董太后の苦悩
いつも読んでいただきありがとうございます。続きが完成しましたので投稿します。今回の話は主人公が登場しませんが、楽しく読んで頂ければと思います。
追記・・・すいません襄陽のある州を間違えてましたので訂正しました、荊南ではなく荊北でした。
董太后の部屋の前で冬史は立っていた。その姿はかなり意気消沈しており、後宮の外での姿しか知らない人々が見たら思わず振り返って見てしまうだろう。あれが、洛陽で幾度も賊と大立ち回りをしたその人物なのかと。そのくらい冬史の姿には威厳の欠片すらなかった。
(伯和皇子を叩いてしまったのだ仕方あるまい)
昼過ぎの一件が侍女の口から董太后に伝わったようで、先程呼び出されたのである。勿論、すぐに董太后に事と次第の報告をと考えていたが、皇子から放たれた「嫌い」という言葉に対して、かなり動揺して沈んでしまったのだった。そして、ようやく気を持ち直して報告に行こう思った矢先、呼び出しが伝えられたのだ。
(伯和皇子に嫌われちゃったか…)
だが、冬史の心中は報告が遅れた事実よりも、皇子に嫌われてしまった事実の方が大きかったのだ。呼び出されて董太后の部屋へ向かう途中もずっとこの事を考えていた。そして、そんな皇子への思いを何とか切り換えて、深く一呼吸して目の前の扉を叩き侍女に来訪を伝えたのであった。
冬史の来訪を聞き、すぐに侍女が出迎えてくれて、そのまま奥にある董太后の応接間に通されたのだった。応接間に近づくにつれて只ならぬ雰囲気が濃くなっていき、ようやく失態の重大さに心の目が動きかけた瞬間、応接間の扉は無常にも開け放たれたのだ。 そして、冬史の目には険しい表情をした董太后の顔が映ったのだ。
「董太后様。伯和皇子をお任せしてもらってる身でありながら、皇子に無礼な働きをしてしまい申し訳ございません。また、報告が遅れてしまい重ね重ね申し訳ありませんでした。この身の処遇は如何様にもお受けします!」
董太后の雰囲気に気圧されてしまい、反射的に方膝をつき謝罪の言葉を述べたのだった。その姿は自責、動揺、緊張といった色々な想いに包まれていた。それを見ていた董太后だが、険しい顔を崩すことはなかった。そして、そのまま冬史のことをじっと見ているのだった。
「………」
冬史はそのまま頭を下げ続けていた。一度、謝罪の弁を述べた以上、後は主たる董太后が言葉を発するまで動かないのが臣下としての礼儀だった。ただ、下げている頭越しに董太后の刺すような視線をずっと感じていて、それにより体全体から冷や汗が噴き出していた。そして董太后の視線は更に強くなり部屋の緊張も一気に高まっていった。また、それに合わせて冬史の身も更に強張っていった。
「………ふぅ、もういいわよ。顔をお上げなさい」
「しかし!」
その高まった緊張は冬史の予想を裏切る言葉で四散していった。しかし、先程の緊張の中で冬史は犯してしまった事の重大さを再認識したため、どんな叱責や賞罰でも甘んじて受け止めるつもりでいたのだ。
そんな冬史の心境を察した董太后は再度、言葉を投げかける。先程よりも、もっと穏やかな声で。
「もう、怒っていませんよ。それに伯和の事情も理解してるつもりです。ですから、顔をお上げなさい」
「はっ」
その言葉でようやく冬史の緊張で強張った体はほぐれていってのである。そして、恐る恐る顔を上げて見ると、董太后の顔には部屋に入った時に見た険しい表情は消えていて、代わりにどこか疲れたような表情をしていたのだった。
「冬史、こちらにお掛けなさい。あなたに大事な話があります」
「は、はいっ」
ようやく緊張が解けた冬史に対して、董太后は普段通りの声で話しかけたのであった。だが、先程の緊張にあてられた冬史の返事は少し上擦ってしまった。そんな冬史を見て董太后は苦笑したが、その顔からは疲れた表情が抜けることはなかった。大事な話しとは今日の一件についてだろうと思っていた冬史は、少しだけ体が強張るのを感じながら董太后が勧めてくれた椅子に腰掛けたのだった。
