洗い流されるのは、
「あ、アリ、あの、ぼ僕は……ッ!?」
「あーはいはい、足を止めないで頂戴ねー」
動揺しすぎたのか足が止まってしまったハクトを、今度は私が介護するように背中を押して女王のいるところまで連れて行ってもらった。
大きな濃い茶色のドアを開けて、すぐに視界に映る背の低いテーブルには、もうケーキスタンドやティーポットは置かれていなかった。……結構な量があったと思うけれど、全部食べたのかしたら。いや、まさか……。
そんな事を考えながら中に入ると、大きな窓の前のデスクで難しい顔をして紙束に向かっている女王の姿があった。
到底話しかけて良い雰囲気とはいえないその様子を見て、思わず出かけた声と伸ばした手を引っ込める。どうすべきか迷っていると、不意に女王が視線を上げ、私と目が合った。
「おぉ、戻ったかアリス!! 待ちくたびれたぞ、おかげでテーブルのものは食べつくしてしまったし、これで太ったらお前のせい、じゃ、ぞ……? ……なぁ、アリス。お前、少し汚れていないか……?」
瞬間、手にしていたペンと書類を叩きつけるようにして放り捨て、イスを吹き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった女王が、花の咲くような笑顔でこちらへ駆けて来た……が距離が近づくにつれて段々と顔は曇っていき、手を伸ばせば触れられる程度になったあたりでは、完全なしかめっ面に変わった。
「え、えぇ……ちょっと、あは」
遠慮のない表情と視線に苦笑しながら、自分の服を見下ろす。
スカート辺りしか見えないが、いくらハクトが砂を払ってくれたとはいえ、完全に綺麗に放っていないだろう。むしろ、砂や葉がついてかなり汚いままなのかもしれない。それに、寝ていたのだから髪もボサボサに乱れているだろうし。
さすがに、抱きつくのは憚れたのか、僅かに上がった両腕を決まり悪そうに下ろした女王は、私の後ろに立っていたハクトを軽く手で払うと「アリスに着替えの用意を」と凛とした声で告げた。
おぉ、女王様っぽい。なんて感心していると、私に向き直った女王はその雰囲気のままニッコリと微笑み、手招きをした。
その妙な凄みのある笑みに気圧され、恐る恐る近寄ると、捕食でもするかの如く素早く手を掴まれ、ハクトが出て行った方とは反対にあった、淡い水色のドアへと引っ張られた。
「え、ちょ、どうしたんですか」
「お前、ハクトが着替えを持ってきたらそのまま着替える気でいるのか?」
「え?」
思わず敬語になりながら尋ねると、怒りすら感じられる淡々とした声で問われ、声が上ずる。しかし、女王はそれっきり何も言わず、私の手を掴んだままツカツカと早歩きで狭い道(あくまでもこの城にしては、だけれど)を抜けると、片手で部屋の奥にあった磨りガラスの扉を勢い良く開け放った。
途端、白い湯気が視界を埋め尽くす。少し石鹸の匂いのするそれが晴れると、プールのように広い湯船が一面に広がっていた。
あまりの大きさに圧倒され、ヒクリと喉が鳴る。そのまま立ちつく私を横へ引っ張り、脱衣場なのか、カーテンの覆われた方向へ流し目すると有無を言わせず私をそこへ押し込んだ。
「私は優しいからな、少し城を汚した程度でお前の首を刎ねる様なことはしない。それに、少し汚れていてもお前のことは大好きじゃよアリス。だが――――好きなものには綺麗でいてもらいたいだろう?」
あらかじめ考えていたかのようにつっかえることなく紡がれた台詞を“汚いから風呂に入って来い”に翻訳しながら、カーテンの奥を改めて見る。湿気が多い場所であろうそこは、カビどころか水滴すらなく乾いていて、そのまま部屋として使えるような清潔感が漂っていた。
服を置くためにあるであろう棚も、細かい装飾が施されていて、やはりこんなところで使うようなものには見えない。
売ったらいくらになるのだろう、と下賎なことを考えながら服を脱ぎ、置かれていた真っ白なタオルと一枚掴むと、カーテンを捲り浴場へと向かう。
「やっと来たか」
「―――――はい?」
石でできているであろう床がわずかに暖かいことに驚きながらペタペタと足音を響かせていると、奥から声をかけられ頭が真っ白になった。
「遅いぞ。湯気だけで逆上せるかと思ったわ」
ゆらりと湯煙の中から現れたのは、スポンジと洗剤と両手に構えた女王様で、その姿は豪奢なドレスからシンプルなワンピースのようなものへ着替えられていた。装飾品も外していて、リボンで結ばれた髪も相まって更に子供らしさが――――じゃなくて、なんで此処にいらっしゃるんですか女王様。
「言ったろう。“好きなものには綺麗でいてもらいたい”と」
