翡翠と木蓮
一章は最終話です。
お楽しみ下さい。
02/06 本文を改定しました。
あの後、董太后の指示により毒殺に関わっていた者たち全員が拘束された時、夜はかなりふけていた。
その最中、自室で軟禁されることになった何皇后の意識が戻ったが、「王美人は化け物だ、その子も化け物だ、早く殺せ」と、監視の者たちが制止するのも聞かず喚き散らして錯乱したという。その姿を見た者たちは罪の意識から気でもふれたと考え、誰一人としてまともに取り合おうとはしなかった。
また、あの部屋にいた親衛隊も兵士たちも目の前で起きたことを誰も口にはしなかった。たしかに彼らは自らの目ですべてを見ていたが、あの事は到底、彼らが知る言葉では表現できなかった。例え、言葉で表すことができたとしても、信じてもらえるはずのない話しであった。
(私だって、あの場にいなければ信じないはすだ。………いや、あの場にいた私ですら自分が見たものを疑ってる節がある)
あれから少し時間が経っているのにもかかわらず、白昼夢でも見ていたのでは?湧き上がる気持ちを押さえ込んで、義真は同僚たちを引き連れて宮殿の外に出た。そして、辺りを警戒しながら暫く歩き続けると、しだいに目的の建物が見えてきた。
ここは半刻前、捕まえた親衛隊の隊長から聞き出した場所だった。そう、罠に嵌められ抵抗した翡翠の専属医師の斉峯………いや、木蓮が後宮から運び出された先だった。その建物を見る義真の表情は険しかった。そして、隊長から聞き出した話しを思い出していた。
無実な者たちに対して、その謀はあまりにも残酷すぎた。たった一人の人間の欲望のため、多くの者たちが死んだのだ。それも言われもない罪のために………。
そして、そんな謀になんの抵抗もなく加担した親衛隊たちや隊長のことが、同じ後宮を預かる身として許せなかった。隊長から語られる謀の内容を聞き終えた時、義真の体のどろどろとした怒り支配されていた。そして、自分の名を呼ぶ悲鳴にも似た同僚の声で我に返ったとき、無意識で振りかぶったトンファーの刃は隊長の首で止まっていた。その首に当たっている刃からは、小刻みに恐怖で震える振動が伝わっていた。
一瞬、自分が無意識でした行動に驚いたが、気を取り直して、その状態のまま木蓮を運び出した場所を聞き出したのだった。
(とても、怖かっただろうに………、助けてやれなくすまない)
隊長から聞き出すと、義真は董太后に聞き出した話しの報告と許可を貰い、数名の同僚たちに声をかけて宮中の外へ向かったのであった。すでに宮中内には事件のことが伝わったようで、深夜にもかかわらず廊下にはいくつもの明かりが煌々と灯され、何人もの文官たち足早にとそれぞれの目的の場所に移動していた。そして、警備の数もかなり増員されていて、そこかしこにその姿が確認できた。そのため、何度もすれ違ったが皆一様に厳しい表情であった。そんな中、義真は翡翠と木蓮に出会ったときのことを思い出していた。
あの二人に最初に出会ったのは、翡翠が後宮入りする日のことであった。
その日、董太后の直々の命で新しく後宮入りする娘を街まで出迎え、後宮まで案内する役目を仰せつかっていた義真は、足早に待ち合わせ場所に向かっていた。待ち合わせ場所に近付くと、遠目でもはっきり分かるぐらいの美人が立っていた。しかも、背も自分と同じくらい高いので、かんり目を引いていた。その証拠に通りを歩く人は皆振り返って見ていた。
目と鼻の先ぐらい近付くと、その美人の影に背の低い女性が立っていることに気付いた。こちらは背の高い女性とは真逆で、愛嬌があって可愛らしい顔立ちをしていた。ただ、背の低い女性に対する話し方から、背の高い女性が側室に入る方だと考えたのだった。そして、隣にいる女性を実家から連れて来た侍女だと思っていた。後宮入りする方が事前連絡なしに、実家から侍女も連れてくることはよくあったので、義真はたいして疑問に感じていなかった。
