天子の子
皆様、お久しぶりです。お気に入りも登録も増えていて驚きしました。
昔から読んでる方、新しく読み始めた方、本当にありがとうございます。
新章、一、二話が完成しましたので投稿します。
それと第一章の裏切った者の想い~翡翠の花までも改定しましたので、お暇なときにでも読んで頂ければ幸いです。翡翠と木蓮も近々改定作業に入る予定です。
それではお楽しみ下さい。
漢帝国の都、洛陽の宮殿内に佇む、一室にて要は机に向かい黙々と古典を使い勉学に励んでいた。
「………ふぅ」
丁度、切のいいところで一息ついた。ずっと同じ姿勢で固くなった筋を伸ばすため、大きく伸びをした。辺りを見渡すと普段は部屋の隅で控えている侍女の姿が見えないことに気がついた。どうやら机に向かって熱中している間に侍女は部屋から辞したようだった。これはよくあることだったので気にも留めず、再度、伸びをして息を吐き出した。
だが、それは微かに聞こえた音によって妨げられた。
遠くで誰かの言い争うような声が聞こえたのだ。その声はどんどん大きくなっていき、自分がいる部屋に近付いてきている。
全身に緊張が走った。
「冬史ー!澪ーー!……………誰かいないのかっ!!」
もっとも頼りにしている人物の名を大きな声で呼んだが、いつもと違って返事はなかった。それどころか、隣に部屋に複数待機しているはずの侍女の返事すら返ってこなかった。
部屋に近付く声はますます大きくなり、複数の足音と金属音もはっきり耳に聞こえてきた。その音はいよいよ部屋の扉の前まで来て、ぴたりと止まった。心臓の鼓動が早くなり、その音がはっきりと耳にまで聞こえてきた。自分の顔から血の気が引いていき、真っ青になっているのがわかった。
次の瞬間、勢いよく扉が開け放たれた。
「待たせたわね、要士!」
そこにいたのは桃色の髪と小麦色の肌が印象的な女性だった。たしかにその女性のことを要は知っていた。いや、今までだって一度も忘れたことのない人物だった。だが、その人物はすでに………。
「ちょっと、ちょっと、要士?せっかく約束通り籠の扉を開けたのに………、その反応はあんまりなんじゃない?」
要の顔が真っ青な顔でぽかんとしているのを見て、その女性は悪戯っぽく言った。要は反射的に返事をした。
「水蓮さん?」
「あらあら、ちゃんと覚えてるじゃない。あの約束をした日から時間が経ってるから、てっきり忘れられちゃったと思って内心焦ったわよ!あー、ひやひやした。まったく………???。ねぇ、どうしたのそんなに驚いた顔をして?まるで死んだ人でも見るような目をしてるわよ」
その言葉で顔が強張っているのに気付いた。しかし、不思議ではなかった。だって目の前の人物は死んだと………。
「本当に水蓮さんなんですか?」
「なによ?そうに決まってるでしょ?こんないい女、二人とはいないわよ。要士、さっきからその態度は何よ!!冗談もほどほどにしないと………」
孫堅の目が怪しく光ろうとした。その瞬間、要は心に中に溜まっていた疑問を一気に話し出した。
「だって、水蓮さんは死んだって………、劉表との小競り合いで命を落としたって………」
「そんな話しもあったわね。でも、現に私はここにいるわよ。ほら、ちゃんと両足もあるでしょ?」
おどけたように孫堅は自らの足をしっかり見せてきた。
「でも、冬史と澪が話してくれました。水蓮さんが死んだって、そして孫家は瓦解したって………、あの二人が僕に嘘をつくはずはありません」
「そうね、たしかのあの二人は要士に嘘をつくはずはないわよね。だけど、あの二人だって私が死んだのを直接見たわけではないわ。その証拠に私はここにいるでしょ? 要士はいま自分の目の前にいる私よりも、誰かから伝え聞いた死んだ私の話を信じるの?」
「それは………」
張りのある声とは裏腹に孫堅の顔には悲しみが満ちていた。要は、はっとして息を飲んだ。
(もしかして、死んだとの話は皆を欺くためだったのかもしれない。それ以外に説明しようにないじゃないか!僕は何を迷っているんだろう。ちゃんと、約束通り迎えに来てくれたじゃないか)
勢いよく要は頭を下げた。
「水蓮さん、本当にごめんなさい!せっかく約束を果たしてくれたのに………」
「………わかってくれたんならいいわよ。でも、次に同じことを言ったらただじゃおかないから覚悟しなさいよ!」
