逃げる先には。
「ん……?」
さっと髪を後ろへ払っていった風が、前よりも少し冷たい。
周りは相変わらず明るいけれど、日が落ちてきたのかもしれない。ということは、この世界にも“一日”が存在するのかしら……良かったわ。日が昇ってる間に寝るなんて違和感あるもの。まぁ、時間の流れる速さが同じとは限らないんだけど。
見上げればもう葉の傘はなくて、多すぎず少なすぎない雲が散りばめられた、癪に障るくらい青い空が目に入った。それでも太陽が見つけられないから、時間を察することが出来ない。
うん、やっぱり気になるわ。何時なのかしら。
「おい」
前よりも刺々しい不機嫌な声が、私を呼んだ。気付かないうちに、イモムシを無視する形で周りを見回していたらしい。慌てて視線を彼へと戻すと、静かな怒りを湛えた目が私を射抜いた。
「ごめんなさい。貴方……私のこと知らないのね?」
「どういう意味だ、お前は有名人か何かだったのか?」
言いながら考えていたら、イモムシの言葉でやっと整理ができた。そうよ、私を知らない人だって、いるに決まっているじゃない。
だけど、イモムシは自分の記憶と格闘しだしたのか、難しそうな顔をして黙り込んでしまった。別に私を知らないことに問題はなかったんだけど、私の言い方が悪かったせいで悩ませる羽目になってしまったようだ。
あっ、ていうかもしかしなくてもこの人は私のプライバシーを侵害しない人なんじゃない!!? 良かったわ、この人が心読めたら厄介そうだもの。
「いや、今まで会った人は皆私のことを知っていて……それに私の夢だから尚のこと……貴方も私を知ってると思ってたのよ。ごめんなさい、私は有名人じゃないから、知らなくて当然よ」
少し早口になってしまったけれど、誤解を時のは早いほうが良いだろう。案の定、私が言い切るころには、イモムシの眉間のしわは消えて、少し柔らかくなった瞳に私が映った。
そして、少し首をかしげてイモムシは口を開いた。
「有名人じゃないのに、一方的に知られてるような人間なのか? 変な話じゃないか、自分を知っている人間をお前が把握していないだなんて」
痛いところを突かれた。というか、よくそこに気づいたと思う。私なら笑って流してしまって、それでお終いだっただろうに。
そこに感心してこぼれた笑みが誤解を受けたらしく、少し眉を顰められた。バカにされたと感じたのか、彼の疑問に対して笑みを浮かべたように見えて気味悪がられたのか――――まぁ、良い表情でないことは確かだ。
誤解を生めば生むほど、邪推するタチのようだから、早めに訂正しなければ。そんな思いが脳裏をよぎった。まだ会って間もないのに、おかしな話ね。
イモムシの考えやら何やらを断ち切るように、ゆるく頭を振れば、イモムシの目が私を捉える。
「私ね、ここの記憶がないのよ。でも、ハクトが私とゲームをする約束をしていたからって、ここに攫……連れて来てくれたみたいでね? 何か思い出すかもしれないから、みんなに会いに行こうって」
「あぁ、白ウサギか。でも、お前を見つけたときにいなかったじゃないか。置いて消えるような奴だと思ってなかったが……」
私の言葉を聞いてから、更に首を捻っていたイモムシが、ようやく合点がいったように頷いてから、更に疑問を口にした。どうやらハクト=白ウサギ、は常識ではなかったようだ。
「いや、違うのよ。お城の庭を出た瞬間にチェ」
そこまで言って口を噤む。いけない、チェシャの名前を出さないようにしていたのに!
