第51話:選ぶべき道
今になって思えば、きっとこの時が一番平穏な日々だったのだろう。
いつも宿に食事をしにくるお客さんの相手をし、自分の雇い主である中年の女性に料理を教わり、共に働いている少し年上の少女とはことあるごとに喧嘩する毎日。変化なんて、そうあるわけでもない。同じ事が繰り返される日々。それでもそんな代わりばえしないいつもが楽しかった。
辛い事なんて全然なく、普段は怠けてばかりいるだらしない主に呆れながらも、ちゃんと働きにでかけるのを見送り、帰りを待つ。帰ってきたら頑張って作った料理を食べてもらって、失敗したところも自分に気づかれないようにおいしそうに食べてくれる。そして後になってそれに気がつき、自分は謝るのだ。
日が沈んで夜になり、もう眠りにつくかというところで別々のベッドに入る。彼が寝ている間に気づかれないようこっそり同じベッドに潜り込み、安心しながら心地よい眠りにつく。そしてまた、新しい朝が始まる。
こんな生活がずっと、いつまでも続いてほしいと……幼い故に彼女はそう願い続けていた。
だからこそ、今になって後悔する。あの時の自分は本当に子供で、彼がその胸の内に秘めた暗闇の深さも、復讐に賭ける執念のことも自分は正しい意味で理解できていなかったのだと……。
もし、あの時自分が大人だったらという考えは何度もした。後悔してもしきれない。時は戻らない。手の届かない過去への思いを胸に抱きながら、少女は歩き続ける。
その隣に、かつて存在した青年の姿はもう……なかった。
ジャンの端にある小さな町、倭東からアルとフィードが戻ってから一週間が過ぎようとしていた。久方ぶりに戻ってきたセントールの下町。そこは、というより正確にはセントール全体はここ数日ある話題で持ち切りだった。
アルたちがこの下町の宿に戻ってすぐ、グリンによって知らされた話がそれであった。
フラムの騎士、リオーネ。凶刃の前に倒れる。
かつて、このセントールの下町を訪れたフラム騎士団の副隊長でもあり、今では下町で何でも屋を営んでいるフィードのパートナーとして昔は世界を巡り、彼の復讐を手助けをしていた女性。
一時期はすれ違いにより、かつてのパートナーであるフィードを激しく憎んでいた彼女だったが、この下町で起こった十二支徒との対決の際、彼の心情についての真実を教えられ、紆余曲折の末に以前のようにとはいかずともそれに近いほどまで彼との仲を戻した。
おそらくは、現在彼が最も気にかける人間の一人で、もっとも愛した女性。
そんな彼女の凶報をこの町へ帰ってきて早々聞かされた二人。ここしばらく、人の死を多く見続けたアルは今回の話を聞いてその場に倒れそうになった。
この下町で、自分によくしてくれた心優しい大人の女性。こんな人になりたいと思わせる魅力を持っていた彼女。誰からも好かれ、日の当たる場所にいる彼女が何故危険な目に遭わなければならないのか。そう思わずにはいられない。
思わず、隣に立つ己の主はどんな反応をしているのだろうとそっと様子を伺う。自分と同じように、彼女の心配をしているのだろうかと思って彼の顔を見た。
しかし、アルの予想に反してフィードはあまり驚いた様子はなかった。それどころか、納得がいかないように手を口元に当て訝しんでいる。倭東にいた時から思っていた事だったが、やはり今の彼はどこかおかしいとアルは内心思っていた。
そんな風に思っていると、フィードは唐突に宿から借りている自室へと駆け上がり、何やら身支度を始めた。
「マスター? 何をしているんですか」
そう問いかけるアルにフィードは簡潔に答えを述べる。
「ああ。こっちに戻ってきたばかりだけれど、今からフラムへ向かおうと思っているんだ」
その返事に驚きながらも、アルはどこか安心した。やはりフィードもリオーネの事が心配なのだと。だが、次に彼が発した言葉によってその考えは否定される。
