急転直下
義真は董太后の部屋に帰る途中、一緒にいる同僚から先程の劉協皇子との件を冷やかされていた。
その都度、職務中であると窘めると静かになるが、少し経つとまた誰かが冷やかす。
その繰り返しでうんざりするも、劉協皇子との事を思い出すと自然と顔が緩みにやけるのがわかって、すぐ顔を引き締める。
何故なら、義真は普段の職務では全く隙を見せないようあろうとしているからだ。
そんな義真を見て同僚達は真面目過ぎだとか、お堅いやら顔が怖い、愛嬌がないなどと揶揄するも、それが後宮を預かる禁軍に所属している自分の誇りでもあると思っていた。
だが、結果的に子供達からは非常に怖がられていた。
かつて董太后付きになる前に、皇帝のいる本宮殿と街と入り口の門番をしていた。
ある時、迷子とおぼしき子供が目についたのである。
心配して声をかけつつ近寄ろうとした義真と目があった子供は突如として盛大に泣き出したのである。
街行く人々は何事だと思い立ち止まり人だかりができはじめたのだ。突然のことに動揺しておろおろしている義真をよそにその人だかりから子供の親だと思われる女性が飛び出して、何故か義真に対して土下座して許しを乞うたのであった。
その後も何度も同じような事が続いて、いかに自分が子供から怖がられているかを思い知らされてた義真は悲しくて落ち込んでいたのだ。それは董太后付きになった今も引きずっていた。
そして昼前に皇子を抱いた時も同じだった…いや、赤ん坊にもだったから尚更であった。
だからこそ、先程の劉協皇子が指を握ってくれたのがとても嬉しかったのである。
そしてあまりにも嬉し過ぎたため惚けてしまったのである。
そんな事を考えてもいると、また同僚の冷やかしが始まったのである。
「でも、すごく意外だったわよね」
「そうそう、まさかお堅い義真があんな顔をするなんて」
「だよね〜、実は義真は年下好きだったりして〜♪」
「でも、劉協皇子は可愛いかったね、あれは義真でなくてもああなるわよ」
「貴様らいいかげんに…」
自分の内心を見透かされたような気持ちになった義真がたまりかねて注意するも同僚は聞かず、さらに話しが弾みだしたのである。
「でも、劉協皇子って赤ん坊なのに全然泣きわめかないね」
「うん、すごく意外よね〜。しかも、私達の言葉を聞いた後に絶妙な間隔で挨拶とか返事とかしてるっぽいし」
「あの、董太后様にだって最初は驚いていたじゃない」
「うんうん、そうよね〜」
(たしかに劉協皇子は赤子にしては大人し過ぎると私も思うな。そして聡明な気もする)
同僚の会話を聞いて義真も内心で賛同する。
「もしかして、劉協皇子は神童だったりして〜」
「それはありえるかもね」
「そしたら将来は間違いなく皇帝に…」
それを聞いた義真の体が強張り咄嗟に周りに人の気配がないかと探った。周りに気配がないのを確認してひとまず安堵したのもつかの間、腰の左右に吊り下げているトンファーを素早く抜き放ち、一瞬でトンファーを同僚の首に押し当てた。
同僚達は誰も反応が出来なかったのである。
「貴様らいいかげんにしろ、任務中だぞ!しかも、ここが何処が忘れたのか!!」
同僚に対して激しい叱責がとぶ。
さすがに後宮内で、皇帝存命中に次期皇帝の話題を口にしたらどれだけ危険かを思い出した同僚達の顔が真っ青になっていく。
もし、誰かに聞かれたら…、そして何皇后の耳にでもそれが入れば間違いなく不忠の罪を着せられて死刑になる。そして、その罪は主の董太后にまで及ぶかもしれない。
勿論、義真は周りに人の気配がないのを確認した上での行動だったが、次も今回と同じ状況になるとは限らない。
同僚の顔がますます青ざめていくのを見た義真はトンファーを首から外した。
「次はないぞ!気をつけろ!」
と、鋭く言い放った。
それを聞いた同僚達の謝罪を義真は聞いて一息入れ、ようやく体から力を抜いた。
そして、義真は廊下に落ちているある物に気づいた…
「しまったーーー!」
その瞬間、絶叫した義真の声が廊下に響きわたった。
冷静な義真が絶叫した理由…
それは、なんと目の前の床に劉協皇子のおしゃぶりが転がっていたからだ。
そう、昼前に皇子を抱いて董太后の部屋へ向かう時、皇子が口から外して手に持っていたおしゃぶりを、なくさないようにと預かって返し忘れてたのである。
どうやら、いまトンファーを構えたときにポケットから落ちてしまったようだ。
嫌な視線を背中に感じて振り向くと、そこには青い顔をしていた同僚達の顔が一転してにやけていた。
「こ、これはだな…」
「にやにや♪」
「い、いや…」
「にやにや♪」
「だから…」
「にやにや♪」
そこには先程の厳しい表情をした顔はなく、顔を真っ赤にして動揺する義真がいた。
そんな、義真を見て仕返しとばかりに一頻り楽しんだ後、同僚達は早く返しに行くように義真をせっついた。
もちろんにやけて。
「愛しの皇子様によろしくね〜♪」
「くっ……」
踵を元きた廊下に返し、赤い顔をさらに真っ赤にしながら一刻も早く同僚達から遠ざかるため、早足で歩き始めたのだ。
(私としたことが…くっ!!)