まぁ、聞いていた医師の姿が見えないのは怪訝に思ったが、直接伺えばと考え、背の高い女性の前で臣下の礼をとり挨拶をしたのだった。が、背の高い女性は一瞬驚いたが、すぐに申し訳なさそうな顔で言ったのだった。
「えっ!? ごめんなさい、側室入りするのはこっちの子で、私は医師のほうです………」と、続けながら隣の女性を見た。
あわてて土下座して、背の低い女性に謝罪したが、謝る義真に、背の低い女性はくすくすと笑いながらよく間違えられると話してくれたのだ。その後、後宮入りした二人とは、所用で何度か会う内に少しずつ話す関係になっていた。また、部屋に翡翠と木蓮しかいないないときの姿は、主従関係ではなく、まるで姉妹のような関係をしていたのが印象的だった。
物思いに少しふけっていた義真だったが、宮殿の出口に近付くにつれ考えるのを止め、警備兵のそれの顔に変わっていた。
目的の建物は国中で一番治安がよいとされている洛陽でも、滅多なことで一般人が近付かない貧困街の中にあった。治安がよいとはいえ、五十万人を超える人々が住む洛陽の街には色々な人間がいる。まっとうに働く者から物乞いをする者まで様々だった。そんな中、貧困街には盗みや、誘拐、殺人といったことを生業としている多くの者が住んでいるのだ。
また、皇帝のお膝元である洛陽では常に富裕層が優先であって、貧困層のことは全く考えられていない。そのため、治安維持のための警邏なども、富裕層が住む地区が優先され、貧困層が住む地区はあまりされなくなり、いつしか犯罪者やその予備軍が多く住むようになっていた。
ここには、一食の食事のために殺しをする者が多くいる。人の命が一食より軽いのだ。そして金さえ摘めば何でも請け負ってくれる。
貧困街に足を踏み入れると、すぐに敵意を剥き出しにして睨んでくる者が複数いたが、義真だと気付くと、そそくさと逃げてしまったのだった。
歳はまだ若いが、義真の名は武と義の人として洛陽の街中に広く知れ渡っていた。また、この貧困街でも犯罪者を相手に何度も大立ち回りをしていたので、自然と貧困街でも顔が知れていたのであった。だから、義真だと分かった瞬間、疚しい者たちは逃げたり隠れたりするのだった。
そのため、貧困街に入ってから目的の建物まで問題が起きることはなく、義真は目的の建物を気付かれないように物陰から見ていた。
建物は宿屋兼、飲み屋といった感じの二階建ての広めの建物だった。男たちの景気のよい声が外に漏れていて、中には複数の人間がいることが分かるが、外に警備の者の姿は見えず、気配を探ったが警戒されている様子はなかった。
(以前から、何度も親衛隊を通して何皇后からの依頼を引き受けている以上、いまさら我々が襲撃するなどとは思わんか………)
義真は周りにいる同僚に目で合図をした。そこには廊下で義真をからかったときの顔とは全く違った顔をした同僚たちがいた。義真の直衛には五人がつき、後は音も立てずに移動して建物を取り囲んだのだった。
(この人員なら中に二、三十人いても問題ないだろう)
直衛についた同僚たちは、今まで何度も一緒に建物に踏み入ったことがある者たちだった。そのため、乱戦の最中でも連携が取りやすいのだ。
全員、配置についたことが完了したとの合図を受けた義真は、大きく頷いた。そして、トンファーの鞘の部分を外しながら建物の入り口に向かって静かに走り出したのだった。
