皇甫嵩との出会い
義真に抱きかかえられてしばらくしてから董太后の部屋についた。
すぐに翡翠は寝所に寝かされ、先に手配されて待機していた董太后付きの医師が診察をした結果、産後の疲労がぶり返したためと診断し少し休ませるようにと董太后に伝えた。
そのため、そのまま董太后の部屋で休むことになったのだ。
要は診断の終った翡翠の横に寝かされて、ようやく先程の恐怖で強張った心が溶けていった。
落ち着きを取り戻した要は早速辺りを観察しはじめる。そこには翡翠の部屋よりも更に広く、豪華な調度品が色々と並べられている部屋の光景が目の前に広がっていた。
(おばちゃんの部屋すげ〜)
などと思いつつ董太后と義真の方に目を向けまじまじと見る。
おばちゃんこと董太后は見た目、40代前後くらいの全体的には丸みを帯び恰幅のよい体型だった。
また、顔には小皺が沢山あるが、それが人懐っこい感じの顔立を際立たせていて愛敬のある雰囲気になっていた。
だが、その目の奥には鋭い光が宿っていた。
(肝っ玉母さんっぽいな)
要にそう思われている董太后が、実の子の霊帝が皇帝に就いてから何度となく十常侍達や他の外威達と渡りあった猛者であることを知るのはまだ先のことであった。
その横にいる義真は銀色の長い髪を頭の上でまとめ後ろにながしていた。
ただ、同じく長い前髪は顔の左右にながしていて一部を左目が隠れるようにしていた。
印象的だったのは頭の上でまとめた髪の部分に刺さっている一輪の簪だった。
その簪と同じ真っ赤な色をした義真の右目には警護ならではの油断なく鋭い眼光が宿っていた。
背も木蓮と同じくらい高く雰囲気は歴然の強者といった感じだ。
例えるなら男装麗人のそれみたいだ。
また年齢的には20歳前だろうが、その顔に幼さの欠片はなかった。
この少女が禁軍内でも圧倒的な武を誇り、また後宮の女性達から羨望の眼差しで見られていることを知るのは少し後のことだった。
そうこう観察している内に襲ってきた眠気に呆気なく負けて眠りの淵に落ちた要が目覚めたのは、太陽が真上を少し過ぎた頃であった。
いつもと違う部屋での目覚めのため戸惑ったが、寝所の脇のテーブルで翡翠と董太后が談笑しているのを見てさっきまでの事を思い出した要であった。
「おんぎゃ〜(翡翠お母さん大丈夫?)」
要の泣き声で談笑していた二人は寝所の方に目を向け、赤子が起きたのを確認して近づいてきた。
「伯和、心配かけてごめんね。お母さん、もう大丈夫だよ」
翡翠が要を寝所から抱き抱えて安心させるように微笑んだ。
それを見た要が微笑み返すと翡翠は董太后の方に振り返り紹介した。
「伯和、目の前におられるのが貴方の御父様…皇帝陛下の御母君、董太后様よ」
「おんぎゃ〜(初めまして、そして先程はありがとうございました、董太后様)」
翡翠に促された要が挨拶をすると、それを見ていた董太后は少し驚いた表情をした。
「初めまして伯和♪ 貴方のおばあちゃんですよ〜」
だが、すぐ挨拶を返した。
満面の笑みを浮かべて。
そこには先程見た表情とは違い、心底から微笑みかける目をした董太后の姿があった。
その後、体調もすっかり良くなった翡翠と要を連れだって、董太后は中庭の庭園で食事をすることを提案して、侍女や警護の者達を連れだって皆で庭園に移動した。
移動している最中に翡翠がふと誰かに呼ばれたような気がして立ち止まり辺りを見回した。
「どうかしたの?王美人」
「いえ、誰かに呼ばれたような気がして…」
それを聞いた董太后や周りの者達も立ち止まり辺りを見回すが特に人の気配はなかった。
「大丈夫よ王美人。私の部屋にも何人か残してるから何かあればすぐ伝えに来るわよ」
「そうですよね、失礼しました董太后様」
そして、また庭園へ向けて歩みを進める一団であった。
その後の庭園での昼食は翡翠や要にとって楽しいものであった。
董太后と談笑している翡翠が時折見せるさまざまな表情は新鮮であり、何皇后との件を気にしていた要にとっては心が軽くなる材料にもなった。
庭園での昼食が済むと、また董太后の部屋に戻りそこでお茶をしながら談笑が続いた。
すっかり話し込んでいた董太后と翡翠が気づいた頃には空が茜色になっていた。
気力と体調がしっかり回復した翡翠は董太后がお礼を伝え、お暇することを告げた。
それを聞き少し名残惜しい表情をした董太后であったが、しっかり次の約束を取り付けいたのであった。
ただ、昼前の何皇后との件を気にした董太后は、念のため翡翠の部屋まで義真を含め何人かの自身の警護を同行させる旨を提案して翡翠もそれを快く受け入れた。
さすがの何皇后でも皇帝の生母の直属の警護の前では無理難題はけしかけることはできないだろうと誰もが考えた結果だった。