冬史が椅子に腰掛けるのを確認して、董太后は真剣な表情を浮かべ話しを切り出したのである。
「単刀直入に聞きますけど、今の伯和のことを貴女はどう見てますか?」
「そ、それは…」
「正直に答えて下さいね」
「……ッ、わかりました、董太后様」
どうやら董太后の話しとは、今日の一件のことではなく以前からの冬史の悩みの種についてだった。冬史してはあまり答えたくない質問だったが、答えないわけにもいかず重くなりかけた口を開いたのだった。
「皇子のここ最近の立ち振る舞いですが…」
「まって、言い方が悪かったわ」
「はい?」
重くなった口を開いて、ここ最近の皇子の行動に対しての意見を述べようとした冬史だったが、董太后がそれを遮った。一瞬、何がいけなかったのか分からない表情をした冬史に董太后は言葉を続けたのだった。それは冬史が本当の意味で答えたくなかった質問であった。その質問とは、一人の武人として皇子を見た時に漢帝国の行く末を担う者としてどう評価するか、という内容だった。人間性に関してはすでに言うに及ばす、知られている。董太后が知りたいのはそれ以外の皇子の才能についてだった。冬史は今後の皇子のことを考え、甘めに評価しようとしたが、董太后のその真剣な表情はそれを許さなかった。そのため、冬史はすぐに自分の考えを改めて将来皇帝になる可能性のある皇子を手厳しく評価することにしたのだった。
「まず学問に関してですが、五歳という年齢の割には全く読み書きが出来きません。そのため、同年代の諸侯の子息達と比べますと雲泥の差があると言えます。また、皇子専属の教師も同様のことを申してました」
「そうですか…」
まず、皇子の教育の一環として行われている学問に関する評価を伝えた。学問の教育は皇子が三歳を過ぎた頃から始められ、もう二年近く経つが全く読み書きが出来ないでいた。そのため、何度も教師を変えてみたが一向に出来るようになる兆しもなく、去っていった教師達の皇子に対する評価も一様に同じであった。教師の中には三公を輩出した袁家や宦官の最高位の大長秋になった曹家の令嬢達が通う学舎の教師もいた。その令嬢達の昨今の評価を考えれば教師は無能ではなく有能であった。だから冬史はそう答えたのだった。ただ、本来なら皇帝の御子に対してこんな評価をしたら、主の機嫌次第では即刻不忠の罪に囚われることになるのだが、董太后はそんな素振りすら見せることはなかった。逆に、何かを噛み締めているような顔をしていた。それはまるで自分の評価と周りの評価が違わぬかと確認してるようでもあった。お咎めがないことを確認した冬史は、そのまま話しを続けたのだった。
「ただ、読みに関してなのですが…、ご存じの通り皇子は普段からあまり言葉を話しません。そのため、話すことや、何を考えてるかを評価するのは大変難しいと教師は申してました。私も同意見です」
皇子は言葉を話せる年頃になっても自分からまともに話すことなく、いつも顔を縦に振ったり、横に振ったりして答えるのだった。たまに話すこともあるのだが、それが昼過ぎの一件だったため冬史のショックは計り知れなかった。
「はぁ…、やはりそうなのね」
「はい…」
冬史の話を聞き董太后は、自分の評価と違わぬそれに深いため息をついたのである。五歳も過ぎてまともに話さないのはさすが良からぬ噂の種となる。そして宮中の外には知られたくないことでもあった。なにより諸侯の子息と違い皇帝の御子には同年代の友人も望めないため、この時点であまり話さないのなら将来はけして明るいものではなかった。一応、皇子にも腹違いの兄がいるのだが…、
