笑う猫。
「ハクトは何処?」
逃げるか暴れると思ったのだろう、抱きつくようにして自由を奪った誰かに、私は最も気になることを尋ねた。
抱きつくように、といえば聞こえがいいかもしれないが、右側から伸ばされた手が左腕を掴んでいるから、圧迫されて息苦しい。振り向いて姿を見たくても、肩に顎が乗せられているせいで、あまり動かない。おまけに、脅しなのかナイフが眼前にある。
だけど、それがどうした。これは私の夢なのだから、怖がることは何もない。私はナイフで殺されたいなんて思ってないから。
「あのさぁ、そこは普通“貴方は誰?”とか訊かないの?」
貴方は誰、のところだけ気味悪く高くした声が、つまらなそうに呟くのを聞きながら、私は目を閉じた。
今は見えないほうがいい。どうせ身動きも取れないし、相手も見れないのだから必要ない。
……声からして男だろう。触れる体も硬いし、でも背は……私の肩に顎を乗せてるんだから、屈んでいるに違いない。それじゃあ分からないな。
「答えてくれるの?」
「応えてあげるよ? 俺はナイフを持っている、貴方に抱きついている、背後に回るのが得意、ここの国の住人、アリスは俺の」
最後以外は、分かりきっていたことだった。何でかは、一つも理解できないけれど。というか“貴方は誰?”の答えになっていないんじゃないだろうか。
不意に、頬に手が触れた。相変わらず肩は掴まれたままだから、ナイフをしまったのだろうか? 目を開けると、親指が瞼につかないギリギリの場所で止められていた。
「ハクトは何処?」
「貴方はロボットか何かなの? ちょっとは怖がるとかしてくれない?」
さっきはナイフがあったんだし、今は眼球に指が刺さりそうなんだよ? つまらない、というよりは拗ねるような口調で私の頬を長い爪が突く。
貴方が楽しいだけでしょ、そんなもの無意味よ。そう呟くのは無意味どころか、マイナスになりそうだったから飲み込んで、訊きたいことも無かったので黙ることにした。
時間にしたら、一分も満たなかっただろう。けれどそれで十分だったらしく、堪え笑いをしながら、誰かは肩を引いて私を反対へ回した。急に動かされて、足が縺れ地面に座る。
そこで見えたのは、腕がむき出しなのに首の隠れた真っ黒な服、赤い首輪、光が当たることでピンクに輝いて見える紫の髪。面白そうに細められた瞳は黒猫のような金色だった。
というか、猫耳がついていた。それもピンクと紫の縞々のやつ。現実にさえいなさそうな目にイタい配色。よく見ると、後ろで同色の細長い尻尾が揺れていた。
……これも、私の想像なら、私は私を疑う。殴りたいくらいには嫌いになれそう。いや、もう絶交しましょうよ。ねぇ、私?
「分かったよ。夢って安心してるんだね?」
「……はぁ? 急になっ」
に。それさえ言えれば言葉になったのに、それは叶わなかった。
一度視界がぶれて、次に見えたのは青空だった。赤い薔薇は見えずに、少し緑の葉が見えて、左に黒い何か。しっかりと見ると、それはピンク色で、風が吹いた拍子に顔の半分くらいそれが覆った。
くすぐったいから逃げようと右に首を曲げた瞬間、左に痛みが走った。足が反射で上がるくらいに痛い。何とかして引き剥がそうと足をばたつかせ、手を動か……せなかった。気づかないうちに掴まれていたらしい。だけど、痛い、痛い痛い!!
首、という位置のせいで恐怖感が増す。頚動脈って、どれくらいの強さで切れるのだろう? 私は死なないか?
「これで現実見れた?」
首元からゆっくりと顔を上げ、ニヤリと笑ったその歯は先のほうが赤くなっていた。反射的に噛まれたであろう場所を押さえる。皮膚が切れただけなのか、大して滑りはない。
気の抜けた拍子に涙が零れたのが分かった。泣くとまで思っていなかったのか、軽薄そうな笑みを消して、明らかに彼が狼狽する。
「……っ」
「あ、え!? ちょ、泣かないでアリス、うん、大丈夫そんな切れてないよ、うん!!」
こっちだって泣きたくて泣いているのではない。初めて会った人の前で泣くだなんて、最悪だ。
だけど、泣いてしまったものは仕方ない……だから、
「ね」
「うん? どうしたのアリス!?」
「しね」
左手で趣味の悪い真っ赤な首輪を掴んで、思い切り引き寄せ、本気で頭突きをした。
自分が痛いとか、怪我をするとかは関係ない。死なないなら、なんだって今はいい。
それくらい、私はムカついていた。