建物の中にいる複数の男達は酒盛りをしていた。今日の依頼は、依頼主自ら立ち会うという珍しいものだったが、依頼主は男たちの仕事に満足して、気前よく相場以上の多額な金銭を出してくれたのだった。そのため、男たちは滅多に飲めない上物の酒を仕入れて酒盛りをしていた。そして、口々に今日連れ込まれた美人の女と、依頼主である顔を隠した高貴な女のことを話題にして盛り上がっていた。が、その盛り上がりは、突然、けたたましい音を上げて壊れていった扉によって遮られたのだった。
その扉のあった場所には銀色の髪をして、赤い目を猛獣のように光らせた女が立っていた。
「我々は禁軍所属、後宮警護隊だ!貴様ら全員、大人しく縛につけ!!抵抗しなければ命までは取らんっ!!」
よく通る声で、酒に酔っていた男たちは静まり返っていた。
だが、我に返った一人の男が身近にあった剣を持つ音がしたとき、他の男たちも身近にあった剣を持って抵抗を試みたのだった。しかし、酒に酔っていたため、抵抗らしい抵抗をする間もなく、銀色の髪をした女と、その後に続いて入ってきた女たちによって一人を残して全員切り捨てられたのだった。
男たちが見張りを立てずに酒盛りをしていたのにはわけがあった。
まず、周辺の者たちは男たちの生業を知っているので何かしてくることはなかった。次に、男たちに仕事を依頼してくる者たちの多くは宮中の人間だった。しかも、数年に渡り懇意にしているような依頼主いるのだ。その一人が今日来た顔を隠した高貴な女………何皇后であった。そのため、依頼主たちは事が公にならないよう男たちに色々と便宜をはかっていたのだ。その最たるものが、官が動く前に必ず連絡をしてくることだった。だから、男たちは見張りも立てずに酒盛りをしていたのだ。
生き残った一人の男の首にトンファーの刃を押し当てて、義真は木蓮が連れ込まれた場所を聞き出した。さっきまで一緒に盛り上がっていた仲間たちの変わり果てた姿に男は恐怖して、洗いざらい話したのだった。
義真は一番奥にある部屋にいた。そして、男に聞けさした隠し扉の入口に近付いたのだった。
そこには薄暗い地下に繋がる階段があった。ただ、階段の下の壁には松明が立てられていたため、比較的に見通しは悪くなかった。義真は気配を探りながら一段、一段、ゆっくりと階段を下りかけたが、すぐ顔をしかめることになった。
階段に足を踏み出そうとした時に、地下から生物の腐った臭いと血の匂いが上がってきて義真の顔を撫ぜたからであった。義真の後に続く同僚たちも、同じような顔をして続いていた。
階段を下りると通路を挟んで複数の小部屋があった。縛って連れて来た男の顔を見ると、右奥の部屋を指差した。他に人の気配がないことを確認して、右奥の部屋に足をむけたが、さらに臭いは強くなっていった。
隊長や男から聞きだした話しが頭を過ぎったが、義真は覚悟を決めた扉を開けたのだった。
「………ッ!!」
部屋にこもっていた淀んだ空気と臭気が義真たちを出迎えた。部屋は真っ暗で僅かに通路の明かりが入り込んでいた。義真は警戒するように部屋に一歩踏み込んだ。すると部屋の床に放置されている人影が見えたのだった。
同僚から渡された松明を手に近付くと、松明の明かりに照らされて人影の下半身が見えた。かなり汚れているが、何度も後宮内で見かけた木蓮が着ている服であった。ゆっくりと明かりを上半身の方に動かすと服は血によってどす黒く変色していた。
意を決して明かりを顔に近づけて驚愕した。
明かりに照らされている顔はたしかに木蓮であった。
だが、その表情があまりにもこの場に相応しくなかったのだ。義真が聞き出した話しでは、木蓮は毒によって長時間苦しめられた末に死んだとのことだった。そのことを証明するように木蓮の上半身は血まみれになっていた。