(少し歳の離れた劉弁皇子が話し相手になってくれれば何とかなるかもしれぬが、……何皇后様は絶対認めてないだろうな)
少しだけ考えを巡らしていた冬史に、董太后は皇子の武に関することを聞いてきたため、すぐに考えるのを中断して質問に答えたのだった。
「はい、皇子の武に関してもあまり言いたくないのですが…、一人の武人として評価するならば武の才能は皆無だとしか……」
「そこまでですか?」
「あくまで私個人の感想なのですが、手足の力が同年代の子に比べかなり弱く、体力もあまりないように思います」
冬史は普段接してるなかでの武人としての評価を董太后に告げた。実は冬史の評価はあながち間違ってはないのだ。元々、高祖劉邦に列なる者は虚弱体質が多く歴代皇帝はみな短命であった。そしてその血に列なる皇子もそれから逃れることは出来ず虚弱体質であった。そのため、よく体調と崩し寝込むことが多かったのである。ただ、この虚弱体質には王族ならではの原因もあった。庶民や諸侯の子なら家の手伝いをしたり、近所の子供らと走り回ったりして知らず知らずの内に体が強くなるのだが、後宮暮らしの王族には望めないことだった。それを証明するかのように、後宮の外で育った現皇帝の霊帝は虚弱ながらもあまり寝込むことはなかったのだ。また、皇子が無理を言えば侍女達も後宮の庭園で一緒に外で遊ぶのだが、万が一にでも皇子が怪我をしたら責任を問われるため侍女達もすすんでそのことを伝えなかったのである。
「はぁーー」
董太后が何度目だろうか、一際大きなため息を吐いた。それを見た冬史は手厳しい評価をしてしまったことや、常に接しているのにも関わらず何も出来ないで自分が情けなくて、申し訳ない気持ちで一杯になっていた。
「いいのですよ。貴女のせいではありませんから…」
たぶん、それが顔に出てしまったのだろう。そんな冬史を見て董太后は顔を横に振って、そのまま話を続けたのだった。
「貴女は劉協がこのまま後宮にいて、今の状態から良くなると思いますか?」
「……ッ…」
董太后の問いに緊張が一気に張り詰めた冬史はすぐ答えれなかった。
「あの子の今後を考えれば、後宮の外に養子に出して暮らさせた方があの子のためになるのではないと思いませんか?」
(………やはりそうきたか)
冬史がすぐに答えれなかった理由、それは自分で考えた中で一番最悪の話しだったからである。その話しとは有力諸侯への皇子の養子縁組だった。宮中でもあまり評判のよくない皇子を有力諸侯に養子というかたちで押し付けてお払い箱にすることなのだ。有力諸侯も宮中から面倒事を押し付けられることになるのだが、それを引いても余りある魅了があった。それは宮中に大きな恩を売ることができるのだ。おまけに宮中とも太い人脈もついてくる。そのため、皇子の養子の話しが出れば有力諸侯は挙って手を上げるだろう。
(もしや、押しきられたのか?だとしても、この話を進める訳にはいかないな)
また、皇子の腹違いの兄劉弁はもう11歳になるのだが、虚弱ながらも大病は今まで一度もしたことがなかった。そのため、次期皇帝の最有力候補であり、その後ろに立つ何皇后と十常侍の発言力は日に日に強くなっているのであった。逆に、劉協皇子を抱えている董太后の発言力が落ちはじめていることは宮中の皆が知っている暗黙の事実であった。そんなことを思いつつも、冬史は咄嗟に自分の中で考えをまとめあげ董太后に話し出したのだった。
「たしかに董太后様のお考えはわかります。私も後宮の外で暮らしたほうが、皇子のために良いのではと何度も考えました」
「貴女も私と同じでしたか。それならば…」
冬史の話を聞き董太后は安堵して話を進めようとしたが、それを冬史が遮った。
「……ですが、無礼を承知で申し上げます。私は反対です!」
