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ヨナの日

作者: 谷川佐紀

この小説は、ヤフーブログ「ヨン様のkumu」に掲載していたものです。

♪イチローさんの牧場で イーアイ イーアイ オー

 ほら鳴いているのはアヒル イーアイ イーアイ オー


 とても懐かしい曲が流れている。

 ここは遊園地。そして、あの聞き覚えのあるメロディが聞こえてくるのはメリーゴーランドの方からだ。

 今どきこんな曲でねぇ。

 ん?違う。め、目覚まし時計だ!

 私は、慌てて起きだし時計を見る。7時20分、急がなきゃ。

 私は、ベッドから飛び起きて、窓を開ける。窓にかかっているカーテンを開けるとき、いつもカーテンが机の上の電気スタンドに引っかかり、静かに開けなければスタンドが倒れてしまう。

 今日はそんなことは言っていられない。

 急いで開けたものだから、スタンドが倒れた拍子に、ステレオのスピーカーに当たり、その上に飾ってあった陶器製のオオカミがカタンカタン・・・とフローリングの床に落ちてしまった。

 アラスカ土産のオオカミは、無残にも壊れてしまった。

 片づけている時間はない。また一匹、アラスカオオカミが滅んでゆくのを惜しみながら、急いで階段を下り、洗面所へ行く。今日は、ご飯を食べている時間もない。歯を磨いて、顔を洗って冷蔵庫へ。

 どうして冷蔵庫なのかって?私はお肌が弱いので、保存料の入っていないスキンケアクリームを使っている。だから、腐ってしまわないように要冷蔵なのだ。

 そして、ふと窓の外を見ると、私の部屋からは見えなかった外の世界が。

 いつもになくまぶしい光。外は一面雪だった。

 ああ、だめだ、これではとても自転車に乗って行けない。

 とすると、8時5分に家を出て、25分の電車に乗って・・・会社に着くのはギリギリか。

私は急いで着替えを済ませ、化粧も手早く済ませてしまい、ハンカチを忘れずに鞄の中に入れて、オオカミさんごめんなさい、帰ってから片づけるからね、と十字をきって、家を出た。

 いつも私は勝手口から出るので、雪は入り込まないガレージで転ぶ心配はない。表の通りは、もう車が数台通ったらしく、そのタイヤの跡を歩いて行けばいい。

 家から、駅までは、自転車に乗ればすぐなのだが、歩くとけっこう時間がかかる。

 雪の降り積もった世界というのは、とても静かで、厳粛な気持ちになる。

 時折、近くの小学生たちが、きゃっきゃと雪をかき上げながら、舞うように走っていく。いいなあ、なんて思いながら、私も小走りになる。

 電車は、ダイヤが乱れているようで、ホームには人が溢れていた。25分発の普通電車が入り、その後すぐに急行が入ってきた。ラッキー、と思ったのもつかの間、社内には、雪のため徐行運転、のアナウンスが入る。

 ああ、だめだ、遅刻だ。

 そして、しばらくして、t駅―j駅間が事故のため不通になった、というアナウンス。ええ、こんなことって・・・とは思ったが、考えてみると、駅で事故証明を出してもらえばいいのだ。

 やったね、今日の遅刻はちゃらになる。

 電車が止まっている間、ふと思いだす、徹也のこと。彼と出会ったのは、大学を卒業し、今の会社に勤めだしてからのことだった。

 毎日帰りの電車が一緒になるのだ。

入社したての私は、カーキ色のトレンチコートに、おろしたてのチノパンツをはいて出勤していた。私は、この格好でいると、男に見える時があるらしい。

ある日、疲れ果てて退社した私は、電車の中でウトウトしてしまい、思わず隣に座っていた徹也に寄りかかってしまったのだ。

すると、その友人らしき若者に「やばい、ホモだぜこいつ」と言っているのに気が付き、慌てて体をもち直した。運良く、次が降りる駅だったので、私は急いで降りたのだった。

それからも何度か、彼等と同じ電車になった。なんだか恥ずかしかった。だけど、暖かくなりコートを脱ぐ頃になると、私は女なのよ、と彼等を見返してやった気分になり、少し嬉しかった。