「いや、それってお風呂に入って来いって意味では」
「でも、それは私の勝手な考えで、それをお前に押し付けるのはよくないと思わないか?」
私の思考を読んだような台詞が、僅かに的を射ていないことにどう突っ込もうか考えつつ、視界の晴れてきた先に、様々なバス用品が広がっているのを見て思わず後ずさった。
いつの間に閉められていたのか、ヒヤリとした感触が肩に触れ、逃げられないことを悟る。
ヒタリと静かな足音を立て、暗いわけでもないのにホラーな雰囲気を漂わせた女王が顔を上げ私を覗き込みようにして、微笑んだ。
「だから、私がお前を綺麗にしようと思う」
断るという選択肢はありますか。
その声は、容赦なく顔にかけられたお湯によって遮られた。
「痛くないか?」
「……イエ、大丈夫デス」
自分よりもはるかに年下の少女に入浴を手伝われる……というよりか、ほとんどを任せるという屈辱的な経験に、一時的に感情を麻痺させながら、申し訳程度の返答のみで髪を乾かすところまでに来てしまった。
映画でしか見たことのないバスローブに包まれながら、呆けたようにクッションの柔らかいイスに座り、『好きなものには綺麗でいてもらいたいだろう』という台詞を思い出す。
あれは、“物”か”者”かどっちだったのかしら。
「うむ。なかなか綺麗になったじゃないか。なぁ?」
「えぇ……なんていうか、これで仮面でも被ったら誰か判らなくなりそうな程度に」
「何を言っておる。その程度でアリスの判別がつかなくなるわけなかろう」
皮肉で言った言葉に、心の底から不思議そうな声で返され、今まで以上に苦笑いを浮かべた。まだ何かしたりないのか、それとも何かをするつもりなのか、柔らかいブラシで髪を梳きながら、一拍呼吸を置いて女王が口を開いた。
「昔な、お前にやってもらったんだよ」
さっきまでの満足げな声ではなく、しっとりと落ちついた声で言われ、気付かないうちに閉じていた目を開ける。当然、背後にいる彼女の姿は見えない。それなのに、慈しむように目を細めて寂しそうに笑う顔が滲むように浮かび上がった。
「だから、私もお前にしてやりたかった」
珍しく、何を言おうか悩まなかった。何も言わないことが、今回は最善だとすぐに判断が出来たのだ。
そこから重々しくも気まずくもない沈黙がしばらく続き、試行錯誤された髪型は結局後ろで一纏めにするのことに落ち着いたらしく、飾りであろうリボンを調えているとき、小さく女王が呟いた。
「私は……の女王なんかではない。ただの――――……でも、お前は……を、大切にしてくれた」
泣きそうなのか既に泣いているのか、所々掠れて聞き取れなかったけれど、納得するような言い聞かせるような独り言を最後に、私に触れていた手が離れた。
「アリスっ」
急に肩を引かれ、抵抗も出来ずに後ろへ倒れる。女王の腹の辺りに頭部を押し付けることで安定した身体を更に固定するために顔を上げると、年相応に無邪気な笑みを浮かべた女王と目が合った。
無意識にイスの縁を掴んでいた手の力が抜けそうになるくらい、混じりけのなく美しい煌くような笑顔。不意打ち過ぎた笑みに呆ける私を愉快そうに見つめながら、女王が小さな手で私の頬を挟んで、言った。
「おかえり」
言葉が喉でつっかえて、息が詰まる。浮かび上がるような体温の上昇とじわじわと目尻に溜まるように溢れる涙のせいで、世界がより現実味を失って映る。
どうしようもなく情けない表情を浮かべている私が硝子玉のように透き通った瞳の奥に見えるほど顔を寄せて、女王が私の頬を捏ねる。顔を上げているせいで涙が喉に流れ込みでもしたのか、異物感を覚えつつ、息を吸い込む。
私が落ち着いたのを見計らって開放された頬を動かし、今出来る限りの力で笑みをつくり上げ、声が震えないようにお腹に力を入れて声を張る。
「――――ただいま帰りました」
瞬間勢いよく首元に抱きつかれ、違う意味で涙を浮かべつつ、さっき感じた痒くなるような高揚の正体の一部が“照れ”であることに気付いて、更に顔が赤くなるのを感じた。
「顔が薔薇みたいに真っ赤だぞ、アリス」
「……さっき女王に散々頬を捏ねられましたからね」
そのまま折角整えた髪が崩れるのも気にせず、体重をかけて乗り上げてくる女王を支えながら、久しぶりに口にしたその言葉を、口内で転がし続けた。
……ちなみに。
空気を読んだのか、出入りを禁止されていたのか、ハクトは書斎の中にすら入らず扉の前でひたすら立っていたらしい。
入浴と恥ずかしさと部屋の空調と……といろいろな理由で温かくなっていた私の前に現れたハクトは、いくつか年を取ったように悟った笑みを浮かべていた。