しゃべるホームレス。
大学を卒業して地元を離れて、俺は千葉の会社でレジスターの販売を行っていた。
忙しくて地元に帰るタイミングもない。去年の両親の離婚でさらに行く頻度が減った。
彼女はいない。家に帰って友達とオンラインゲームをやって、たまに飲みに行く。そんな生活。
業務はキツイ。レジスターなんて使うのは企業だから、不具合や誤作動をおこそうものならすぐに電話が来る。今日はひっきりなしに電話が鳴り、しまいには先輩が手助けをしてくれるまでほとんど両手もちで対応していたくらいだ。
ようやく帰路についた俺はコンビニで生ビールを手に取ったあと、棚に戻して発泡酒を二本買い、ビーフジャーキーを手に取ってからやっぱり棚にもどして百円均一のスナック菓子を買った。
無駄遣いは避けねば。最近腹も出てきたし。
がさがさとビニール袋が自己主張する音しか聞こえない、肌寒い路地を一人で歩く。
不意に携帯が鳴った。かじかむ手でポケットからそれを取り出す。
着信元は『母』
なんでなんだろう。俺は電話に出なかった。
内容はわかる。たまには顔を見せに来て。そんなことだろう。
なぜこんなにも気分が乗らないのだろうか。こうもあの地元の家に戻るのが億劫なのか。自分でもよくわからなかった。ただ、なんだかいや としか言えない。
「でないのか」
突然話しかけられてぎょっとした。
携帯を握りしめたまま一人ため息をついた俺の目の前に男が立っていた。
パッと見、ホームレスの―いや、空き缶を背負ってる。コイツ完全にホームレスだ―男は俺の行く手を阻むように突っ立っていた。
ぎょろりとした白い目、まんまるの顔、汚らしい髭、もじゃもじゃの髪。
かかわるだけ損。そんな人種だ。
俺は適当に笑ってホームレスの脇を通ろうとした、が、ホームレスの腕はビニール袋をつかんできた。
「なんだよ!警察呼ぶぞ こらッ」
俺は懸命に低い声を出す。が、いつもの声色とあまり変わらなかった。
「なあ 待て待て。お前なんか悩んでることあるのか。」
ホームレスは、しゃくなことに非常にいい声をしていた。
声優でいうなら「速水奨」とか「関智一」みたいな落ち着いた声で、妙に慣れ慣れしい。
「知った風な口きくんじゃねーよ。触んなッ」
「まあ 落ち着けよ。お前は俺がホームレスだと思ってるんだろうがそれは違う。俺はきちんと働いている。むしろ金持ちだ。六本木に家があるんだよ」
「はあ。」
イカレタちゃんか?油断すると包丁で刺されるんじゃないか、なんて俺はちょっと身構えた。
「その恰好でホームレスじゃないなら、何してるんだよ」
「霊媒師だよ」
「は」
色々な言葉がのど元までせりあがってくるが、なんとか嚥下する。
「そうなんですか」
「やはり簡単には信じてもらえんな。だがお前、だれか身内に会いたい人がいるんじゃあないか?死に別れて未練のある人間がいるんじゃないか?」
「………やっぱりあんたうそつきだよ。親父も母も生きてる。じいちゃんは去年家族で看取った。ばあちゃんは生きてるし」
「そうか?本当にそうなのか?お前には確かに霊との縁が残っている。これを放置しておくとお前も引きづられてよくないことになるぞ」
「ホラ、ビール一本やるから。とっとと失せろ。社畜の朝ははやいんだ。帰った帰った」
「………見える。これは…確かに親族の霊だ。それも一等親。かなり近い。」
「うるせえな!本当に警察呼ぶからな!お前………あっ」
「どうした?思い出したのか?会いたい人を 失った人を」
「……やっぱあんたいんちきだな。ちきしょう、そうだよ、思い出したよ」
「ならば話は早い。私が会わせてやろう」
「……その…」
「なんだ?はやく」
「霊媒ってのは…動物も呼び出せるのかい?」
オルカが死んだのは、大学二年の夏ぐらいだった。
オルカは犬。犬種もわからない。雨の日にどぶの溝にはまっていたのを母が救ってから、うちで飼われていた犬だ。
オルカなんて精悍な名前を付けられているが、目の周りが黒くくすんだ毛でおおわれていて、なんだか間抜けなピエロみたいな犬だった。それでも俺はオルカが大好きだった。
間抜けな優しいオルカ。自分の餌が鳩に食べられているのを黙ってみていた、変な犬。
可愛い犬だった。散歩に行くのが楽しかったし、少しさみしそうにすり寄ってくるその姿が愛らしくてたまらなかった。
だが大学で一人暮らしを始めてからほとんど会うことがなくなっていた。
休みもバイトを入れまくって実家に帰るのは一日か酷いと日帰り。忙しいと、言い訳にして言い争う親の姿を観たくなかったのだ。
大学一年の冬。オルカが脱走をした。という電話を受けて、俺は授業中にも関わらず駅まで走って実家に戻っていた。三日後、オルカは車に轢かれているところを発見された。