ある日、同僚の由起子たちと、会社の帰りに、ケーキの美味しい店があるというので、駅に近い『TIKA』という喫茶店に入った。

そして、店の扉を開けると、徹也とその仲間たちが、入口近くのカウンターに座っていたのだ。一瞬、目が合った。お互い「あっ」という感じだった。

そして、次の日、また同じ電車になり、「いつもあの店に行くんですか?」と徹也の方から声を掛けてきたのだった。

それから、どちらからともなく話をするようになったのだ。

徹也は、あの喫茶店の近くのフィットネスジムのインストラクターをやっている。

そう、あれから一年が過ぎたのだわ。

だけど、昨年の暮れあたりから私の会社も思わしくなく、手当の付かない残業ばかりしていて、徹也とは会っていない。アパートの方へ電話をしても、留守電になっている。そうだ、今日はお昼を一緒に食べよう。

気が付くと、電車が止まってから1時間。同じ電車に閉じ込められた人たちが、一人、二人と電話を掛け始めている。

やっと動き始めた車内の灯かりが点いたり消えたりしている。雪のための接触不良のようだった。

ああ、今日はヨナの日だわ。ヨナの日というのは、キリスト教でいう仏滅。何をやっても裏目に出る日のことだ。

「大変ご迷惑をおかけしております。只今、前車両が雪のため、停電となり動かなくなりました。そう急に修理復旧いたしますよう全力を尽くしております。今しばらくお待ちください」

と、電車はまた止まってしまった。

 事実は、小説より奇なり、本当にこんな事ってあるんだ、と思いながら、電話を掛けている周りの人たちを見て、携帯を持って出るのを忘れていることに気が付く。

 そしてそれから、どれくらい時間が経っただろうか。車内にアナウンスが流れる。

「ご乗車の皆様には、大変ご迷惑をおかけいたしております。只今、点検の結果、前車両、修理不可能であることが確認されました。前車両、この列車と連結いたしまして、T駅車庫まで運送いたします。今しばらくお待ちください」

 私は、度重なる出来事にわくわくしながら、車内を見渡した。すし詰め状態で動けない人々の頭々。窓は、寒さで曇っていて、外は見えない。

そして、電車はやっと動き出した。車内のアナウンスで、T駅に停まった前車両が乗客を降ろした後、私の乗っている車両ごと、車庫へ運ばれるのが分かった。

 その後私は、A駅で乗り換えM駅で降り、人で溢れかえっている改札口で、事故証明をもらい、急いで会社へ向かった。

 その事故証明には、駅長欄に印が押してあるだけで、あとは何も書かれていなかった。


 会社は、駅から歩いて10分の所にあるビルの一室を使っていた。駅を出る前に電話を入れておいたので、部屋に入ると、

「おお、ご苦労さん。大変だったらしいな。わしも車が混んでいてさっき着いたところなんだよ」

と、バルタン星人の異名をとる我が経理部部長が、目をぐりぐりと剥きだして出迎えてくれた。今にも、両腕の大きいハサミをふりかざして、襲いかかって来られそうだった。

 雪の日の混乱のため、午前中はあっという間に過ぎた。少し早めに、徹也のジムに電話を入れ、お昼の約束をした。

 昼休みのベルが鳴り、私は外へ飛び出した。道路脇の雪はまだ溶けていない。

 いつもの洋食屋へ着くと、徹也はまだ来ていなかった。入口からそう遠くない席が空いていたので、私はそこへ座った。そして、傍の本棚から、女性週刊誌を選んで、私は、日替わりランチを頼んで待つことにした。

 しばらくして、徹也が入ってきた。

「ごめん、午前中のメンバーで、財布をなくした奴がいてさ」

「まあ、財布を?」

「そう。ロッカーに鍵かかってんのによぉ、アイツが怪しいとか何とか言いやがって。結局、よくよく探してみたら、鞄の中敷きの下から出てきたらしくてさ・・・。ばかにしてるよなぁ」

「そうね。でも良かったじゃない、あったんでしょ?」

「まあな」

そして、徹也は、焼肉ランチのライス大を頼んで、煙草に火をつけた。何だか落ち着かない様子だった。

「今日、電車、大変だったね」

「ああ」

「どうしたの?何だか変よ」

と聞くと、

「あ、いや、何でもないよ」

と徹也は言う。それっきり何も言わないので、私はそれには構わず読みかけの女優Hの記事に目を移した。

 そして、日替わりランチが来た。

「先、食べてるね」

「ああ」

 私は食べるのが遅いので、いつも徹也を待たせていたのだった。

「なんか、この頃、家に居ないみたいね」

「あ、ああ」

「私もここんところ、残業重なっちゃってて遅かったんだけど」

「携帯の番号も変えたんだ?」

「ああ、前の、失くしちゃってさ。新しく買い換えたんだ・・・」

「・・・ふうん」

 どうして教えてくれないの?という言葉が言えない。徹也は運ばれてきた焼肉ランチを食べながら、

「あのさぁ、俺・・・」

「ん、何?」

「・・・もう、会うの止めにしないか?」

「え・・・?」

何でなの。いきなり、そんなこと。

「サトに悪いし・・・」

 私に悪いって??