そんな事を思っても遅く、何ともいえない奇妙な表情をしてイモムシが「チェシャ猫か」と搾り出すように呟く。……バレたなら仕方ないわね。
「そう、チェシャに捕まって、そのときにはもうハクトは、」
「いなかったんだろ。それは仕方ないな。あいつが現れたんだから」
私の言葉に被せるようにしてイモムシが続けた。相変わらず嫌そうな顔をして、吐き捨てるように。
……なんだか私が嫌われているような気分になってくるわ。なんで此処までチェシャは嫌われたのかしら、本当に何したのよ。
それにしても今のって“チェシャが現れたらハクトがいなくなっていても仕方がない”ってことよね。……あっ、チェシャったらハクトにまで嫌われてるのかしら。ハクトが私を置いて行くほどに。あぁ、それはそれでムカつくわね。
「何を考えてるか知らんが、たぶん違うぞ。そういうものなんだ、気にするな」
「そうなの? まぁ、夢だから仕方ないわね」
「仕方ない?」
少し焦り気味なイモムシに、そう笑って返した瞬間、空気が凍りついた。細かく言うなら、イモムシが空気を凍らせ、私はその空気に凍りついた。そんな感じだった。
今までの、怒気を孕んだ刺々しい目や呆れを含んだ冷たい目とも違う。警戒心からくる凝視と、気味の悪いものを見たような、嫌悪感が込められた目が、ひたすら私だけを映す。
「……思い込みだけなら聞き流そうかと思ったが、自覚しても考えないのは見逃せないな。受け入れる、にも限度がある。ましてや、お前のは――――」
そこで一度視線を逸らし、怒気が加算された瞳で私を睨みつけた。
突然向けられた、感情に心臓が凍りに包まれたような錯覚に陥る。嫌悪感が急速に私の周りの酸素を奪って、震えることすら許されないような、恐怖感が駆け巡った。
「お前、白ウサギに連れてこられたって言ったな? どういう風に此処に来た?」
ゴトリ、ゴトリと言葉が落ちていく幻覚が見えるような、硬い声が私に投げかけられる。答えなければ、その言葉が私を押し潰してしまうような気がして、思考することもままならないまま、声を絞り出した。
「学校の屋上から、飛び降り、て、気付いたらここに」
「そんな展開を全て受け入れて、夢だと信じているのか、お前は」
しどろもどろに紡いだ言葉に、容赦のない声が切り裂くように浴びせられる。どうして、こんなことになったのだろう。でも、そんなことよりも早く、答えなければ。
「当たり、前でしょう……夢じゃなきゃ、有り得ないわ」
「違う、夢だからおかしいんだ。なんで夢なのにお前の知らないことがある。予想外のことが起きる?」
畳み掛けるような口調で、イモムシが私を追い詰めていく。元々働いていない思考回路が徐々に白んで消えていくような気がして、自分が消えてしまうような気がして、恐怖に突き動かされるままに口を動かす。
「夢だから、でしょ? 夢は、思い通りに行く、もの……なの?」
「お前、さっき“私の夢だから”って言ったぞ。思い通りに行く、とまでは行かなくても、自分の考えの中で動くと思っていたんじゃないのか」
考えもしなかった、自分の無意識に踏み込まれ、言葉に詰まる。そんな事も聞かれても、今更分かるわけがない。
これ以上の追求は無意味だと感じたのか、ため息をつくと、イモムシは口調を少し和らげて、別の問いを投げかけた。
「まぁ、いい。お前は此処に連れてこられたんだろう? 帰りたいとは思わないのか?」
「――――あ」
ズキリ、と鈍く重い痛みが脳に響く。
ページを捲るかのような勢いで、記憶が城にいた頃へと遡り、思い出す。
『帰らなきゃ』
ハクトの澄んだ赤い瞳に映った自分を。血の海に浸かったように真っ赤な私が、映っていたあの瞳を。悲しいくらいに、私以外を映さなかったあの瞳を。唯一私の「帰りたい」という意思を持った言葉を聞きながらも、決してそのことに触れなかった、あの人を。
それ以来、“帰る意志”を失念していた私を。
口元を押さえて俯いた私の様子から察したのか、嘲るような声が私の頭上へ降り注がれる。
「あぁ、そもそも帰りたいとも思わなかったのか? ……随分と、順応性の高い子供なんだな」
「違、うわ。帰る、のよ、だって、ほら、ね、ねぇ」
うわ言のように、喘ぎながら、壊れた操り人形のようにぎこちない、いっそ笑を誘うような私を見て、二度目。イモムシがついたため息は深く長く、その呼吸音が、束の間の奇妙な静寂を埋め尽くしていった。
息を吐くのと同時に閉じられていた目が、再び私を映したとき、絶望の二文字がエラーを起こしたように脳裏に溢れた。
「もういい。……あぁ、そうだ。もう一度だけ聞こう」
息苦しさも冷たさも恐怖も、何も感じない。切れ間のなくなってきた頭痛だけが、私の意識を侵食して、思考を塞いでいく。まるで、人形になった気分だ。自分の中の空虚に気付いても、空しさを感じられない。
「お前は、誰だ?」
「――――――――ッッ」
頭痛の切れ間が消え、痛みとして認識が出来なくなった途端、視界と思考が澄み渡るように鮮度を増して、脳に響く。
目の前にいないはずのイモムシの顔が、瞳がはっきりと映って、その深緑のなかに、人影が佇んでいるのが見えた。
勿論、彼の目の前には私しかいないのだから、その人影は私であるはずなのに、その人影は私ではなかった。私だと認めることを脳が拒んだ。そんなこと、あるはずがないのに。
『お前なんて、どこにも居ないんだよ』
何かが、砕けて、崩れる音が、僅かに残った感情に焼きついた。