血まみれになっていたにの…………
木蓮の顔だけは違ったのだ。まるで眠るかのような安らかな表情を木蓮は浮かべていたのだ。再度、木蓮の全身を見た感想は先程までと違っていた。そう、服が汚れてなければ誰が見ても、寝ていると見間違えるほどの安らかな姿だった。
木蓮の死体について捕まえた男に問いただすと、男は怪訝な顔をして話を聞いていた。そして、義真に促され木蓮の死体を確認しようとして男は絶句した。次に瞬間、男は腰を抜かして悲鳴を上げて床を這って逃げようとしたのだ。すぐ押さえつけて男に理由を聞いた。そして、男以外の全員がその話に驚いたのだった。
木蓮は後宮内で気絶させられて、秘密裏に後宮から運び出され、この場所に連れ込まれたのだ。
ここでは一思いに殺されず、少しずつ毒を飲まされ、長い間苦しめられた末に大量の吐血をして死んだのである。その後、木蓮の死体で楽しもうとした男たちだったが、その顔が連れ込まれたときのように美し顔ではなく、醜く苦悶な表情で強張っていたため、楽しむのを止めたのだった。
それを聞いた義真は、男を殴り飛ばした。
ふと、義真の頭にあることが過ぎった。もしやと思い、ふたたび木蓮を見た。
やはり、そこには苦悶の表情とは全く無縁で、眠るように死んでいる美しいままの姿があった。
ただ、顔をよく見ると何かやりとげて満足したような表情が浮かんでいた。
(やはり、そうゆうことだったのか………)
その瞬間、義真は納得した。
頭に過ぎったのは翡翠の部屋で見たことだったのだ。
そう、すべて夢ではなかったのだ、と………。
草木が生い茂る木々の間にゆるやかに流れる小川があった。
小川付近にはいくつもの小さな岩があり、その一つに木蓮は腰掛けていた。木蓮はじっと小川を見つめながら、後宮で気を失った後のことを思い出していた。きっと来るであろう、ある人物を待ちながら………
翡翠を助けるのに失敗して、気を失った木蓮が意識を取り戻したのは薄暗い部屋であった。周りには薄ら笑いを浮かべた男たちの姿があって、ぞっとしたのだ。だが、その中に親衛隊の者たちと顔は隠しているが忘れもしない何皇后の姿を確認したとき、木蓮はすべてを悟っていた。自分は失敗として、そして殺されると。
そして、何皇后が小声で何かを話すと、複数の男たちに押さえつけられて少量の毒を無理矢理飲まされたのだった。すぐ耐えれない激痛が襲ってきて木蓮は床をのたうち回った。動きが弱くなり痙攣しはじめると、男たちによって解毒剤が飲まされた。そして、木蓮が落ち着くとまた少量の毒を飲ませ、解毒剤を飲ませるの繰り返しだった。
毒により身も心もぼろぼろになった後、木蓮の意識は闇に溶けるよう消えていった。ただ、その瞬間まで残っていたのは翡翠の身を案じる心であった。
木蓮は気が付くと暗闇に立っていた。その目の前には闇に溶けかけた翡翠の姿があった。あわてて近寄ろうとする木蓮の心に、翡翠の色々な想いが流れてきた。そして、翡翠がすでに助からない身であることもわかった。
それでも、木蓮は必死に翡翠に呼びかけて起こそうとしたのだった………心残りを知っているからこそ。
だから願ったのだった、自分の残されたすべてを翡翠にあげるから。と、何度も何度も願いながら翡翠を起こした。その思いが届き翡翠が目覚めたとき、木蓮は翡翠の心に溶けて消えていった。
だが、木蓮は満足していた。
わたしは最後の最後で翡翠を助けられたと………。
次に目を覚ましたとき、木蓮は小川の傍にある小さな岩に腰掛けていた。なんとなく、この場所が何処かは分かっていた。そして、翡翠がやってくることも自然と分かっていた。ふと、背中に人の気配を感じて、木蓮は振り返った。