 この頃会っていなかったとはいえ、予期せぬ言葉に私は呆然としてしまった。頭の中を、何か思いもので叩かれた様な気がした。口の中にあった、完全に飲み込みきれていないものが、気管に入り、むせてしまった。危うく、味噌汁をこぼしそうになった。

 徹也の勤めているフィットネスジムに、大学生の女の子達が、新しく入ってきたらしかった。徹也は例の仲間たちと一緒に近づいていった。初めは、軽い気持ちで飲みに行ったのだが、彼女たちは、まだ大学に入ったばかりで嬉しくて、いろいろ徹也達を振り回したのだという。そして、お酒もだい分は行っていたようで、最終的に行きつくところまで行ってしまったのだ。その後も、ジムで二人は会っているということだった。

 やっぱり、徹也との時間があまり取れなかったせいだ。

 どうしてなんだろう。私の会社の社長が個人的に手を出した株が失敗したために潰されかかっていたのを、夜遅くまで、いわゆるサービス残業をしていて・・・。必死になって働いていた結果が、徹也との別れだなんて・・・。

 どうしてなんだろう。この世の中は、少数の支配者達のために、ほんのささやかな幸せが欲しい者だけの者達が押しつぶされていく。そして、相変わらず忙しい時間を過ごし、その哀しみさえ感じることが出来ないまま、瞬間は過ぎてゆく。悔しい。

 でも、いつまでも泣いてなんていられない。徹也はきっと私のもとへ戻って来てくれる、今は、そう信じて早く仕事に戻るしかなかった。


 会社へ戻り、課長にコーヒーを入れる。いつもは私も、ランチの後にコーヒーを飲んでくるのだが、今日は、そんな気にはなれなかった。徹也が先に帰ってしまった後、私も早く店を出てしまいたかった。

 課長は、電話で何やらしきりに謝っている。何だか雲行きがあやしくなってくる。

「秋山!」

ああ、いつもの雷が、今日は私に落ちた。

「先週送ったAQURコーポレーションの請求書、あれは税込みだと言っておいただろ!」

「あ、はい、でもあれは・・・」

「先方、税別になっているってカンカンだぞ」

違う。あれは課長が税別だって言ったのだ。いつもうるさいワンマンなバルタン星人。大きなハサミを振り回し、周囲のものを壊してゆく。

「今から、本社の方へ行くって言ってたから、書き直して持って行ってくれ」

「はい・・・」

私は急いで請求書を書き直し、外出の用意をして会社を出た。

昼食時を過ぎた表通りは、もう、人の気配もまばらになっている。さっきの洋食屋の前を通り過ぎる時、私の胸は張り裂けそうになる。意識は飛び、駅までの間、何度も電柱や自転車にぶつかりそうになる。

ようやく駅に着、きサイフを開ける。昼間割引回数券を持ってくるのを忘れている。しかたがないので、私は、O駅までの切符を買う。

午後になると、日は暖かく照りつけ、それがまだ所々に残っている雪に反射し、電車の中はとても明るく、のどかだ。朝の騒ぎが嘘のようだった。

昼間は空いていて座ることが出来るので、私はいつも本を読むことにしている。

だけど今日は集中できない。いつの間にかさっきの徹也からの話を思い出してしまう。

電車を降りると、そのまま裏手へまわる。そこに本社の送迎バスが来る。

決められた時間に車がやって来た。そして、バスから出てくる顔見知りの人たちと挨拶を交わし、待っていた数人の本社の人たちの後から乗り込む。

私は、車の扉を思いっきり閉める。

そうしないと、いつもバスの運転手は怒るのだった。この時の癖で、徹也とドライブに行った時にも、強く閉めるので、「そんなにきつく閉めなくてもいいよ」と厭な顔をされたことがある。