(でも、皇子にまた会えて嬉しいかも♪)
と、内心で公私混同をしている義真であった。
翡翠の母乳を飲んだ要は、いつも定位置の寝所のベットで先程の義真こと皇甫嵩の事を思い出して考えていた。
(本当に皇甫嵩?いや、たんに単語の発音(孫堅、孫権)だけ同じで字自体は違うかもしれないな…、だって皇甫嵩が女の訳あるはずがない。でも、それだったら自分自身が献帝こと劉協として扱われてる時点で異常事態だよな。あと、まだ愛称(真名)?もあれから少し経つけど全然何か分からないし。う~ん、元いた世界と根本的な何かが違うかもしれないな…って、そうだ、北斗の爺さんが別の流れてって言ってたじゃんか!とりあえず今はそれにしておこう、っと)
考えれば考えるほど思考は堂々巡りをしてパンク状態になったため、答えの出ない疑問をすべて棚上した要であった。
ちなみに彼は夏休みの宿題を全部最後にするタイプであった。
(しかし、義真さん格好良かったな、木蓮さんと甲乙付けがたいよな~)
パンクしかけた思考を邪な考えで冷やし始めた矢先、聞いたことのない翡翠の動揺した声が耳に入ってきた。
「どうゆことなのですか?もう一度、言ってもらえますか?」
「はい、今朝ほど王美人様がお出掛けになられた後、すぐに斉峯様も書物庫にお出掛けになられました」
「その後、木蓮は帰って来てないの?」
「はい、お出掛けになったきり、お部屋にも戻られた形跡はないみたいで…」
いつもの穏やかな翡翠と違うため、少し緊張して聞かれたことに答える侍女であった。
(ん、木蓮さんまだ帰ってきてないんだ)
どうりで、先程の食事後のトントンタイム(ゲップ)の時に侍女のおばちゃんだったわけだと呑気に要は考えいた。
(おかしすぎる、木蓮が誰にも告げずこんな時間まで帰ってこないなんてありえないわ)
要とは裏腹に翡翠はかなり焦っていた。
翡翠と木蓮は幼少期からずっと一緒に育ってきた幼馴染である。そんな自分には木蓮の性格がよく分かり、誰にも告げず長い時間いなくなることはありえないのだ。しかも、側室付きの医師の立場なら尚更である。
すぐに翡翠は近くいた侍女に、念のため書物庫に確認しに行くよう伝え、他にも木蓮が行きそうな後宮内の場所を複数の侍女達に伝え確認しに行くように指示を出した。
指示を受けた侍女達は慌ただしく部屋から出て行った。そのため、部屋には翡翠、要以外では年輩の侍女長しか残らなかった。
そんな室内の緊張した雰囲気を感じだ要は赤ん坊なりに顔を強張らせた。
それを見た翡翠は咄嗟に顔を笑顔に戻して要をあやし始めた。
「驚かせちゃってごめんね、伯和♪」
そう言い何度も要をあやそうとした翡翠であった。
しかし、顔は笑顔だがいつものと違う雰囲気を纏う翡翠に対して要は一向に笑顔にならず、じっと翡翠の目を見つめていた。
まるで、無理に振る舞わなくていいよ、と言わんばかりに…
「お母さんのこと心配してくれてるのね。伯和、ありがとう」
そんな視線をちゃんと理解した翡翠は年は幼いながらもさすが母親であった。
「じゃあ、木蓮が帰ってくるまでお母さんと一緒に待とうね。そして、木蓮が帰ったきたら沢山文句言おうね♪」
「だぁ〜、だぁ〜(うん、うん)」
このやり取りで翡翠の心は少しだけ軽くなった。
「あれ?伯和、おしゃぶりはどうしたの?」
「んきゅ(えっ!?)」
一緒に待っている間、要が手持ちぶさたにならないようおしゃぶりをと思った翡翠だが見当たらなかったため要に聞いてみた。だが、当の要はおしゃぶり自体に興味がなく、いつも手に持っていたので何処に置いたか記憶になかったのである。
そんな二人を見ていた侍女長は笑いながら別のおしゃぶりを用意するといい、この部屋と後宮内とを繋ぐ廊下の脇にある備品室に向かうため部屋から出て扉を閉めていった。
「あなた達…ここ…王美人様の………」
突然、侍女長の甲高い声がしたかと思ったら、何かが倒れる音がして複数の足音が扉に近づいてきた。