そこには翡翠が微笑んで立っていた。
(あぁ、ようやく会えた………)
「木蓮、お待たせ」
微笑みながら語りかける声は、何度も聞きいた翡翠の声であった。
「…………………」
「木蓮?………もしかして、怒ってるの?」
翡翠が上目遣いで木蓮を見上げた。それが、じんわり木蓮の心に広がった。
「………木蓮?」
「悪い、少し考えごとをしていた」
「考えごとって?」
「あぁ、幼いときから、あんなに毎日顔を会わせていたのに、ようやく会えた気がすると思ってな」
「そうね、わたしもそう思うわ」
少しの間、懐かしむよように見つめ合っていた。
「そういえば、ちゃんと伯和皇子にお別れの挨拶はできたのか?」
「ええ、木蓮のお陰で伯和にちゃんと伝えれたわ。あと、あの子のお願いもね」
「それは、良かった。伯和皇子のお願いって、もしかして冬史にか?」
「そうなの、冬史にお願い………って、冬史の真名知ってたの?」
「すまんな、少し前の真名を預けたんだ」
「ひっどぉーい、木蓮!わたしも、もっと早く真名を預けようと考えていたのに。そうならそうと言ってくれたら、良かったのに………うぅぅ~~~!!」
翡翠は頬を膨らまして軽く睨み上げたが、その顔を見て木蓮は鼻で笑った。
「でも、冬史はわたしの真名を突然呼んでくれたのよ。まぁ、ちょっと驚いたけど、とっても嬉しかったわ」
少し幼稚な気がしたが、翡翠は胸を張って木蓮に自慢した。
「何だって?翡翠が真名を預けてないのにか?」
「ええ、そうよ」
「非常識過ぎるぞ!冬史の奴………!!」
あまりにも冬史らしからぬ、礼儀知らずの行動だったため木蓮は怒りを隠そうともしなかった。だが、そんな木蓮に翡翠は優しく語りかけた。
「ねぇ、木蓮。真名はその人の有り様………言うならばその人の姿そのものを表す言葉でしょ?」
「あぁ、そうだ」
「だからね、わたしが真名を預けてなくても、わたしを見て自然とわたしを表す言葉が口から出たのなら、それはわたしの有り様が真名を預けたことになるんだと、わたしはそう思うの」
「やれやれ、相変わらず翡翠らしい考え方だな。まぁ、本人がそう言うのならそうかもしれないな。だが………」
「はい、この話しはここでおしまい!」
「へっ?」
木蓮のお説教が始まりかけたのを察した翡翠はぴしゃりと言い切ったのだった。木蓮は何か言いたげに翡翠の顔を見たが、
(やっぱりこの笑顔には勝てないな)
自分を笑顔で見上げている翡翠を見た木蓮は何も言えなかった。
「ねぇねぇ、そういえば不思議なことがあったのよ」
そう話す翡翠の顔は悪戯っ子のそれであった。
「何があったんだ?」
「んとね、わたしが伯和にお別れを言うため起き上がったら横に何皇后様がいたの」
「何皇后が?」
「そうな!だから、ついね、いつもの癖で笑顔で挨拶したのよ。そしたらね、何皇后様ったら顔を真っ青にして口から泡を吹いて気絶しちゃったのよ」
さも心外だと言わんばかりに翡翠が話していた。
かなり論点がすれている気がする翡翠の物言いに木蓮は苦笑していたが、内心はさっきからまったく違うことを気にしていた。翡翠がさっきから笑顔で話すたびに、その目の奥には影があることを木蓮は気付いていた。
昔から翡翠は自分に辛いことがあると、いつもそれを一人でじっと我慢して泣き言を言わないのだ。そして、決まって周りにはこうして明るく振舞うのだった。
(やれやれ。本当に不器用な性格だな………まったく)
「失礼しちゃうわよね。わたし、普通なのに………って、ちょっと?ちゃんと聞いてるの木蓮?………えっ!?どうしたのよ、木蓮?」
突然、話の最中で木蓮が抱きしめてきたので翡翠は驚いた。翡翠の言葉を無視して、木蓮はそっとささやいた。
