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5.秀一の弟

「シュウの家!」


 五分ほど歩いたところで秀一が叫んで指さしたのは、五階建ての茶色いマンションだった。自分の家を見つけてほっとしたのか、その眼にはまた涙が浮かんでいた。


「あの茶色いマンション?」


 里麻が腕の中の秀一にたずねると、秀一はどこか緊張した顔でこくりと頷いた。


「三階の302号室!」


 健太が得意そうに胸を張った。

 階段かエレベーターで里麻は一瞬迷ったが、他に住人の姿も見当たらなかったのでエレベーターを使うことにした。

 腕の中の秀一の緊張が移ったのか、里麻もドキドキして仕方がなかった。


 里麻を除く三人は、家まで行けば普通に入れると思っているようだが、里麻はどうやって入ろうか悩んでいた。今時、家にいる時だって鍵をかけるのが普通ではないだろうか? 里麻の家は一戸建てだが、防犯のため出かける時に限らず鍵をかけるように言われていた。


「……まあ、普通にインターホンを押せば開けてはくれるか」


 302号室のドアを前にして里麻は小さくつぶやいた。運がいいことに、インターホンはカメラ付きではなかったのだ。

 秀一が「降りる」というので、里麻はそっと地面に下ろした。すると、里麻の心配をよそに、秀一は少し背伸びすると小さな音を立ててドアノブを回し、「うんしょ」と重い金属製のドアを開けた。

 里麻は秀一の開けたドアを片手で押さえてやりながら、心の中で密かに、「シュウ君のママさん、無用心ですよ」とつぶやいた。




「ただいま!」


 秀一は部屋の中をうかがい見るようにしながら、狭い玄関で靴を脱ぐ。


「お邪魔しまーす」

「こんにちはー!」


 真奈美と健太は、いつもそうしているのだろう、慣れた様子で秀一の後ろに続いた。

 里麻だけは、初めてのお宅にお邪魔するというので緊張しながら、小声で「失礼します」と言う。言っても聞こえないだろうし、姿さえ見えないはず。靴を脱ぎながら、この靴は見えているんだろうか、やっぱり見えないんだろうな……なんてことを考えながら三人の後に続いた。

 短い廊下の奥は、南向きの窓から明かりが差し込む居心地のいいリビング。その隣の小さな和室で、秀一は歓声を上げた。


「ママ! 赤ちゃん!」


 一組の敷き布団の上に、掛け布団と毛布にくるまった若い女性と、まだ産まれたばかりの赤ちゃんが、すやすや眠っていた。秀一は頬を上気させ、赤ちゃんの枕元にぺたりと座った。


「シュウ君の赤ちゃん、生まれたんだ!」


 真奈美も赤ちゃんの枕元、秀一の隣に駆け寄った。


「ちっちぇー!」


 健太も興味津々で赤ちゃんをのぞき込む。


「うわっ。可愛いねー」


 里麻も思わず三人の後ろから赤ちゃんを見て、笑顔になる。


「僕の弟だよ!」


 とろけそうなほほえみ笑みを浮かべて、秀一が赤ちゃんのほっぺたをつついた。


「……名前、なんていうのかな」


 秀一の言葉を受けて、里麻は部屋の中をぐるりと見回した。部屋の片隅には、里麻の家に置かれていたような真新しい小さな仏壇。その中に幼い秀一の写真を見つけて胸が詰まる。仏壇からすっと視線をそらすと、その隣の壁に貼られた色紙が目に入ってきた。



 《命名、悠二ゆうじ



 漢字の横にふりがなも書かれていた。里麻は秀一に向き直ると、そっと口を開いた。


「悠二君だよ」


 里麻の声に三人は一斉に「なんで知ってるの!?」と目を丸くした。


「壁にお名前書いて貼ってあるからね」


 里麻は、にこりと笑って伝える。できるなら、嬉しい気持ちに水を差したくないと、色紙は指ささずに里麻は言う。隣の仏壇、その中の写真の意味が、三人の子どもたちに理解できるかは分からない。でも里麻は、自宅に新しく置かれた仏壇と、その中に自分の写真を見つけた時の驚愕は、この子たちに味合わせたくないと思うのだった。

 切ない想いに駆られた里麻を現実に引き戻したのは、秀一たちの歓声だった。


「ユウ君、目、開けた!」


 秀一の嬉しげな声に、真奈美がお姉ちゃんらしく、


「しーっ、ビックリしちゃうよ」


 と唇に人差し指を当てる。


「ユウ君、お兄ちゃんだよー」


 秀一が小さな手で悠二の頭にそっと触れると、悠二はふわあっと笑みを浮かべた。


「笑った!」

「笑ったよ!」

「かわいい!」


 秀一が里麻の方を振り返った。


「里麻先生」

「なあに?」

「この子ね、僕の弟」


 一生懸命な顔が可愛くて、里麻の頬も思わずゆるむ。


「うん。可愛いね!」

「あのね」

「うん」

「抱っこしてもいい?」

「抱っこ?」


 聞き返しながら、里麻は返事に迷った。里麻は父にも母にも妹たちにも触れることはできなかった。もちろん、愛猫にも。

 子ども好きで二人も妹がいる里麻は、赤ちゃんの扱いにも慣れている。だから、抱けるものなら抱かせてあげたい。でも、抱っこしていいよと言っても、秀一が生まれたばかりの弟を抱くことができる保証ができない。

 でも待てよ、と里麻は思った。

 シュウ君、さっき、赤ちゃんのほっぺたつついてたよね? 頭もなでてたよね? じゃあ、触れるってことかしら?