本社に着いた私は、一番奥の建物の7階の経理部へ行く。そして、訂正した請求書を持って行く。

すると、AQURコーポレーションの営業部員はまだ来ていなかったので、私は会社に電話を入れ、経理部を出てすぐのロビーで待つことにした。

待っている間、経理部の山中さんが社内報を持って来てくれる。この機関誌で、本社、各支社の様子が分かるようになっている。今月の特集は「女の定年を考える」というものだった。

一時間程待っただろうか。さっきの山中さんが出てきて、AQURコーポレーションの営業マンが来社し、6階営業部にいることを教えてくれた。

そして私は、話が終わるのを待ってから訂正した請求書を渡し、何度も何度も謝った。

部屋を出た私は、経理部に戻り、私の会社行きの書類ケースを見て、急いでエレベーターを降りる。

帰りのバスに間に合えばいいのだが・・・。

 バスには、ぎりぎりのところで間に合った。良かった。出がけに会社に電話を入れた時、今日はもう帰っていいということだったのだが、荷物が会社に置いてあったので、会社には戻らなければならない。

 でも、帰りの便には間に合ったし、終わり良ければ総て良し、って事でいいか、と妙に納得する。

 そして、O駅に着いた。

 車に乗っていたすべての人が降りてしまい、私は最後に降りる。積もっていた雪が溶けてぐしょぐしょになっている。足元に気をつけながら降りる。「さよなら」と挨拶をして思いっきりドアを閉める。

 その時だった。

 パキッ、という鋭い音と共に、ガクッンという何かが挟まり、跳ね返るドアの音がした。もしかして・・・。

 それは、私のコートのベルとのバックルが挟まり割れる音だった。



バスを降りて、とりあえず近くのコンビニエンスストアへ入る。そして、瞬間接着剤を買い、駅へ向かう。駅の改札口を通り、待合室に入って、壊れたベルトのバックルを取り出す。うん、大丈夫。これなら何んとか直りそうだわ。

 待合室の暖房で手を暖めて指の自由がきくようになってから、さっき買ったばかりの瞬間接着剤を取り出し、バックルのかけらを繋ぎ合わせる。小さな三角形の隙間がところどころに出来たが外形に支障はない。良かった。

 もうそろそろ混み始める駅のホームは、学生たちの、今日一日を振り返るかん高い話し声で溢れていた。


会社へ戻ると、本社から、川上さんが来ていた。先輩は、以前にこの支社にいた人で、年齢は私よりも5つぐらい上だ。よく動く人で仕事のペースがきびきびしていて、社内でも、得意先でも評判の良い人だ。ずけずけとものを言うが、腰が低くておどけた話しぶりで自分のペースに引き込んでしまう。ただ、見た感じ顔は青白く、危ない人という印象を受けた。女性社員にもてたりするタイプではなく、人の良いお兄さんという感じだろうか。私の同僚、由起子が言うには「あれで顔が良ければ、彼氏にしちゃうのに」「いい人なんだけどねぇ」と女性先輩社員も言う。

女性社員たちの井戸端会議は厳しいのだ。

「よう元気か」

と川上さんに声をかけられた。私は、今日一日の出来事を思い出しながら

「はあ、はい」と、曖昧な口調で答えた。そんな私の思いを見透かされたのか、川上さんは

「相変わらず、へまばかりやってんだろ」

と言う。まるでいつもへまばかりしてるみたいじゃないですか、と口を尖らせながら、私は帰り支度をした。

「今日はもう終わるのか。じゃ、一緒に飲みにいかないか」

と、ぼうっと生気のない私の顔を見て、川上さんは飲みに誘ってくれた。今日は雪で車では出勤せず電車でだから思いっきり飲めるぞ、と川上さんは大はしゃぎだった。

 朝から電車は、雪のため動けなくなり、久しぶりに会った徹也からは別れ話をもちだされる。仕事のミスに、コートのバックルが壊れる。こんな日には、お酒を飲んで忘れるのが一番、と私も飲みにいくことにした。

 気分が落ち着けば徹也のことも、きっと、いいように考えられるだろうと、私は思った。


 お酒を飲みながら川上さんは、本社は大変だ、いろんな部署があり社員も大勢いるから顔を知らない人がたくさんいて寂しいなぁ、とぼやいては食べ、食べては飲んでぼやいていた。