「リーネの強さについては俺もよく知っている。あいつはそんな簡単にやられるようなやつじゃない。もし噂が事実なら相手が余程の実力者だったか、何かそんなことになってしまう理由があったかだ。例えば人質を取られながらの戦いとか……な。
後者はどちらかといえば現実的だが、その程度で倒されるような奴じゃないと思っている。そうなると、相手が格上だった場合の線が濃厚だ。もしかしたら十二支徒と接触したのかもしれない……」
十二支徒という単語を聞いてアルの気持ちが重く、暗いものとなる。今のフィードにとって最優先されるべきは彼の存在であり、リオーネの心配は二の次だということがわかってしまう。
(マスターは変わってしまいました。一見すると全然変わってないように見えますけど、少し前と違って今は十二支徒の事ばかりです。今マスターと話していると、周りの人のことなんてどうでもいいように思ってるんじゃないかって感じてしまいます。
でも、もしかしたらこれが元々のマスターだったのかもしれないんですよね。私と出会う前、リオーネさんと旅をしていた頃の……)
今のフィードは最初に出会って、共にこの下町で過ごしてきた彼とはだいぶ変わってきてしまっている。それは、友の死や大切な人との別れ、仇敵との出会いがその変化を起こしているのだとアルにも理解できていた。
この先、フィードがどうなっていくのかはアルには予想できない。でも、たとえ彼がどんな人間になったとしても自分は傍に居続けると決めたのだ。そう……彼がリオーネとの過去を話してくれたその夜に。
だから、今からフィードがフラムへと向かうのならばそれに付いて行こうと決めていた。しかし、その考えの通りにはいかなかった。
「アル。お前は今回ここで待っていてくれ」
「えっ?」
予想もしなかったフィードの言葉に思わずアルは言葉を失う。
「ど、どうしてですか、マスター!?」
咄嗟に声を上げて尋ねるアル。そんな彼女にフィードは優しく答える。
「今回の長旅で疲れてるだろうし、もし何もなかったらすぐに帰ってくると思う。それに、アルもちょっと考えたい事があるんじゃないか?」
それはここ最近のフィードの異常性に関する事を言っているのだとアルは気がついた。彼も自身の変わりように付いてはある程度は気がついているのだろう。だが、気がついたからといってどうにかなるものでもないという事も理解しているのだ。
「そ、それは……」
それは違うと、フィードがたとえどう変わろうとも自分は傍にいると伝えようとするが、何故か上手く言葉が出てこない。口ごもって、下を俯く事しかできなかった。
そんな彼女を見て、フィードは寂しげな顔をして苦笑する。
「いいんだよ。もうアルは誰かに縛られるような生き方をしなくてもいいんだ。無理に俺の傍にいる必要もない。昔はともかく、今はグリンさんやイオもいる。ここで一人で生きて行く事だってできるんだ。
だから、俺が戻ってくるまでにこれからどうするかをちょっと考えていて欲しいんだ。何も好き好んで血の飛び交う場所に付いてくる必要はない」
出立の準備ができたのか、フィードは荷物をまとめて部屋を出て行く。去り際、アルの頭にポンと手を一度乗せ、その横を通り過ぎて行く。
そんな彼の背を追うことができず、アルはそのままその場に座り込んだ。
正直なところ、これから先だなんてそんなことを考えたことはなかった。ただ、ずっと今みたいにフィードと一緒にいる生活が続くものだとばかり思っていた。
だが、そうではなかった。時間は流れ、人は変わって行く。アルが奴隷の烙印を消してもらい、一般人となったように、フィードもまた優しい何でも屋から復讐者へと戻ろうとしている。
自分には力がない。彼を支える事も、手を貸す事もできない。それを改めて実感して、アルは思う。
(私は……本当にマスターの傍にいる資格があるのでしょうか)
ついさっきまでの決意はもろくも崩れ去ろうとしており、自分の決意という物がいかに脆弱なものであったかを実感させられた。
答えの出ぬまま時間は過ぎ、下の食事場で待つグリンとイオの元へ向かった時にはフィードは既にフラムに向けて旅立った後だった。