夕暮れ時の宮殿内では既に柱ごとに設置してある松明に火が灯されていた。全体的には少し薄暗かったが幻想的な雰囲気が広がっていた。
そんな中、義真を先頭に警備の者が翡翠と侍女達を前後に挟んで翡翠の暮らす宮殿へ移動していた。
側室が警護の者を付けて歩くのは後宮内でも珍しく、すれ違うが女官や宦官達は翡翠と義真の顔を見て一瞬ぎょっとするも、すぐに翡翠達に礼を尽くすのであった。
それが何度も続き、知らず知らずの内に苦笑する翡翠であった。
その後、董太后が危惧したようなことは一切起ることなく、翡翠の部屋まで着けた一団であった。
部屋に着くなり侍女達は各自の仕事に取り掛かかった。
翡翠は義真や他の警護の者達に付き添いの礼を伝え部屋の主として扉の所まで見送りにいった。
「付き添って下さってありがとう義真。董太后様にもお気遣いありがとうございます、とよろしく伝えて下さい」
「かしこまりました。たしかに董太后様にお伝え致します」
「ほら、伯和も義真お姉さんにご挨拶を♪」
要が一瞬きょとんとしていると、義真は恐縮しながら…
「いえ、王美人様。どうやら皇子は私のことを苦手みたいでして…」
「えっ!? そうなの?どうして?」
翡翠から聞かれた義真は皇子を抱いて董太后の部屋に向かう時のことを失礼のない範囲で話した。
最初は普通に聞いていた翡翠であったが、抱いた皇子が震えだしたことを聞きた辺りから、若干顔が引き攣りはじめた。
義真はそれを見て内心焦った。
翡翠もまた人懐っこくて話しいやすいために、つい話し過ぎてしまったのだ。
だが、皇帝の御子を産んだ翡翠は本来なら義真ごときが単独で馴れ馴れしく話してはならない相手なのだ。
周りにいた警護の者達にも緊張が走る。
その瞬間にペチっとかわいい音が辺りに木霊した。
「へっ?」
と、義真の間抜けな声が続いた。
何故なら目の前で翡翠が要に対してデコピンをしているからだ。
「伯和。あんな美人なお姉さんに抱っこされて何が不満なの?」
「ばぶ~(いや、あの〜)」
ペチっとデコピンがとぶ。
「おんぎゃ〜(い、痛いって翡翠お母さん)」
「まったく、そんな不義理な子は産んだ覚えはありませんよ」
「ばぶ、ばぶ(って、こないだ産んだばっかじゃん)」
また、ペチっとデコピンがとぶ。
勿論、翡翠はかなり手加減して優しくしているのだが、赤子の要からしたらそれでも痛い。
そんなやり取りが何度も続き、緊張の面持ちでいた義真が堪え切れず吹き出し笑い、つられて翡翠や他の警護の者達も笑いはじめたのだ。
しばらく笑い声が廊下に響いた後、義真は身を改め、
「失礼しました。ただ、あまりにもお二人が微笑ましく思えて…、王美人様と皇子は本当に仲が良いですね」
「ええ、大の仲良しです♪」
「きゃっきゃ(だよ~)」
「あっ、ほら伯和。ご挨拶できるわよね?」
翡翠が要に投げかけ、要はとびっきりの笑顔を作り、
「ばぶ、ばぶー(よろしく、義真さん)」
と、挨拶するのと同時に小さな手を義真の方に伸ばした。
一瞬、義真はどうしたことか迷ったが、翡翠が頷くのを見て要の方に手を伸ばした。
その伸ばした手の人差し指を要が握った瞬間に義真は頬をほんのり染めときめいた。
(皇子様、かわいい♪)
職務上、クールで男装麗人を装っていたが、中身は年頃の娘であった義真である。
少しの間、要に握られる指の感触に恍惚な表情を浮かべていた義真であったが 同僚達の生暖かい視線を感じ、反射的に手を皇子から離して床に方膝をつく。
「劉協皇子、ご挨拶が遅れました。我が性は皇甫、名は嵩、字は義真、どうかお見知りおき下さいませ」
「だ、だぁ〜(な、なんだってー!)」
要は目の前の女性の名前を聞いて驚いた。
それは女性が自らを皇甫嵩と名乗ったからだ。
三国志好きの要にとって皇甫嵩はダンディな中年であり忠臣である。
かの董卓が専横の如く振る舞った時、他の将や官が挙って董卓に頭を垂れたのに対して、ただ一人だけ頭を垂れず、それを董卓から「何故、おまえはワシに頭を下げない?」と、指摘された時に周りをおもむろに見て「ああ、これは気づかなかった」と、悪びれることなく言ってのけたのである。
それを知って以来、三国志のゲームをやる時は彼を必ず重用したのだ。
(なんで女なんだ?同姓同名って奴か?だいたい、この時代、皇甫嵩はもっと年だぞ)
そんな忠臣の鑑とも言える人物が目の前の女性とはとうてい思えなくて軽くパニックになる。
要はこの転生した世界が圧倒的に女性の方が優秀で、要が知る有名諸侯の武将や文官の多くが女性であることを、この時はまだ知らなかった。
(まぁ、時間はまだ沢山あるから後で考よう。今は彼女達を見送ろうっと)
と、考えるのをやめて立ち上がった義真に挨拶をして、翡翠と一緒に見送った。
そして、義真達の後ろ姿が小さくなった頃、翡翠と一緒に部屋に戻ったのである。