「何故なのですか?理由を聞かせて下さい」
董太后は安堵したのも束の間、鋭い目付きになって冬史に反対した理由を訊ねた。それに対して冬史も一歩も引くつもりはないと目で訴えながら話を続けたのだった。
「はい、私は王美人様から直に皇子のことを任されました。そして私はお預かりしました」
「………」
「その私からすれば、諸侯とはいえども余所の家に養子に出すことなど、王美人様に顔向け出来ない行為です。ですから、断じて認めるわけには行きません」
「しかし、先程貴女は私と同じことを何度も考えたと言っていたではありませんか?よもや、嘘を申したなどとは……!」
董太后は語尾に語気を込めて冬史に問うたのだった。
「はい、私は先程董太后様と同様に考えたと申しました。ですが、私が考えていたことは養子の話しではありません。それは宮中の外に皇子が暮す宮を立て、そこで諸侯の子息と同じように皇子に暮らしてもらうことです。ですが、皇子の警備を考慮すれば大変難しく、またその問題が解決したとしても宮中は絶対に認めないと思いました」
「当たり前です。皇帝の御子のまま宮中の外に出すなどとは認めることは出来ません。貴女の考えはよくわかりました。ですが、それは実現不可能でしょう。それでも養子の話を認めることはできないのですか?」
「はい、申し訳ありませんが」
「ふぅ、やはり王美人から任された貴女の立場だからですか?」
「申し訳ありません」
冬史の答えを聞きいて、董太后の肩から力が抜けたのだった。それを見た冬史も少しだけ緊張が抜けかけたが董太后はけして甘くはなかった。
「では、貴女の主として命令します!諸侯へ養子に出すことを認めなさい」
「……なっ」
宮中で権力争いの駆け引きをしてきた董太后にしてみれば、冬史はまだまだ詰めが甘いと言わざるおえなかった。それを証明するように冬史は硬直して何も答えれなかったのである。そんな冬史を見て董太后は一気に畳み掛けたのだった。
「貴女に立場があるように私にも宮中での立場があります。それはわかりますね?ですので、主命として命じます!この場で皇子を養子に出すことを承服しなさい」
「………」
「何を黙っているのですか?臣下として早く承服しなさい!聞いているのですか、冬史!」
董太后は怒気を込めて矢継ぎ早に話をした。また、その目には一切の情などなく冷たい主としての目をしていた。そんな董太后を目の前にして冬史は身動きすら出来なくなっていた。そして、全身から冷や汗がまた噴き出したのである。
(主命には逆らうことは臣下としては出来ないことだ)
冬史は漢に仕えた時から常に模範になるような義に厚い兵士になることを志していた。また、真面目な性格も相成って宮中や洛陽の街中でも義の人としての評判は良かった。
(………だが!)
その冬史が初めて主命に背むこうとしたのだ。
「董太后様、申し訳ありません。私は王美人様に真名と命にかけて約束しました。例え主命であったとしても承服できません!」
「なるほど主命に逆らうのですね。………わかりました。では、この場で太后の主命に背いた罪として切り捨てます!誰か剣を持って来なさい!」
そう言うと部屋の隅に控えていた侍女を見た。予想だにしない董太后の命にさすがの侍女も驚愕したが、その真剣な表情を見て覆すことは無理と判断して侍女はすぐに剣と取りに行き、鞘を掴んだまま董太后に柄を差し出したのであった。差し出された柄を手にした董太后は立ち上がりすぐに剣を抜き放った。そして、座っている冬史の首に剣を当てたのだった。その剣の刀身はよく磨かれており、冬史の顔を映していた。
「最後にもう一度、機会をあげます。主命に従いなさい!」
「申し訳ありません。亡き王美人様との約束を違えるわけにはまいりません」
