第1話:始まりの回想
始まりはそう、シンと静まり返った夜の事だった。
冷たく、人気のない地下牢に閉じ込められてもう何時間が経ったのだろう。一度も人が来ていないから、一体今が朝なのか昼なのかもわからない。
空腹のせいか、先程から何度もお腹がなっている。そもそも、今こんな風になってしまった原因は、元を辿ればこの空腹に耐えきれなかったせいだ。
母がなくなり、母の叔母だという人に引き取られて以降、毎日のように嫌がらせを受けた。何かあれば八つ当たりをされ、ご飯を抜かれるなんて当たり前。こちらは世話をしてやっているんだからなどと都合のいい理由をつけられ、理不尽な暴力に必死に耐えた。
でも、そんな生活に我慢するのも限界で、魔が差してしまった私は空腹に耐え切れず露店に置いてあった果物を盗ってしまった。
暗闇に慣れた目で左肩を見ると、そこには奴隷の証である烙印の紋章がくっきりと刻まれていた。簡易魔法で刻まれた契約の証、人以下である存在の紋章が。
罪を犯し、捕らえられた自分を叔母は喜んで引き渡した。そうして、奴隷として売りに出された私はその容姿の珍しさから、あっさりと富裕層の人間に買われる事になった。
案の定というべきか、私の容姿が珍しいのを他の富裕層に自慢したいのか、私を買った少し小太りな男は私の首に繋がれた鎖を引いて私を引き連れ回した。周りの人々は私を見るなり、
「ほう、これは珍しい。一体どこで手に入れたので?」
「いやいや、立派な買い物をなさりましたね。この者はいくらでなら譲っていただけますかな?」
「あなたもまた変わった趣味をしていらっしゃる。見たところまだ十かそこらの少女ではありませんか。そのような趣味をしていらっしゃるとは知りませんでしたな」
などと、私をじろじろと見つめ、奇異なものを見るかのように接した。その中には一つも好印象なものは見られない。けれど、私は自分の容姿に誇りを持っていた。死んだ母が私に唯一残してくれたのがこの容姿だったからだ。だからこそ、たとえ人とは違っても、その事を卑下したことは一度もなかった。
なのに、目の前にいるこの人たちは私の誇りをいとも簡単に汚してしまう。だから、私はこの誇りをこれ以上貶められたくなくて、彼らに向かって反抗の意思を示した。首に繋がった鎖を持つ男めがけて力強く体当たりをしたのだ。
しかし、結果は惨敗。男はよろめいただけで、自分に向かって反抗的な態度を取った私に、正確には私の烙印に命じて私を地に這いつくばらせた。
「この、奴隷風情が。そんなナリでも買ってやったというのに、この私に楯突くなんて……。せっかく話の種ができたと思ったが、こんな反抗的な奴隷では仕方ない。すぐにでも売りに出すとしよう。
おい! 誰かこいつを地下牢に閉じ込めておけ。明日には市の売りに出すから傷はつけるなよ!」
そう言って男に付き従っている数名が私を捕らえて地下牢に閉じ込めた。 その後、今に至るまで地下牢の扉が再び開く事はなかった。
男の話を聞いた限りでは、私はまた売りに出されるらしい。またあの壇上に上がらされて、私を買うであろう人々の奇異なものを見る視線に晒されるかと思うと気が沈んで仕方がなかった。
せめて、次に買う人はもう少しまともな人であってほしい。そんなことを考えて身体を丸めて顔を伏せたときだった。
遠くから重い地下へと続く扉が開く音が聞こえ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりが、部屋の奥にある階段の上に見えた。もしかして、いつの間にか朝になっていたのだろうか?
コツ、コツと石段を歩く足音が周りに反響する。しばらくして灯りと共に一人の青年が現れた。
「あれ? こんなとこに女の子が閉じ込められてるなんて聞いてないぞ」
彼は僅かな明かりによって照らされた私の姿をじっと見つめた。こいつも他の人間と同じか。みんな私のことをじろじろモノみたいに見て、何が楽しいんだろう? そんな風に卑屈な気持ちで私がいると彼は私が予想もしていなかった言葉を投げかけた。
「なあ、お前ここから出たいか?」
一瞬彼が何を言っているのかが分からず、私はキョトンとした。
「べつに俺はどっちでもいい。まあ、出たかったら面倒見てやるから早く出ろ。もし、余計なおせっかいだって思って出たくないならそのままここにいても構わない」
一体何を言っているんだろう? 私はこの男の言ってる事が理解できなかった。色んな人に冷たく扱われ、他人とは違う容姿というだけで珍物扱いされていた私は卑屈な気持ちのまま男に向かって投げやりに答えた。
「ここを出たとしても、どうせ殺されます。だったら私はここに残っています。だって……どこに行っても同じですから」
「ふ〜ん。だったら、ここを出ても安全って言ったらどうする? お前は好きにしていいって言われたらどうする?」
「それは……」
問いかけられて私は答えに困った。今まで言われた事をやるだけの生活だったから、自分でどうすればいいかだなんてことは考えた事がなかったからだ。
でも、ここから出て自由になったとして一体自分はなにがしたいのだろう? 結局は変わらずに嫌な視線を向けられるのがオチじゃないのか? それならば、どこか遠く、自分が安心して過ごせるような場所に行ってみたい。
「どこか、遠く。私がいても変に思われない場所に行ってみたい」
そう男に伝えた瞬間。目の前にあった鉄格子の扉が強引にこじ開けられた。
「そっか。じゃあ、俺と行こうか」
鉄格子を無理やりこじ開けた男の馬鹿力に驚く間もなく、手を引かれ、勢いよく階段を駆け上る。灯りのある場所に上がると、鉄格子を壊した音が地下から上に漏れていたのか、騒ぎに気づいた人々の走り回る足音が少し遠くから聞こえた。
「マズっ! ちょっと派手にやりすぎたなあ」
マズいといいながらちっとも不安そうな表情を見せない男を不思議に思いながら見上げていると、私の視線に気がついた男は、優しい笑顔を見せて私の不安を取り去ろうとした。
「なんだ、心配か? 安心しろって、俺がなんとかしてやるから」
「べつに不安に思っていません! 言いがかりはよしてください」
私の反論が可笑しいのか、男は私の頭を軽く叩いた。明るい場所に出て私の容姿ははっきり見えるようになっているのに男は何も言わなかった。
「あ、あの。なんで何も言わないんですか。その……」
灯りに照らされてはっきりと見える白髪に赤眼。これこそが私が奴隷として小太りな男に買われた理由だった。
「いや、べつに姿なんて人それぞれだろ? 多少驚いたけど、それくらいで変に思う要素はないしな」
「そ、そうなんですか……」
今まで出会った事のある人とはまったく違う反応に私は戸惑ってしまう。
「ああ。そんなんで驚いているようなら俺の秘密なんてもっとすごいぞ。聞いて驚け。実は俺はな……不老なんだ」
それを聞いて私はこの男は頭がおかしいのだと思う事にした。突然現れ、勝手に助けて、私が今まで散々蔑まれて奇異の視線に晒されてきたこの容姿についても何も言わない。挙げ句の果てには自分は不老だという。これをおかしいと思わないでどう思えばいいのだろう。
「ま、普通は信じねーわな。――っと、そろそろ向こうも来るな。俺からあんまり離れないようにして付いてこいよ」
そう言って男は私の前に出た。私はこの時そのままここに残るという選択肢もまだ残っていたのに、気づけばいつの間にか男の背を追っていた。
これが、私と旅人フィードの最初の出逢いだった。