「はいっ!!」
ようやく孫堅の目から怪しい光りが消えて、穏やかな顔になって要の話しかけた。
「一応、祭たちが足止めをしてくれてるけど油断できないわ。ここを抜けた後で、今の話を含めてたっぷりと話しましょう。それじゃあ、行くわよ、要士!」
「はい、わかりました」
笑顔で差し出された孫堅の手を掴みかけながら返事をした要の顔は、満面の笑みであった。
そして………
掴もうとした手は空をきった。
目を覚ました先には、いつのまにか伸ばした右手が暗闇の中に浮かんでいた。そして、掌は空をきっていた。
一瞬、訳が分からなく混乱しかけたが、うっすらと暗闇の中に佇む天蓋の姿が鮮明になっていくうちに、落ち着きを取り戻していった。
「また、あの夢か………」
「劉協様、大丈夫でしょうか?」
暗闇に響いた自分の声に反射するように、部屋の隅で控えていた侍女の声が天幕越しに聞こえてきた。
「何でもない」
「かしこまりました。まだ、夜明けまで時間がありますので、どうぞ御休み下さいませ」
「わかった……………おやすみ」
「……………」
相変わらず侍女から返事はなかった。
(はぁ~、やっぱり反応なしか。この後宮の暮らしは慣れないことだらけだな………)
内心、ため息をついた。
襄陽から戻り、この後宮で再び生活するようになった要にとって“皇子”としての生活は慣れないことだらけだった。特に、皇子として臣下に接する時の話し方………見下すような、命令するような物言いは一向に慣れる気がしなかった。今みたいに挨拶をしても、それが返ってくることはなかった、………二人を除いては。少しむっとしながら寝返りをうって、さっき見た夢のことを思い出していた。
(あれから、もうニ年か………)
そう思うと、心の中に懐かしさが芽生え、頬には一筋の涙が伝っていた。
孫堅と出会い、約束をした日からすでに三年が過ぎようとしていた。
たしかに慣れないことだらけで、立場的な不便を感じることも多かったが、それなりに満足のゆく生活を送っていた。それは孫堅との約束が大きかった。それは、待ち受ける運命に対して唯一の光明であったからだ。だから、要は可能な限り約束通りに自分を磨いていた。
勿論、助けた少女………仲謀との約束も守ろうと、折を見て冬史に相談したが、「まずは剣の腕を磨く前に体力をつけましょうね、要士様。その後でも、剣の腕は十分上達しますよ」と、返されたため、目下体力作りに励んでいた。
そんな日が一年も続き、すべてが順調にいくかと思われた矢先、それは簡単に崩れ去ってしまった。
珍しく、青い顔をして入ってきた冬史と澪から劉表との小競り合いで孫堅がその命を落としたと伝えられたのだった。
悪い冗談を言うなと一蹴しかけたが、二人の心痛な顔を見た瞬間、それが嘘ではなく真実だと察した。
劉表と孫堅の小競り合いは領地をめぐるものであった。それは難癖にも近いようなことだったが、劉表配下の江夏郡太守・黄祖は兵を率いて、孫堅の州境近くまで進軍したのだ。すぐに孫堅も兵を率いて迎撃準備をとった。暫くの間、州境でにらみ合いが続いたが、それに耐えれなくなった黄祖はついに戦の火蓋を斬ってしまったのだ。だが、孫堅は一戦の元に黄祖の兵を打ち破ったのであった。
その采配は見事なもので、孫堅の兵は被害らしい被害を受けることはなかった。逆に、黄祖が率いた兵はかなりの打撃を受けてしまい、すぐに立て直すのが不可能なほどであった。
そのため、黄祖は戦場から逃げるように江夏に引き返したのだった。そして誰もがこれですべてが終ったと思っていた矢先、孫堅は落命したのであった。
事は孫堅の陣中近くの森で起こった。
孫堅は考えごとをするため森に入ることがよくあった。そして、その日も考えごとをするため森に入っていったが、その日はいつもと違っていた。
いくら時間が経っても、孫堅は戻ってこなかったのだ。その後、孫堅を探すため森に入った祭によって、変わり果てた孫堅の姿が発見されたのであった。
江東の虎、落命す
その報は瞬く間に大陸を駆け抜けた。しかも、落命の原因が複数の毒矢による暗殺という卑劣な方法だったため、聞いた人々の衝撃は大きかった。