もはや董太后の目には一切の迷いもなく、主命に背けば首に当てられる剣で斬られることを冬史はわかっていたが、それでも従わなかったのだ。
「……くっ、強情な!」
董太后は一気に剣を振りかぶると冬史に振る下ろした。だが、冬史は董太后から目を背けなかった。その直後、部屋に剣が刺さる音が響き渡った……。
しかし、冬史に痛みはなかった。剣は冬史の目の前の床に刺さっていたのだった。
「本当に貴女は頑固ね」
董太后は苦虫をかみ締めたような顔でそう呟いたのだった。董太后は冬史の性格を考えた上で主命を持ち出せば渋々ながら従うだろうと思っていたのだ。だが、冬史は従わなかった。そのため董太后は剣を持ち出したのだった。さすがに斬ると言えば、主の手が臣下の血で汚れることを意味するため義に厚い冬史は必ず従うだろうと確信していた。だが、董太后の予想は外れてしまったのだった。董太后の心の中では冬史を斬るつもりはなかった。寧ろ、その覚悟を計るつもりでいたのだった。しかし、冬史の目を見て自分が冬史の覚悟を計るようで、逆に見透かされて、自分の覚悟を計られていたのではないだろうか、と錯覚してしまい顔をしかめたのであった。
「申し訳ありません」
しかし、冬史に董太后を計るつもりは全くなかった。主命に背いたため潔く斬られるつもりでいたのだった。だが、不思議と董太后が剣を振りかぶった瞬間、恐怖を感じることは一切なかった。寧ろ、自然と落ち着いていたのだった。そのまま再度、董太后に背いてしまったことへの謝罪の言葉を伝えたのであった。
「いいのです。貴女の覚悟はわかりましたから。少し早急に事を運ぼうとした私がいけなかったのですから。……………はぁ」
さすがに、剣を持ち出してまで主命に従わなかった冬史の覚悟に根負けしたような様子の董太后の顔は、何処か憑き物が落ちたような表情だった。そして、下を向き息を深く吐いた後に顔を上げると、そこには今度こそ本当に普段、冬史に見せる董太后の顔があった。そして、自分の椅子に戻り腰掛けたのであった。
「わかりました、今回の養子の話しは一先ず私の胸の中に仕舞っておきます。ただ、皇子の状況が好転する兆しがなければ宮中を押さえ込むのは正直難しいです。そうなれば、いくら私でも決断しなければいけません」
董太后は祖母として皇子の状況に嘆いていたが、だからといって皇子を養子に出すつもりなどは毛頭なかった。しかし、宮中の十常侍達は全く違ったのである。
すでに劉弁皇子が次期皇帝に即位するのは暗黙の事実であった。董太后がいくら意義を唱えようが、もはやそれをひっくり返すだけの力は董太后にはなかったのだ。そして、もう一人の皇子である劉協を利用して自分達の支配体制を磐石なものにするために十常侍達は画策したのであった。つまり、宮中だけではなく有力諸侯との結び付きを強化して、不満の動向を見せる他の諸侯への牽制にあて、諸侯の目を宮中から遠ざけようとしたのであった。
そのため、十常侍達は董太后に宮中で会うたびに圧力を強めていったのだった。董太后もその都度、受け入れることは出来ないと態度で示してはいたのだが、十常侍達はついに玉座の前でその話を持ち出したのであった。何とかその場は退けることに成功した董太后であったが、皇子の現状を知っている他の大臣や官達の中で、この件で董太后に味方をしてくれる者はほぼいなかったのである。しかし、皇子の状況が好転する兆しさえあれば、董太后には何とか大臣や官達を説得する自信があった。だが、逆に状況が好転しなければそれも不可能であり無理矢理押しきられる、いや、あの十常侍達がみすみすこの機会を見過ごすわけはないだろう。玉座の前でこの話を出した以上は押し切られるのも時間の問題であった。そのことを董太后は冬史に話して聞かせたのである。
(くそッ、十常侍の奴らは皇子のことを何だと思ってるんだ!)