「翡翠、もういいんだ。そんなに我慢しなくて………」
「なに言ってるのよ?意味わからないわ。ちょっと、離してよ」
言葉とは、裏腹に翡翠の声は震えていた。
「大丈夫だ。ここには私しかいない。だから、もう耐えなくていい。我慢しなくていいんだ」
翡翠の体はびくっと震えた。そして、消え去りそうな声で訊ねた。
「……………いいの?」
「あぁ、翡翠はよくやったよ。だから、いいんだ我慢しなくて」
木蓮が抱きしめる力を強めた瞬間、翡翠の目からは涙がとめどなく溢れていた。そして、木蓮はそっと指で涙の通り道を作った。すると、溢れ出た涙がその道に続いて頬を伝っていく。
「ぐす………いや。いやよ、いやよ、死にたくない。もっと、あの子と一緒にいたかった。あの子と沢山話して、色々なことを教えてあげたかった。わたしはあの子に皇帝になってほしいなんて一度も思わなかった。ただ、あの子と一緒に過したかっただけなのに………、なんで?なんで、死ななきゃならないの。そんなの嫌だよ、木蓮。もう、この手であの子の温もりを感じることも、抱きしめてあげることもできないなんて。あの子がどんなに辛く悲しいときでも、わたしは一緒に傍にいてあげることすらできない。そんなの酷いよ、あんまりだよ。あの子はまだ生まれたばかりなのに………酷すぎるよ」
木蓮はたたじっと泣きじゃくる翡翠の訴えに耳を傾けていた。
今の姿は後宮での姿からは想像もできないが、翡翠はまだうら若き女性なのだ。そして、いつも他人優先で我慢をしていたのだ。だから、木蓮はもう我慢しなくていいと言ったのであった。しばらく声にもならない声で泣きじゃくっていた翡翠だったが、その泣き声は少しずつ小さくなっていった。そして、しゃくりあげるのも落ち着いた翡翠はそのまま顔を上げて木蓮を見た。
「ありがと、木蓮。そして、ごめんね。木蓮だって辛いのに………。わたしが後宮入りしたばかりに貴女にも迷惑………」
「翡翠、それ以上は言わない約束だ。たしかに私も死にたくはなかった。でも、自分で選んだこの道を、後悔したことはないよ」
木蓮は優しく抱きしめる手をほどいて翡翠を放した。
「うん、そうだったね。わたしも後悔してないわ」
そこには溜まっていたものをすべて吐き出して、いつもの表情に戻った翡翠がいた。もう、目の奥に影はなかった。
「ああ、そうだ。それに、翡翠が込めた想いはちゃんと伝わるはずだ。あの名と一緒に………ん?なにか変なことを言ったか?」
話を聞くにつれて翡翠の表情が固まっていったので、怪訝に思い木蓮は訊ねたのだった。
「………あのね、わたしね。最後に伯和に真名を贈ろうとしたんだけど………」
翡翠は恐る恐る言葉を切り出した。その表情から木蓮は何か聞いてはならない嫌なものを察した。
「だけど………」
だが、自然と口は続きを促したのだった。
「あのね、時間が足りなくて………」
「………ま、まさか?」
「ごめんなさい!真名を伝えれなかったの」
「翡翠ぃーーーーっ!!」
木蓮はがっくりと肩をおとしてうな垂れた。
なんのために自分が………。いや、それはいい。だが、残された伯和皇子のことを思うと居た堪れなくなった。
「ごめんなさい。せっかく助けてくれたのに………。でも、わたしが言うのも何だけど、きっと大丈夫な気がするの」
翡翠は申し訳なさそうな上目遣いで木蓮を見た。
「どうしてだ?」
「たぶん、あの人なら伝えてくれると思うの」
「あの人なら?誰だそれは?だいだい、なんでそいつは生まれたばかりの翡翠の子の真名を知っているんだ?あまりにもいい加減すぎる!!他人任せにもほどがあるぞ、翡翠っ!!」