だが、それ以上に怒り心頭だったのは孫堅の子と臣下たちであった。卑怯な方法で母を暗殺した劉表を打つ!と雪蓮は激を飛ばしたのだった。それを冥琳は諌めようとしたが、雪蓮は全く聞かず兵を集め、襄陽に向けて出撃したのであった。
長江まで、何度も劉表の兵と遭遇したが、当主を殺され怒り心頭であった孫家の兵の前では敵ではなかった。まさに破竹の勢いで突き進んで行ったのだ。
いよいよ長江を越えようとした時、雪蓮は自分の迂闊さを呪ったのだった。そこには劉表に率いられた大勢の兵が待ち構えていた。
その数、実に雪蓮が率いている兵の数の十倍以上であった。そう、何度も遭遇した劉表の兵たちは、兵を集めるための時間稼ぎだったのだ。
そして、雪蓮に率られた兵たちの体は何度も戦闘したことによって、かなり疲弊していた。だが、怒りに支配され戦意だけは異様に高揚していたため、疲弊が見えにくかったのだ。普段だったらそんなことは分かりきっていたが、自身も怒りに身を包まれた雪蓮や臣下の多くはそんな簡単なことですら、見落としいたのだった。
その後、雪蓮に率いられた孫家の兵士たちは満足な戦いをするまもなく、次々と撃破されていったのだった。それは戦ではなく一方的な殺戮であった。この戦いで雪蓮に率いられた多くの臣下や兵士たちは命を落したのだった。冥琳や祭によって助け出された雪蓮は、辛うじて長沙に引き返すことができた。
だが、その城で待ち受けていたのは、皇帝の勅命を手にした勅使と新任の郡太守であった。また、雪蓮たちを捕まえるために荊南州牧より派遣された兵士たちもいた。罪状は、郡太守の権限もないのに兵を集め、他州へ進軍したことによる反逆罪であった。
対象は雪蓮を含め、主だった臣下たちの全員であった。辛うじてその手から逃げ延ることに成功したが、雪蓮の元に残されていたものは、途中で助け出した妹たちと冥琳や祭といった僅かな臣下たちであった。もはや孫家の栄光は過去のものになっていた。
そのことを聞いた要は、すぐに孫堅の娘たちや家臣たちの助命をと行動に移しかけたが、それは冬史によって止められたのであった。
その後、一時的に冬史に対して要の態度は以前にまして険悪になったが、時間が経つにつれ、冬史の言ったの正しさが身に染みて分かり、要は謝罪をしたのだった。
実は、現在でも皇帝は二人の息子のどちらも皇太子に任じてないのだ。つまり、現在も過去も要は皇帝の実子であるというだけで、宮中で何の発言力を持ち合わせていない。また当時、六歳の子供の話をまともに聞く人間など宮中には皆無であったし、要が孫堅の娘を助ける言われもないのだ。
それから半年経った時、少しだけ事態は好転したのだった。かねてから武官不足であった袁家本家が孫家を庇護すると宮中に宣言したのだ。さすがに宮中に影響力を持つ袁家本家が出てきたため、宮中は渋々ながら袁家本家による孫家の庇護を認めたのであった。
ただ、この話は不可解なことがあった。先代袁逢が急死して、その後を継いだのは幼子の袁公路であった。果たして、その幼子にそのような判断が………。
そのことを冬史や澪は口にしかけたが、要の安堵した姿を見て、それ以上を口にすることはなかったのだった。
孫堅の訃報からしばらく落ち込んでいたが、もう要は一人ではなかった。だから、孫堅の死を乗り越え、亡き孫堅との約束を果たすかのように自分を磨き続けていた。すでに孫堅が籠を開けることはなくなったが、それでもいつかの時のため磨き続けていた。それはこれからも変わらぬはずであった。
「劉協様、そろそろお目覚め下さい」
侍女の申し訳なさそうな声が天幕越しに聞こえ、寝台で寝ている要は目を覚ました。少しの間、ぼんやりと天蓋を眺めていたが、徐に手足を大きく伸ばすと勢いよく起き上がった。そして、少しふらふらしながら寝台から出たのだった。
「おはようございます、劉協様」
「おはよう」
目の前には床に平伏して挨拶の言葉を述べる複数の侍女の姿があった。この数年、毎朝のことなのでさすがに慣れたが、内心は逆であった。いつだったか、耐えれなくなって冬史に相談したところ、「要士様のお気持ちはわかりますが、あれは皇族に仕える侍女たちの作法と同時に彼女らの命を守るためのものなのです。仮に要士様が止めるように言ったとしても、侍女らはきっとそれを止めないでしょう。お嫌かもしれませんが、侍女たちの命を守ると思って耐えて下さい」と諭されて、要は頷くしかなかったのだった。