 そう思いながら、里麻はもしかしたら……と赤ちゃんに手を伸ばした。


「……あ」


 触れる! あったかい!

 つきたてのお餅のような、きめが細かくて柔らかい肌だった。


「里麻先生?」

「ん。待っててね。今、抱っこするね」


 里麻は悠二の首の下に手を添えると、そっと布団の中から抱き上げた。ふにゃふにゃした赤ちゃんの感触が、ミルクくさい甘い臭いが里麻の身体の奥底から、懐かしい記憶を呼び起こす。私も妹が生まれた時に、抱っこしたいって言ったなぁ、里麻の涙腺がふっと緩みそうになった。うっかり涙をこぼす前にと、慌てて里麻は赤ちゃんを抱き直した。

 それから、ゆっくりと秀一の腕に赤ちゃんを移す。


「シュウ君、赤ちゃんのお首、まだグラグラしてるから、ここをそーっと支えてあげてね」


 真剣な顔で秀一が頷いた。そうして、里麻は悠二からそっと手を離した。


「僕の、おとうと」


 秀一がとろけそうな笑顔を浮かべて、悠二のおでこにキスを落とす。


「お兄ちゃん、ユウ君と一緒に遊んであげられなくて、ごめんね」


 その言葉に、秀一がどれだけ弟の誕生を楽しみにしていたのかを感じて、里麻の心はきゅんと痛んだ。鼻がツーンとして、涙があふれ出しそうになるのを何とかこらえる。


「あのね、ユウ君のママ、うーんと優しいよ」


 悠二はつぶらな瞳で秀一をじーっと見つめていた。


「たまにね、怒ると怖いんだけど。本当は、とーっても優しいからね」


 真奈美も健太も、身じろぎせずに二人を見守っていた。


「パパもね、おばあちゃんも、おじいちゃんもね、幼稚園の先生も、お友だちも、みんな、みーんな優しいよ」


 悠二の紅葉のように小さな手が、秀一の指をきゅっとつかんだ。


「ユウ君、お兄ちゃんいないけど、みんな優しいから、心配ないからね」




 悠二の隣で眠っている母親が身じろぎしたのに驚き、里麻は、


「そろそろ帰ろうか?」


 と言った。言いながら、ここは紛れもなく秀一の家なのに、一体ここを出てどこに帰るというのだろうと思う。だけど、文句一つ言うことなく、秀一は名残惜しそうに悠二にほおずりした後、素直に悠二を預けた。

 里麻は小さく布団をめくると、そっと悠二を母親の隣に戻した。里麻の心配をよそに、母親はそれ以上起きるそぶりは見せなかった。

 悠二はふわあと大きな欠伸をすると、ふにゃっと笑顔を見せ、そのまま目をつむり、すやすや寝息を立てはじ始めた。


「ねえ、里麻先生」


 秀一が里麻の手を引いた。


「なあに?」

「ユウ君のお名前、どこに書いてあるの?」


 里麻はさっき意図的に見せなかったのを思い出してドキンとしたが、何もなかったかのように、笑顔で「あそこよ」と色紙を指さした。


「お名前? ユウジって書いてあるの?」


 秀一がまだ読めない命名の色紙前に移動した。


「うん。悠二ってお名前を付けましたってことが書いてあるんだよ」


 すっと手を伸ばし、秀一は色紙に触れた。


「ここに、絵を描いてもいい?」

「絵?」

「うん」


 真顔で里麻を見上げた秀一の真剣なまなざし。里麻はダメと言えずに小さくうなずくと、色紙を壁から外してやった。




 その日、夜になり帰宅した秀一の父親が、仏壇に参ろうとして壁に貼られた色紙を見つけ、驚愕の声を上げた。


「おい! ちょっと! こ、これって!!」

「なあに? 大きな声を上げないでよ。ユウ君が目を覚ましちゃうじゃない」


 母親はぶつぶつ文句を言いつつも、父親のもとに向かった。

 命名の色紙が母親の目にも入った。


「……ウソ!」


 その目にみるみる涙が浮かび上がる。


「……なんで?」


《命名、悠二》という文字の下には、カラフルな色えんぴつで描かれた、電車のオモチャで遊ぶ男の子が二人。一人が大きくて、一人がとっても小さい。文字の左右には笑顔の女性と眼鏡をかけた男性も描かれている。

 電車は秀一が一番好きなオモチャだった。そして、秀一の父親は眼鏡をかけている。


「これ、シュウとユウと、俺たち……だよな?」

「シュウ君!」


 母親は大きい方の男の子の絵に、そっとそっと手を触れた。

 父親は母親に、今日、子どもの来客があったかを聞いた。もちろん誰も来ていない。二人ともが涙の浮かんだ目を大きく見開いて、その色紙を凝視していた。

 にわかには信じがたい。でも二人にとって、それは何より見慣れた秀一の絵に間違いなかった。どちらかが嘘をついているとも、二人は思わなかった。


 四歳児の絵なんて真似ようとして真似できるものではない。同じ年頃の子どもより、少しだけ上手な秀一の絵。だけど、電車が子どもと同じくらい大きいし、親でなければ、何を描いているのか分からなかったかも知れない。あくまで幼い子の描いた絵だった。

 たとえ誰が何と言おうと、二人はこの絵は秀一からのプレゼントに違いないと確信したのだった。

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