先程までの優しい表情をした木蓮の姿はもはやなく、烈火の如く怒った表情をした木蓮がそこにいた。
「実は、この前手紙を書いたときに一緒に………」
「真名を手紙に書いただと………ッ!!!」
木蓮が次の言葉を切り出す前に翡翠は矢継ぎ早に伝えた。
「だから大丈夫!………わたしの感よ♪」
その言葉を聞いた木蓮は口をぱくぱくと動かして固まってしまった。
木蓮の頭の中では、かつてその言葉を何度も口にして人物のことを思い出していた。同じ女性でも、憧れるくらい魅力的なスタイル、たわわと実った桃のような胸とその色をした髪を持つ女性の顔を………。
背中に嫌な汗が流れた。
幼いときからいっぱい可愛がってくれた(?)、虎のような目をした顔を持つ女性を………。
体ががくがくと震えだした。
たしかに彼女なら真名を伝えてくれるだろうと思った。
反射的に辺りを見渡した。そして、まだ安全であることを確認すると翡翠の手を取って隠れるように歩き出した。
「木蓮?」
突然の行動に翡翠は非難めいた声を上げた。
「は、はやく、隠れなきゃ」
「ちょっと、どうしたの?ねぇ、聞いてるの木蓮?」
木蓮の耳には全く届いてなかった。
木蓮の頭の中では、その女性に一番可愛がられたときの記憶が鮮明になって蘇っていた。かつてその女性に無理難題をつきつけられた結果、めきめきと医師の力をつけることになった記憶を。
彼女は決まって「大丈夫!私の感よ♪」と、こう言うのだ。その言葉が木蓮にもたらしたのは、自分の体を自分で治療するという仕打ちだった。
すでに翡翠と木蓮の姿はなく、辺りは静けさを取り戻していた。
翡翠と木蓮が何処へ行ったか。そして、ここが何処かは誰もわからないことだった。
義真は皇子を抱きながら、洛陽の郊外にある小高い丘の上にきていた。
その丘の上には二つの並んだ墓が作られていた。ここに眠るのは翡翠と木蓮だった。
大陸全土に激震が走った、何皇后による王美人毒殺の事件から数日が過ぎていた。翡翠と木蓮の葬儀は首謀者が首謀者だけに簡素なもので執り行われた。そして、墓所も専用のものではなく郊外のここに葬られたのだ。
丘の上からは巨大な洛陽の街や遠くにそびえる山々まで綺麗に見渡すことができた。
義真は翡翠の墓の前に立った。
「翡翠様、必ず皇子が独り立ちする日まで私がお守りしますので、ご安心ください!」
墓前で誓っていると、もぞもぞと動く感じがして腕の中にいる皇子を見た。眠っている皇子の小さな掌には、眠る母子の横にあった二つの首飾りが握られていた。
きっと、この皇子は物覚えのつく頃に母がいないことを嘆くと思った。まだ、母の温もりに守れているはずなのに、そのすべてを失った皇子を義真はとても不憫に思っていた。
だから自分が支えようと改めて心に誓ったのだった。
だが、誰も知らなかった。
いや、知るはずもなかった。
その赤子は普通の赤子と違っていた。
それは母親が殺される現場を終始見ていて、すべて覚えていたのだ。
これが原因で要が陰を落とすのは別のお話しである。
第一章 完
これにて一章完結になります。
まず、ここまで読んで頂きましてありがとうございます。
特に一気に三話目から今話まで書き上げたため、投稿後すぐに読んでくれた方に関しては誤字脱字の多い中、我慢していただき本当にありがとうございます。
次章に関してはすでに構想があります。
そして次章から少しずつ原作キャラも登場させていきます(ラストの伏線も回収します)。
ただ、執筆ペースは少し落ちるかもしれませんのでご承知下さいませ。
追記…言い訳になりますが、義真こと冬史の真名を翡翠とのラストで出したかったため、真名交換済みである木蓮にも話しの途中では字の方を呼ばせていました。ご容赦下さい。