 そして、本社での出来事を言い尽くしお腹がいっぱいになった頃、川上さんは私の気力のなさに気がついたようで、

「どうしたんだ。元気ないじゃないか。悪いもんでも食ったのか」

といつもの調子で話しかけてきた。

「もう、そんなのじゃないですよ。そう、いろいろね、あるんですよ」

「何んなんだ。言ってみろよ。少しは気持ちが楽になるかも知れないぞ」

と川上さんは酔いまじりの、でも本当に心配してくれている様子で話しかけてくれた。

私は、久しぶりに徹也に会ったこと、そして別れ話をもちだされたこと、これから私はどうしたらいいのか考えあぐねていることを川上さんに話すでもなく、自分の中でもう一度考える為に言葉にした。私はまだ信じられない思いで、他人のことのように感じていた。

 考えれば考えるほど、解らなくなっていった。そういうものなのだろうか。一体、今までの徹也との出来事は何だったのだろうか。

「忘れろよ、そんな奴」

川上先輩は3本目の酒燗に手をかけながら言った。

「少しぐらい会えなかったからって、他の女に手を出す奴なんて最低じゃないか。そんなことをする奴ってのは、所詮そういう奴なのさ。今じゃなくっても、いつかは心変わりする奴なんだよ」

「でも私、違うような気がするんです」

「違うって、何が」

「私、徹也が本当に浮気して、別れたいって思ってるとは思えないんです」

「秋山、それは未練ってものだよ」

 違う。上手くは言えないけれど、きっと。仲間が一緒だったっていうから、徹也はついて行っただけなのだ。そして・・・。よく解らないけれど、私は違うと思った。

 私は少ししかお酒を飲まなかった。だが、徹也のことやあれこれと相当考え込んでいたのだろう。もう、帰りましょう、と席を立った途端に、ガタガタッ、と椅子ごと倒れそうになり、慌ててカウンターの端につかまった。

「おい、大丈夫か」と肩を支える川上さんに、割り勘ですよ、と言い放ち、私は、レジの方へ行った。が、頭がもうろうとしていて、歩く足に力が入らず上手く歩けないので、母猫が仔猫の首をくわえるように、川上さんに肩を抱えあげられながら、外に出たのだった。

「心配だから、降りる駅まで送っていくよ」

と川上さんは言った。


 電車を降り、改札口を出る。そして階段を一段ずつ降りていく。そのうちに、私の心の中の何かも一緒に一段、また一段と絶望的な闇の中へ堕ちていくような気がした。そして最後の数段が降りられない。もうこれ以上苦しみの中へ堕ちていきたくはない。厭だ。

 だが、川上さんは

「大丈夫か。しっかりしろよ」と私を絶望の世界へと引き込んでいく。そして、とうとう私は、階段をすべて降りてしまった。

 ああ、もうこの先に私の進む道はない。暗闇の中、そこが私の落ち着く場所であるかのようで、身体の力がふっと抜け、深い呼吸の後の吐く息と共に、私は地面に突っ伏して、泣きだしてしまった。

 戸惑う川上さんに私は、

「お願い、今日は泣かせて。泣いたら、忘れるから。お願い」

・・・きっと忘れるから。

いつの間にか川上さんは自分の財布を取り出していた。

「ほら、しっかり立って。おまえん家に電話してやるから。何番だ」

と聞くと、私はしっかり自分の家の電話番号を言ったようなのだが、あいにく母親も犬の散歩にでも行っているのか、誰も電話にはでなかった。

 仕方がないので、川上さんはタクシーを拾い、私の家まで送って来てくれたのだった。

「まったく、あんたって子は・・・」

と、このことが後々まで母から言われることになるのだった。


それから一ヶ月。相変わらず忙しい毎日が続き、徹也のことを考えることもなく過ごした。あるいは、考えないように仕事に集中した。

 あの日以来、川上さんは、毎日会社へ顔を出すようになっていた。そして、私は映画に誘われたり、熊を見に行こうと誘われたりした。特に断る理由もなく、張り詰めた日常の気分転換もしたかった。何よりも徹也のことを忘れる為に家にじっとしていたくはなかった。私は誘われるまま、川上さんについていったのだった。

 そんなある日、帰りの電車の中で時々まだ徹也のことを思い出してしまい暗い気持ちになってしまうなかで、徹也と同じフィットネスジムで働く仲間に会った。

「あ、こんにちは」

「こんにちは。お久しぶりね」と少し不快そうに私は答えたのだろう。その若者は、

「あの、徹也から何か聞きました?」「あれ嘘なんですよ。秋山さん忙しいから、徹也の奴どうしたらいいかって・・・。それで俺たちが、他の娘にとられそうになったら、振り向いてくれるんじゃないかって」