「劉協様、すでに隣の部屋で食事の準備ができおります。お着替えの準備をしてもよろしいでしょうか?」
年長者の侍女が平伏したまま、訊ねた。
「たのむ」
それに対して短く返事をしたのだった。すると侍女たちはやおら立ち上がり、要の着替えに取り掛かったのであった。これも毎朝のことだった。侍女たちによって手際よく着替えをおえた要は、侍女たちに先導されるように隣の広間に向かったのであった。
その部屋はかなりの広さであった。床には寝室同様に赤色の絨毯が敷き詰められていた。部屋の中央には一本の幹を輪切りにしたものを何度も磨きあげていて作られている、大きな丸い卓が重厚感のある光を発していた。
丸卓の上には何十種類もの料理がこれまたぎっしりと用意されていた。
(毎朝のことながら、これには胸焼けがするな)
以前、食べきれないから食事の量を減らしてほしいと侍女に伝えたところ、どう伝わったのか「劉協皇子様は料理人の作る食事がまずい」と言っていると伝わり、料理人たちの死刑という大事になってしまったのだ。冬史のとりなしで何とか誤解はとけ、料理人たちは死刑を免れた。だが、要はそれ以後、そのことを口にするのはやめたのであった。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
椅子を引いた侍女に頷くとゆっくり腰を下ろした。すぐに別の侍女たちが大皿にのった料理を複数の小皿に盛り付けて目の前においていった。その料理を箸で掴み、一つ口に運んだ。
(………冷たい)
後宮に戻ってからの食事は毎度冷めた物ばかりで、温かい物を口にすることはなかった。どうみても数人の大人でも食べきれないほどの量の料理を作るのにはかなりの時間がかかる。その後、複数の人間ですべての料理を毒味するため、要が食べる頃にはすべての料理が冷めてしまっているのだ。
(あの時が懐かしい………)
冷めた料理を噛みながら、ふと、翡翠の両親に会いに行く道中で食べた温かな食事のことを思い出していた。
(庶民の方が美味しい食事をしていることを、宮中にいる皇族の多くはきっと知らないんだろうな)
黙々と食べていたが、すぐお腹は膨れてしまった。ゆっくりとした動作で箸をおいて、侍女が入れてくれたお茶をひと啜りした。
「義真と公偉は?」
ほっと一息を入れて、近くにいる侍女に訊ねた。
「はい、皇甫嵩様と朱儁様は、もうまもなくこちらにお見えになるかと存じます。劉協様がお急ぎであればすぐにお呼びいたしますが?」
「いや、そこまで急いでない。予は奥の間にいるから二人が来たら通してくれ」
「はい、かしこまりました」
恭しく返事をする侍女を確認すると、徐に椅子から立ち上がった。一人の侍女が先導するのを見てからゆっくり奥の間に歩き出したのだった。奥の間に入るとすぐに扉は閉められた。その扉の向こうでは待機している侍女たちによって食事の片付けをする音が微かに聞こえていた。本当ならあの場で二人を待っていてもよかったが、ずっと大勢の侍女たちの視線の中に晒されるのが嫌だったので、奥の間に引っ込んだのだ。
部屋に入ると窓に近付く。背中には先導してくれた侍女の視線を感じたが、それを無視して窓から見える庭園の景色をぼんやりと眺めていた。ちょうど季節的に梅の花が綺麗に咲いる。そよ風に運ばれて梅の花の匂いが何度も鼻をくすぐっていた。どのぐらいそうしていただろうか、部屋の扉がゆっくりと開けられる音を聞き要は我に返って振り向いた。
(待ち人、来るだ)
少しだけ顔を綻ばせながら、二人を出迎えた。
「劉協様、おはようございます。本日のお加減はいかかでしょうか?」
冬史が恭しく頭を下げながら挨拶をしてきた。その横には澪が同じく恭しく頭を下げていた。
「うむ、今日も大事ない。ちょうど梅の花が咲いているのを堪能していたところだ。お陰でここ最近は気分がいい。面倒をかけるが今日もよろしく頼む」
「それはよろしゅうございました。それでは本日も不肖ながら私が務めさせてもらいます。では、後は私と公偉が劉協様に付き添いますので………」
