた。
リビングに入る扉を開けると、知らない人が座っていた。私はびっくりして「誰!?」って叫んでしまってから嫌になった。私は何にびっくりしているのだろう? 建物に人が居るのなんて当たり前のことじゃないか、びっくりする必要なんてない。彼女は立ち上がって、私の方に向かってくる、彼女は泣いていた。彼女は「貴女のお母さんよ」と私の肩に手を置く。「あぁ、久しぶりね、最後にあったのは……いつだっけ?」私は表面上は嬉しそうに、だけど、今さらなに? と心の中では中指を立てる、そして無意識の内にそんな事をしている自分を今すぐにぶっ殺してやりたい。
「ごめんなさい」
彼女はいつの間にか頭を床につけてキレイな土下座を見せながら「お母さんはずっと仕事一筋、それこそが貴女の為だと思って頑張ってきた、でも違ったのね、お母さんは間違っていた、本当に貴女が必要としていたのは一緒にいること、貴女に寄り添って貴女の話を聞いてあげること。貴女はずっと優秀で誰にも迷惑を掛けないで、だから安心してた、でも、ずっと我慢してたのね、本当にごめんなさい、もう我慢しなくていい、自分を出して、お母さんもこれから貴女に寄り添えるように頑張る、だから……」
もう限界。今言ったよね? もう我慢しなくてもいいんだよね? 私はダンッって思いっきり彼女の頭を踏みつける。彼女が息を飲んだのが分かった。でも止められないし、止めない。
「ごめんなさい? アホじゃないの、まず貴女のことなんてお母さんだと思ったこと無いし、私にとって貴女はただの一ヶ月に一回お金をくれる人、ぶっちゃけATM。て言うか今さら来てなに、お母さん? 今から寄り添っていけるようにする? おせーんだよ、私はもう私になった、なのに突然馴れ馴れしくお母さん面されても困るっていうか邪魔、もしお金を払い続ける恩とか言うんだったらそんなのいらない、家に居続けるのにもお金がかかるって言うんだったらここから出ていく、こんな腐りきった世界なんかにゃいたくなんかないし、丁度いい」
「ゆ、ゆるして、」「ゆるして?」
私は耳を疑った。その許しては非を認める許してではなくて恐怖からの許して。ありえない。私はサッカーボールをイメージして思いっきり蹴る、ゴッと鈍い音がして足から痛みが広がる。やっぱ頭蓋骨は私の知っているボールよりも固かったみたい、その鈍い痛みが癖になりそう、私はもう一度彼女を蹴った、もう彼女への怒りなんか忘れていて、ただ私はこの恐ろしく硬いボールを蹴り続けることに夢中になって蹴る、蹴る。
正気に戻ると彼女は虫の息、危ない危ない私は119番を押した。
「119番消防です、火事ですか? 救急車ですか?」「救急車をお願いします」「誰がどうしましたか?」「母と喧嘩をしてしまって、母の意識がありません」「呼吸、出血はありますか?」「どちらもあります」「分かりました、あなたの名前を教えて下さい」「ニシキノシンジ」「……え、君、女の子じゃ?」「男です」「……」「男です」「……分かりました、警察の方にも連絡をします。その場でお待ちください」「やだ」「え、ちょ──」
私は受話器を落とし、母の方を向く、彼女はなにかに怯えるように震えながら浅い呼吸を繰り返している。私は口の中でごめんと呟いて家を出た。外は強い風か吹いていて、薄黒く汚れた制服を激しく揺らす、スカートが太ももに張り付いて歩きにくい。折角家に入ったんだから着替えればよかったって少し後悔。まあいいや、気にしない、どうでもいい。今の私だったら全裸で町を歩くことになっても別に気にしない。それにプラスして腹躍りでもしながら歌ってやろう、この世界は狂ってる、だから私も狂ってやろう、さあおかしいか? おかしんだったら笑え、踊れ、チャンチャラランみんな狂ってチャンチャラランこの世界をチャンチャララン人は既に狂ってる、狂っているなら踊りましょ! この世に狂ってない人なんか存在しない、さあさあチャンチャラランチャンチャララン。
それより彼はどうしてるのかな、きっと彼のこと、彼も外にいる、分かんないけどそんな気がする。これこそが乙女の予感? 彼のところに行こう、だって一緒に死のうって約束したんだから。きっと彼だって私のことを待っている。
「何しているの?」彼女の声が聞こえた。「ボイコット」僕は答えながらこれはどこか身体の一部が僕にみせている幻想なのではないかと、どこか諦めのようなものがあった。「そっちこそ何しているの?」僕も聞いてみる。
「貴方を探してた」
何故、とは聞けなかった。彼女の目は濁りながらも鋭く、狂気に満ちていた。