 私は呆然とした。もう、何が何だか分からなくなっていた。


川上さんはお酒を飲むたびにこんなことを言った。

「サトミちゃんはね、僕にとっては、血液のようなものなんだよ。腕や脚なら失ったって命に別状はないんだ。だけど血液っていうのは、全体の10%が流れ出てしまったら脱水症状を起こして生きてはいけないんだ。それだけ僕には必要なものなんだってことだよ。知ってた?」

 川上さんはそんなキザな言葉も、自然の摂理を説くかのように注意深く話すのだった。

 風がだんだん暖かくなり、木々には新芽がつき、夜になるとまだ緑の残る水辺では、蛍の飛び交う季節になる。川上さんは、幼い頃住んでいたという人家もまばらでシカやイノシシ注意の看板が立っているような田舎へ連れて行ってくれた。車を止め、蛍がよく見えるように外へ出た。もう廃校になってしまった小学校、女人立ち入り禁止の神社、そして半分干上がってしまっている川縁を二人で歩いた。地域活性化のために青年会が建てたというプレハブ造りのカラオケ会館からもれる灯かりが不釣り合いで哀しい。

 蛍の光が群れを成しているところまで来ると、川上さんは

「昔はもっといたんだけどなぁ」

と言い、よく見えるようにと私の肩を抱きよせた。私の胸は高鳴った。小さな心臓から送りだされる血液がとてつもなく多く感じられた。いいのだろうか、このまま抱かれていても・・・。こんなことを考えているうちに、川上さんは私を身体ごと抱きしめ、

「もう、離したくないんだ。僕のところへおいでよ。そしたら時間だって気にしなくてもいい。もう帰らなくてもいいんだ」

 こんなことを幾度となくささやかれ、やっぱり人は愛することよりも愛されるほうが幸せなのかもしれない、と私は思うようになっていった。そう、不確かな未来より目の前の幸せをつかむほうが良いのかもしれない・・・。私を笑わせ、気分を楽にしてくれる川上さん・・・。

 そんな折の、徹也の友人からの言葉だった。

「嘘なんですよ、あれ。秋山さんに振り向いて欲しくて」


「サト、元気にしてるかい」

それから何日か経った頃だった。徹也から電話がかかってきた。。

「・・・・・・」

「ごめん。怒ってる?」

「・・・どうして?どうしてなの」

「サトの帰りがずっと遅かったからさ。電車の中で見かけなくなって。心配だったんだよ、俺」

「そんな・・・私は、どんなに忙しくても、ずっとあなたのことが気になってたのよ。どうしてるんだろうって。どうして私を信じてくれなかったの?」

「あいつらが、サトが仕事で忙しいなんて嘘じゃないのか、一度試してみろよって言うから」

「ばかじゃないの、そんなの。他人の言うことなんて何てきくのよ。あなたはどっちを信じるのよ」

私はいつの間にか涙声になってしまっていた。

「それから・・・もう電話してこないで」

「どうして?」

「いろいろ思いだしてしまうから・・・徹也と居て楽しかった頃のことを。また好きになっちゃう・・・でも、もうダメなの。もう遅いのよ」

 そう、もう遅いのだ。私は、本当に哀しかった。どれだけ言ってみたところで、その哀しみが鎮められるものではなかった。だけど、そんな私に、川上さんの優しさは真っ直ぐに届きすぎた。もう、あの人を裏切れない。私は、川上さんに対する思いを今はっきりと感じていた。


いつだったか、何かの本で読んだことがある。”恋”という字は心が下にあるので下心。”愛”という字は心が真ん中にあるので真心だと。そして”恋愛”とは、人間の下心と真心が共存することだ、という。辞書でひくと、下心というのは、本心という意味がある。だから、”好きだ”という心も下心なのではないだろうか。

 恋愛はゲームなんかじゃない。お互いを慈しみ、二人で成長していくものだ。もし、”恋のかけひき”というものがあるとしたら、それはもう、相手の心を思いやる心などない、自分に酔っているだけのものなのだ。

 もう、苦しいだけの恋などしたくない。幸せになりたかった。川上さんは私を必要としてくれている。私をつなぎとめておいてくれる。私は、川上さんに人の存在を感じることができる。私と一緒にいることが当たり前のように言っているのがおかしいのだが、何だか安心できる。そこには、私の落ち着く場所がある。

 そうよ、これでいいのよ。と、私は部屋の窓を開け、少し涼しくなった夜の風を身体いっぱいに吸い込んだ。

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