冬史は要に一通りの返事をすると顔を上げて近くにいる侍女に言葉をかけた。それを聞いた侍女は頭は一つ下げると部屋を退室していった。そして、再び扉が閉まる音がして、侍女の足音が遠ざかったのを確認した冬史は笑顔に表情を変えて頷いた。要は一気に息を吐き出して緊張をといたのであった。
それを見た澪はくすくすと堪え切れなくなった笑い声をもらしていた。冬史もそれにつられるように苦笑していた。
「おはよう、冬史、澪」
「おはようございます、要士様」
「要士様、おはようっす!」
要が照れながら挨拶をすると二人とも笑顔で返事をしてくれた。そこには先程までの恭しい姿はなく自然体の冬史と澪がいた。そう、真名を交換した日の姿のままだった。
三年前のあの日、襄陽に戻る途中で三人はいくつかの取り決めをしたのだった。その中には孫堅との約束したことも含まれていた。そのため、孫堅の娘らの助命を冬史と澪以外に言うことはできなかったのだ。
特に宮中で生活する上で重要視されたのは、真名であった。
要は冬史によっていかに皇帝の御子が持つ真名の意味が重要か教えこまれていた。それは通常の真名以上のものであった。真名を預けるのは親愛の証である。その人物を心から信頼している………皇帝やその御子においてもそれは同じである。だが、大きく違うのはそれがこの国の一番の権力者の子。将来、皇帝になるかもしれない存在であることだ。例え、皇帝に即位できなかったとしても、それなりの影響力はあり、時の皇帝とておいそれと無下にすることはできないのだ。
つまり、皇帝の御子と真名を交換するとは将来の権力者から絶対的に信頼されたと一般的に解釈されてしまうのだ。そして、過去に皇帝の御子と真名を交換した人物の多くは出世していた。それは奸臣にとっては利権を貪るための格好の的であった。
それが酷かったのは先代桓帝の時代だった。幼くして即位した桓帝こと劉志は実は即位前から自らの真名を決めていたのだ。そのことを知った奸臣たちは次々と真名の交換を持ちかけたのだった。幼い劉志は自分が臣下から信頼されていると考え、喜んで交換に応じたのだった。当時の皇帝が崩御し、幼い劉志を皇帝に祭り上げると、すぐに奸臣たちの目的が露になったのだった。奸臣たちは皇帝と真名交換したことを理由に宮中や地方で好き放題振るいはじめたのだ。心ある忠臣たちは何とか手を打とうとしたが、あまりにも皇帝と真名を交換したの者が多すぎて焼け石に水であった。逆に忠臣たちは次々と誅殺されていき、それから数年で大陸全土に汚職が蔓延していったのだった。しかも、地方の郷や里の長ですら皇帝と真名を交換したと言い出す者も現れる始末であった。それが今日まで大陸に蔓延している汚職の原因であった。
「幼子一人に真名の交換を申し出る者が現れれば、後ろには蜚蠊なみにいると思え」と、心ある諸侯は子らにそう教え込んでいる。
勿論、それで一番、利を得たのは単なる皇帝と諸侯のつなぎ役でしかなかった宦官たちであった。
それを聞いた要は自らも同じ轍を踏まないように元服するまでは真名を明らかにしないと心に決めたのだった。また、周りに感づかれないように冬史たちの真名も他人の目があるときに呼ぶのは控えていた。そのため、要は常に周りを意識しながら生活を送っていたのだった。
そんな、要にとって冬史と澪以外の誰もいないこの時間は本心から心休まる時間だった。だから、とても待ち遠しかったのだ。
あの後、少しの間歓談をした要は今、冬史と澪と一緒に本宮殿にある書物庫に向かっていた。
普段、教師たちの授業では必要な書物は事前に用意されているのだが、冬史が教える時だけは一緒に書物庫に連れて行ってもらうのだった。
この国で一番の規模を誇る書物庫に最初に足を踏み入れた時、その広さ、大きさはまさに圧巻だった。また、天井高くまで建てられている棚の中には、すべて書が書かれた竹簡が並べられていた。聞いた話しではこの大陸にある書物の大多数が揃っているとのことだった。しかも、司書がいるので書物探しにもさほど難しくないのだ。
一週間ぶりに冬史と澪だけの時間が過せる要の足取りは普段以上に軽かった。が、そんな要の視界を冬史はさっと自らの体を使って隠すように遮ったのだった。それを目にした要の顔に緊張が走った。冬史がそういう行動に出る時は、決まって要自身にとってあまり良からぬ人物と鉢合わせした時でしかなかった。また、その合図もかねてのことだった。