家のすぐそばだった。
幸い、命に別状はなかったのだが、この怪我が原因でオルカはほとんど歩けなくなった。
ケイジに毛布をしいて一日中横たわっていたオルカは日に日に痩せ衰えていった。床ずれから出血し、皮が剥がれ落ちて骨が見えてしまうほどになっていた。
一週間ほどつきっきりで看病していたが、やがて授業の出席もそろそろ危うくなってきたので俺は下宿へと一旦戻ることにした。
駅へ向かう俺をオルカが静かに見送った。ガラス玉のような目だった。
両親はオルカを必死に看病したが、散歩もおぼつかない犬など弱っていくばかりだった。
やがて大学二年の夏。俺がサークルの仲間とバンドの練習に向かう最中。オルカが死んだ、という電話を母からもらった。
バンド練習には行った。
あの日のことはほとんど記憶がなかった。
ただ電話を受けた瞬間のことは鮮明に覚えていた。あの時、後ろを歩いていた後輩の服装、道路の水たまり、寄れて穴の開いて碧いテレキャスターの見えていたギターケース、あの時の母の声。
実家には帰らなかった。親には「葬式よろしく頼む」とだけメールした。
あの時から、俺は母の電話が恐ろしくなったのかもしれない。
「犬。問題ない」
そういうと男は俺の手を握ったままうつむいた。
うんうんと唸る男の手は次第に熱を増していく、握られた俺の手も燃えるように熱かった。
ところが気が付いた瞬間、氷のように冷たくなると今度はほんのすこしだけ温かくなった。
俺はハッとした。オルカの足の裏はこんな感触だった。
「…オルカ…?」
ホームレスの口から出た、という一点をのぞけば犬にしか聞こえないような声だ。
「くううん」
それは信じがたくも疑いようのない、あのガラスの目だった。
俺を見透かしたような哀れむような目つき。
「オルカ…ごめん。俺、ひとりでいっちゃってさ…。さびしかっただろう。」
「きゅうん」
鼻を鳴らす声。ホームレスの男の一挙手一投足がオルカの思い出をよみがえらせてくる。
「ああ、オルカ。ごめん。本当にごめん。俺だって行かなきゃならなかったんだ」
「おい」
唐突に男の声に戻る。
「うわッ なんだよお前意識あるのかよ!!いろいろ台無しだなッ」
「馬鹿者、霊に体ごと明け渡すなんて危険なマネできるか。だがオルカという犬の霊はわしの心の前にきちんときている」
「そうなのか…」
「なでてやれ。前みたいにそれで彼も安らかになれる」
俺は少しだけ躊躇した。降霊術がほんものだと知ったところで、やはり此奴はホームレスであって、薄汚れたTシャツとかぼさぼさの髪とか髭とか… でも あああああああもう!!!
俺は目を瞑ってホームレスの襟足のあたりをそっとなぞった。指先で毛の根元をほぐしてやるような手つきでゆっくりと丁寧に撫でた。
はたから見たらどれほどおぞましい光景だったのだろうか。
ばかばかしい様子だったのだろうか。
だけど指先はしっかりとあの感覚だった。あのオルカだった。
オルカ、ごめん。ちゃんと見ててやれなくてごめん。最後まで一緒にいてあげられなくてごめん。
やがてオルカはやさしく吠えた。あのガラスのような目に再び優しい温かみが差したように見えた。
それが別れの言葉だったのだろうか。ホームレスはぐったりとうつむいたまま動かなくなった。
「お、おい?どうした」
ホームレスはぴくりとも動かない。
唐突に握り続けられていた手が離された。汗でじっとりと濡れていたが、不思議と不快ではなかった。
「いった」
ホームレスの男がぽつりとつぶやいた。
「成仏ってことなのか」
「わからん。とにかく、もうこの世にあの犬はいない。魂もどこかに向かった」
とにかく、奇妙な体験だった。俺はホームレスに礼を言うと、缶ビールをビニール袋から取り出して手渡した。
「本当にありがとうございました」
「なんだこれは」
「今、こんなものしか渡せないけど…あんたに今度いい酒を送ります」
「違う、現金でよこせと言ってるんだ」
「は、はあ?!」
「一万円、いや動物だから三万円」
「ふ、ふざけんな!!なんだよそれ!!」
「三万円」
「っ…やっぱりクソホームレスだな……ホラっ ってあ!?」
「三万とビール確かにいただいたぞ」
上手そうにビールをすすりながら、俺の財布から三万円を抜き取ると男はさっさと路地裏へと消えていった。
俺は軽くなったビニール袋を手にしたまま、一人取り残されていた。
ポケットの中で何かが揺れる。
俺は手を突っ込んでしばらくその着信元を眺めていた。
「…あの、もしもし。俺来週戻るわ。うん。そっちで泊まる。あ?平気だよ歯磨きも持ってくから。うん。そう、よかった、じゃあね。かあさん」
遠くで犬の遠吠えが聞こえた。
犬は好きです。でももう二度と悲しい思いはしたくないので飼う気はないです。