翡翠に緊張が走った。
勢いよく扉が開けられると、兵が雪崩れ混んできて寝所付近にいた翡翠と要を突如として取り囲んだのである。
「突然、無礼な!あなた達、ここを何処だと思っているのです!」
普段、温厚な翡翠も雪崩れ混んできた兵達の、あまりにも礼を無視した行動に烈火の如く叱責した。
「おやおや、さすが陛下の御子を産んだ女は強いのう」
取り囲んでいた兵達の一部が空き、何皇后が嘲笑うようにして現れたのだ。
思わぬ何皇后の登場に、今朝の出来事が頭によぎり怯みかけた翡翠だったがすぐに持ち直して、
「何皇后様、これはどういうことですか!しかも、後宮内に男性兵を入れるとは!!」
語気を強めて何皇后に言い放った。
本来、側室が皇后に語気を強めるなど礼に反している行為だがそれには理由があった。
部屋の主に断りもなく入室した何皇后にも非常識だと感じたが、それ以上に後宮内に男性兵を入れたあげく、勝手に側室の自分の部屋に入室させたことが大きな原因だった。
基本的に後宮内は皇帝や成人する前のその子以外は男性禁止なのだ。
その理由から後宮内にいるのは女性か宦官のみであり、宮中の警備を預かる禁軍(近衛)もすべて女性である。
もし、男性が後宮内の人物に用事がある時は使いを出して後宮の外の本宮殿に呼び出すのが常識なのである。
そのため、例外を除き禁を破って男性が入れば即刻死罪になる。
そのぐらい男性が後宮にいることがありえないのだ。
「わらわの警護兵じゃが、それがどうかしたかのう?」
「……っ…」
語気を強めた翡翠に対して薄ら笑いを浮かべて何皇后は答えた。
そう、先程述べた例外を何皇后は持ち出したのである。
それは皇帝または皇后が直接、命令を下した時のみ例外的に後宮内に男性が入ることを認めているのだ。
ただ、それは特例中の特例で歴代皇帝の誰もなしえなかったことだった。
しかも、この権限は皇帝のみであったが、何皇后が皇后の行使権を無理矢理認めさせたのだ。
「ですが、断りもなく私の部屋に入れさせるなど…、礼に反しているでありませんか!」
ただ、翡翠も負けてはなかった。
翡翠は内心で何皇后ことが嫌いだった。
ただ、最初からではなく、ある時期から嫌いになったのである。
翡翠は後宮入りしてすぐに何皇后から嫌がらせをたびたび受けていたが、皇帝の子を懐妊から毎日ことあるごとに露骨に絡んできたのだ。それは日が経つにつれて苛烈を極めていったのである。
そのため、心が折れそうなことが何度もあったが親友の木蓮が一緒にいてくれたし、董太后も翡翠の常に味方でいてくれた。
だから、後宮入りして今日まで何皇后の嫌がらせに耐えれてきたのである。
そして、いま翡翠の後ろには産まれたばかり愛おしいわが子がいる。
たとえ、素行が悪くて有名な何皇后の親衛隊に囲まれていたとしても翡翠には引く道理がなかった。
一向に引く気配がない翡翠を見て、兵士達は下品な笑いを浮かべいた。
「か…」
「実はの、今日わらわは怪我をしてのう…」
翡翠が口を開きかけた瞬間に何皇后はほくそ笑みながら話し始めた。
「ほれ、見よこの肩を…、どうじゃ酷いじゃろう?」
何皇后が肩を少しはだけると、そこには血が滲んだあて布が目にはいった。
「痛くて、痛くてかなわないのじゃよ、王美人よ」
突然の話しに訳がわかない翡翠は息を呑む。
それを見てにんまりした何皇后は、
「せっかくわらわが茶の席に客人として招いたのに、その客人の礼がこれとは…礼儀しらずで酷いとは思わぬか?」
何皇后の言いたいことが分からず、翡翠はこくりと頷くだけに止めた。
それを見てさぞご満悦とばかりに何皇后は饒舌に続けた。
「で、あろう。そう思ったわらわもすぐに其奴を捕まえたのじゃ」
翡翠が喉がゴクリと音を出す。
「たしか……其奴の…名は…」
「……そうじゃ、斉峯とか言ったかのう」
「!!」
何皇后が勿体つけて言った瞬間に翡翠は声にもならない悲鳴をあげて顔が固まった。