翡翠が謀で死に、その子まで謀に利用しようとする十常達に冬史は激しい怒りを覚えた。
「ただ、太后の立場から言えば皇子の状況が好転しなければ、いつまでも反対という訳にはいきません。貴女も知っていることと思いますが、宮中での十常侍達の発言力は日が経つにつれて強さを増しています。そして、私の発言力がその逆であることは事実です」
「なッ」
「少しでも私に発言力がある今ならば、信義が厚い諸侯の元に皇子を養子に出すことは可能です。しかし、時が過ぎた後ならばそれも不可能なことでしょう。わかりますね、この話は皇子のためにも早ければ早いほうがいいのです。だから、好転する兆しがなければ私も覚悟を決めて決断しないといけません。しかし、王美人から直接任された貴女の覚悟を知った以上、それを無視するのは人の道に外れます。ですので、一度あの子を宮中……洛陽の外に出します。そして、しばらくそこで過ごしてもらいます」
「………ッ!」
董太后は祖母としての本音と、太后としての自分に出来る最良の手段を冬史に伝えたのだった。そして、冬史の反応を待たずに董太后は言葉を続けたのだった。それは…
「もし、それでも好転しないようでしたら、その時に皇子を養子に出す話を宮中で進めます!ただし、その判断は貴女に一任します」
「えっ、わ、私がですか?」
突然、重大なことを任された冬史は驚いて、姿勢が少し前のめりになりつつも董太后に再度確認をした。それに対して董太后は優しい目で冬史を見て、言葉を紡いだのだった。
「ええ、王美人から任された貴女だから・・・いいえ、違うわね。今まで誰よりもあの子と一緒にいてくれた貴女だから判断を任せます。お願いできますね」
その顔はまさに皇子の祖母としての顔だった。冬史は自分と同じように、目の前の董太后も長い間悩み続けていたのだと初めて知ったのだった。
だからこそ冬史は答えた。
「董太后様、主命たしかに承りました。私が責任を持って判断致しますので、どうかお任せ下さい!」
「ありがとう、冬史。結果がどうなろうとも先程の貴女の覚悟、祖母として太后として大変嬉しく思います」
その後はしばらく滞在場所について董太后と話し合っていた。
先程の冬史の評価を考慮した結果、荊北州は襄陽の街に滞在することが決まったのだった。襄陽を治めるのは霊帝や皇子と同じ高祖の血に列なる劉表である。彼の者は統治者として優秀で民から慕われている。その評判の良さは、洛陽の街にまで聞こえてきていた。また、文学者としての顔も持っており、文学を目指すものには惜しみ無く援助するため、大陸の中でもその城下には学術を修める学舎が多いのだ。武の才能が皆無な皇子に、何とか文の才能を植え付けようとしたのであった。そうした理由から襄陽に決まったのであった。
その後も日程や皇子の警護を受け持つ兵の召集などを董太后と調整していた。最終的には、警護を受け持つ兵は宮中から禁軍百人、洛陽の街周辺や郊外を警備してる軍から九百人、それと滞在先の劉表から呼び出す兵の4千人を合わせて合計5千人になった。襄陽に出発する時期は、董太后が宮中に伝え皇帝に許可をもらった後に、劉表に使者を出すために三ヶ月後になった。また、滞在期間は董太后の宮中での発言力があまり落ちないことを考慮して、約三ヶ月半、往復の移動を含め半年間と決まったのだった。
それが決まり冬史は董太后の部屋を退出した。結果的には、冬史が考えていた皇子を洛陽の外に出して暮させることになったが、同時に重大な判断をしないといけない責任を任せれたため、けして手放しに喜べるものではなかった。だが、以前から聞けないでいた董太后の本音を知ることが出来たのは収穫であった。そして、聞いていた噂とは違っていて安堵していた。また、少なからず襄陽に行くことで、皇子の何かが変わるかもしれないと希望もあった。だから、冬史のその顔はどこかほっとしているようだった。
だったのだが・・・
「はぁ〜、どう話そう…」
今日一番の大きなため息をついてしまった冬史だった。それは、董太后が明日から宮中への根回しなどで色々と忙しくなるため、先に冬史がこの事を皇子に伝える役目を任されたからであった。勿論、董太后も手筈が整ったのち皇帝から正式に承認を受けて皇子に伝えるのだが、それに先立ち冬史が伝えることになったのだ。
「あの後、皇子と顔を合わせてないし………、はぁ、どうしよう」
一難去って、また一難。ほっとしたのも束の間、今の冬史には半年以上先の養子の判断よりもこっちの方が重大であった。夜もふけてるため、明日話すと決めた冬史の背中はどこか哀愁が漂っていた。
読んで頂きありがとうございました。主人公のヘタれ臭が漂い始めてますが、これにはちゃんと理由があります。一応、この次の次の話しで主人公に焦点をあてますので、それまで我慢して下さいね。