「これはこれは今日はお出掛けですかな?」
冬史の背中越しに聞き覚えのある野太い声を聞いた瞬間、要の心に嫌のものが広がった。その人物は………
「はい、劉協様を書物庫まで案内する途中でございます。張譲様」
冬史が形式的な礼をしながら十常侍・張譲に挨拶をした。要を遮っていた冬史が頭を下げたため、視界には張譲の姿が映っていた。
張譲は初めて会った時に比べかなり太っていた。しかも、先日参列した神事で見た時よりもさらに太っているように見えた。その、でっぷりとした体を絹で仕立てられた上質な着物を何重にも身に纏っていて、肉達磨みたいであった。
「ほう、それは感心せんな。わざわざ殿下自身を書物庫にお連れしなくても、おまえたちが行けば済む話しであろう!それを怠るとは臣下の風上にもおけんな!!貴様、殿下に対して何か含むところでもあるのかっ!!!」
「いえ、それは誤解でございます。何も含みなどはございません」
「では、なぜ殿下にご足労をしていただいているのだ、皇甫嵩?」
畏まって答える冬史を見下しながら張譲はさらに言葉を続けた。
(相変わらず、ねちねちと………)
要は心の中にふつふつと怒りが芽生えているのを感じていた。
実は張譲と会うたびに冬史や澪は嫌味をさんざん言われているのだ。しかも、自分の気が済むまで言い続けるのだから性質が悪い皇帝の御子が横に言おうがお構いなしであった。張譲のこの性格は宮中に仕える者全員が知っているので、張譲に絡まれたものは常に当たり障りのない返事をして耐えるのだ。それは冬史や澪は同じであった。張譲が冬史に絡んでいるのを見た他の官たちは、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに踵を返して来た道を戻って行った。
「張譲、あまり苛めるでない。予が皇甫嵩と朱儁に無理を言ったのだ」
要の言葉を聞いた張譲はその視線を冬史から外して要を見た。でっぷりとした張譲と目が合った瞬間、要の全身に身の毛がよだった。
「殿下はお優しいございますな。しかし、この者たちはその優しさに漬け込んでこともあろうに………」
「だから、そうではない。部屋にこもってばかりで気が滅入っていたので、気分転換にと断る二人に予が無理矢理頼んだのだ」
「おお!そうでしたか!!それは露とも知らずにお見苦しい姿を見せて失礼をしました。おまえたちもそうならそうと最初から言ってくれれば、私も納得したのに……まったく殿下の前で恥をかかせおって」
張譲は仰々しく話した。
(そうならそう言ったで絶対絡んでくる!)
それは三人が心の中で思ったことだった。
「して、殿下?気分転換なら書物庫ではなく、本殿の庭園などとそれがしは思うのですが………何故、書物庫なのですかな?」
張譲の疑問は最もだった。しかし、ちゃんと建前があった。
「庭園には何皇后様の姿がおられるのではと思ってな。予の姿を見せれば、くつろいでいる何皇后様のお心に波風を立たせよう。それならば書物庫の脇にある庭でと考えたのだ」
少しだけ声を落として訳を話した。
何皇后が要を嫌っているのは宮中では公の事実だ。仮にもその母親を毒殺した人物がその子を好きになることはありえない。そのため、公式な行事以外ではまず二人が同じ場所にいることはないのだ。また、公式の行事であっても要からの挨拶を忌々しい顔で聞くぐらいであった。
「殿下のお心を察しなく、失礼な質問をしてまことに申し訳ございませぬ」
「いや、いい。………冬史」
頭は下げる張譲を見ながら、弱々しい声で冬史に話しかけて、要はその着物の端を握った。勿論、これは演技で、着物を握られた冬史もそれはわかっていた。
「はっ!!張譲様、申し訳ありませんが、そろそろよろしいでしょうか?」
冬史は顔を上げて張譲を見た。
「あ、ああ。こちらこそ止めてしまって悪かったな。殿下、申し訳ございませんでした」
「では、失礼します」
張譲の言葉に頷いた要を見ると、張譲に軽く頭を下げて要たちに道を譲り、冬史は止めた足を書物庫に向けて歩みだしたのだった。要は背中に張譲の視線を感じながらそれに続いたのであった。そして、ようやく視線を感じなくなってから小さく息を吐き出したのだった。