「ねえ、もう私限界、行こう、早く、ねぇねぇ、こんな世界になんてもう居たくない、居たくないの、貴方がしたいようにしていいから一緒に行こうよ、この世界狂っている、狂っている世界にいすぎた私達も同じように狂っていて、それに気付いてからもうダメなの、私の中にいるなにかが暴れだしていて、今すぐに服を全部脱ぎ捨てて氷水を浴びながら野次馬どもをナイフで刺し殺して血を啜って、叫べ叫べ叫んで私に場所を教えろ教えて血を捧げろ、捧げれば私の一部、私の一部になってまた死ねる、ほら捧げろ私に捧げろ、って笑いだしてしまいそう、私はあなたと一緒に死にたいの、ほら、行こ、早く行こう! 貴方の自由にしていいからねえ、どこにいくの? 学校? それともテレビ局? あっ! もしかして幼稚園? 小さい子の目の前で死ぬのって興奮するかも! だってその子達の運命をその一瞬で変えられるんだもん! ワクワクしないわけないわ、その子達どうなっちゃうんだろ、ああ! 殺してやりたい、そんな人生苦しまなきゃいけないなんて可哀想、警察来て誰も生きていない。それも芸術ね、ほらほら、どうするの? どこにいくの? そういえば六時間目全校集会があるからみんな集まるよ、ほら、あと三十分、急げば間に合う、やっぱりトラウマを植え付ける死に方って言えば焼身自殺よね、でも完全に死ねないらしいから色々工夫しないと……あと三十分しかないのに間に合うかしら? ほら急がないと! どうする? どうする?」
突然、歯車が噛み合うように僕の身体が動くようになり、僕は彼女の願いを叶える運命であるということを悟った。僕は蟻になりたくないがために、彼女の機械になってしまったみたい。自分はなにもできなくて、なにも変えられなくて、だから自然に任せることにした。だから僕は彼女のコマンドによってただ動く機械、僕は彼女と居続けたいし、彼女のことが好き、だから彼女の願いを叶える、それこそが自然。学校へ行こう、そして全てを壊そう。僕は道化にはなれなかった、でも、人間失格。人間ではなく、機械になった。仰せのままに、まずは準備だ。僕は立ち上がり「行こう」彼女の手をとって握りしめた。
僕達は今から死ぬのになんか楽しい気分、もしかしたら僕達は狂ってしまったのかも、この世界とは違う方向に。でも、それでもいい。僕達は二人、永遠に生き続けるんだ、僕達は出会ってまだ数日しか経っていない。だからこそ特別。人は永遠に繋がり合っていられるわけがない、世界線はみんな少しずつ違っていていつか離れる、交わっていられるのはほんの一瞬、流れ星よりも短い。だから時間を止めよう。写真のように時間を切り取れば僕と貴女はずっと一緒同じ世界で僕は貴女、貴女は僕の事を全て知ることができて、僕は貴女に貴女は僕になることもできる。
風が流れて、木々を揺らし、車がガタガタと通りすぎる。遠くでクラクションが間抜けに叫んで、近くの川はジャアジャアなって気持ち悪い。季節外れの蝉が一匹だけ淋しく鳴いていて、なんか悲しい。世界は僕達がやろうとしている事なんかどうでもいいって無関心に過ぎていく。空は青い。そして遠く、むなしい。僕達はホームセンターでマッチと灯油とナイフを買った。こんな時間にこんなものを買う僕達に店員は訝しんで、僕達が店を出るのを確認したあとにどこかへ連絡を取っていた。
足を止めると、そこはもう校門。全校集会が始まっているのかとても静か。「どうする?」僕は彼女に聞いた、彼女は「なにが?」と返した。彼女はもう止まらないみたい。僕も覚悟を決めよう。僕は深呼吸を一つ、息を止めて灯油を頭から被る。芳ばしくて鼻にツンとくる茶色で温かい匂いが身を包みあげる。彼女も僕にならってドボドボと頭から灯油を流した。僕達は手を繋いでみんなの集まっている体育館へ向かった。近づくにつれて誰かがマイク越しに話す声が大きく、はっきりと聞こえるようになる。彼女は震えていた。僕も震えていた。怖いのか、嬉しいのか、楽しみなのか、恐ろしいのか、全然全く一切分からない。やろう、これで全部終わりだ、これで彼女の願いが叶って、世界も少しだけ変わる、筈だ。僕達は頷いて、繋いだ手と反対側の手でライターを持ち合った。そして「せーの!」力を込めた。
ひぐらしが鳴いていた。僕は慌てて起き上がる。なにもない部屋だった。あるのは僕の寝ていた白いベッドだけ。窓からオレンジ色の光が射し込み、それを淡く染めている。
「起きた?」
窓の近くから声が聞こえた。僕にはその声が彼女の声に感じた。慌てて窓の方を見ると、キラキラと反射する埃を漫画の背景のようにして、短い髪をオレンジ色に染めた少女が笑っていた。その表情は淋しそうにも、落ち着いているようにも、安心しているようにも見えた。
「ごめんなさい、」
少女は僕に近づいてきた。身体に光が遮られて分かった。少女は彼女だ。彼女は僕のとなりに座って、一緒に空を眺める。黄昏の空は寂しいけど壮大だ。僕達は自然と手を繋いでいた。彼女の手はやっぱりマシュマロのように暖かくて柔らかかった。