二
花街の最奥、人も疎らな場所にひっそりとその古井戸はあった。
昔、この井戸にここから逃げ出そうとした女郎が沈められて殺されたのだという話を聞かされたことがある。一人で水を汲みに行くカコを怖がらせようとした女達が、手を変え品を変えては話して聞かせたのだ。その話を聞いた時、カコはそんな井戸の水を使うだなんてここの人達はどうかしていると本気で思った。しかし、女達の言いつけを守るためにはここの井戸から水を汲み上げるしかないのだった。
覗き込んだ井戸はひんやりしていて、暗くて底が見えないくらい深い。時折反響するぴちょんぴちょんという音が、ここには水が湧き出ているのだと証明しているようだった。
カコはぞくりとしながら、なるべく中を見ないようにしてぶら下がっていた蔓のついた桶を井戸に落とした。遠くの方でばしゃん、と音がする。カコは、水の入った桶を井戸の中から引き上げる作業が一番怖かった。桶と一緒に何か妙なものまで引き上げてしまったらと思うとぞっとして、何事もなく水汲みを終わらせられますようにと神様にお願いするのが常だった。
手の痛みも忘れて必死に蔓を引き桶を引き上げていると、突然背後からにゅっと手が伸びてきた。驚いて悲鳴をあげ手を離してしまうと、その手はカコの代わりに慌てたように蔓を掴んだ。
「すまん、驚かせたな」
低く深い声が降ってきて、カコは恐る恐るその声と手の主を見上げた。
それはかなり柄の大きな男だった。濃紺の着流し姿だが、髪は短く断髪されている。きりっと上がった眉が凛々しく、鍛え抜かれているのだろうがっしりした腕が危なげなく桶を引き上げた。
「水を汲みに来たのか?」
呆気にとられてしまっているカコはただぽかんと口を開くだけで何も答えられない。男はそんなカコをじっと見下ろして、足元にあった桶に水を流し入れる。そしてもう一度井戸から水を汲み上げ、もう片方の桶にも勝手に水を入れた。それらをひょいと肩に担いだかと思うと、突然すたすたと歩き出す。
「どこの店だ?」
水を運ぼうとしてくれていると気付いたカコは、慌ててその男を追いかけた。堂々と道の真ん中を歩いていこうとする男を止めようとまとわりつく。
「なんだ、どうした」
戸惑いつつも足を止めてくれた男に何と言ったものか悩んでいると、男は両肩の桶を地面の下ろし、突然カコの両脇に手を突っ込んだ。ひょいと男の頭上まで持ち上げられ、ぐわっと高くなった視界にまた思わず悲鳴が漏れる。男はまじまじとカコの顔を見て、少しバツの悪そうな顔をした。
「お、お、おろして、くださ、い」
震える声でそう懇願すると、男は驚いたように目を丸くした。
「なんだ、話せるのか」
「み、み、みず、うちが、はこびます」
ようやく地面に足を付けることができ、カコはよたよたと水桶の方へ向かった。
「だが、おまえには重いだろう」
「う、うちの仕事、ですから」
ようやく取り戻した桶を肩に担ごうとするも、それはまたすぐに男の手の中に奪われた。
「では店の近くまで運ぼう」
「あの、お、お、おこられます」
「店の連中に気付かれなければいいんだろう」
カコは生まれてこのかたこんな風に強引に世話を焼かれたことがなく、どう対処したものかまるで思い浮かばない。悩みに悩んで、結局この時刻は店の裏の道を通らなければならないことを話した。
「いつもここを通っているのか」
「はい」
「何故?」
「あの、この時間は人が多いので」
男は両肩に桶を下げながら、狭い路地をすいすいと歩いていく。カコはただはらはらしながらその背中を追いかけることしかできなかった。
「人が嫌いか?」
「あ、う、いいえ」
「では人が怖いか」
「あ・・・・・・は、い」
「そうか」
男は振り返ることなく、まるでよくよく知っているかのように迷わず路地を進んでいく。ここの常連さんだろうかと考えていると、男がまた口を開いた。
「俺もだ」
「えっ?」
「俺も人が怖い」
「・・・・・・旦那様、は」
すると初めて男が笑う気配がした。
「その呼び方はやめてくれ。俺はコウという、おまえの名は?」
「・・・・・・イチ、です」
「イチか」
少し後ろを振り向いた彼の横顔が美しく微笑む。カコはその艶やかさに思わず見惚れた。
「扇屋といえばこの辺りだったか」
その声にはっと我に返ったカコは慌てて男に頭を下げる。
「あ、ありがとうございました」
「いい、俺が勝手にしたことだ」
「・・・・・・コウさまは、お客様ではないのですか?」
「客ではないな。しかし、女を求めてここにいることに変わりはない」
僅かに口端を吊り上げてそんなことを言うコウに、カコは少しだけ落胆した。こんなに男前で美しい人を、女達が放っておくはずがないのだ。簡素な成りをしているがその魅力は曇ることなく、むしろ一層彼の美しさを引き立てていた。
「そろそろ行く。おまえも早く戻れ」
「は、はい」
桶を受け取ろうとして、しかしもうこの美しい人とはもう二度と会えないかもしれないと思うと、カコの動きが止まる。
「どうした?」
「・・・・・・また、お会いできますか?」
勇気を振り絞ってそんなことを言うと、男はいくつか瞬きをした後、きゅっと目を細めて微笑んだ。
「ああ、また」
店に戻ると、案の定遅いと怒られた。カコはなんだか頭がふわふわしていて、そのせいでいつもよりきつく叱責されてしまった。いつもならつらく感じるはずの冷たい扱いも、何故か今日ばかりは気にならなかった。また、あの美しい人に会えるだろうか。カコは胸を躍らせながら、日常の中へと紛れ込んでいった。




