4・マレビトの村
月明かりで生み出された影からは道を指示する声が伝わってくる。その声に導かれて理久は夜の街をひた走った。
「……そろそろ薬の効果が切れる。路地裏に隠れろ」
「わかった」
目についた路地裏に逃げ込むのとタイムリミットが訪れるのはほぼ同時だった。体が内側から押し広げられるような感覚が全身を駆け巡る。それが治まると自身の脚が目に入った。太股には子供の頃派手に転んでできた傷跡がある。正真正銘自分の脚だと思った。一つ疑問をあげるとすれば、理久は脚を出す趣味はない。制服だってスラックスを愛用しているほどだ。
おかしいと思って視線を動かす。肉づきの薄い腹に盲腸の手術痕。さらに視線をずらせば女性用下着いらずの平たい胸。どうやら服は牢獄においてきてしまったらしい。
「さむ……」
少なくとも夏ではないらしい。肌を撫でる風は冷気を帯びていた。どうしたものかと考えていると影が揺らめいて獣が現れた。毛がこれでもかと逆立っている。
「お、おまっ……なっ……おちっ……!」
多分だが『お前なんで落ちついているんだ』と言いたいのだろう。自分でもそれは疑問だが、とりあえずは衣服の調達を優先した。
「それ貸してくれ。処刑をまぬがれても凍死したら同じだ」
獣が羽織っていた外套を軽く引っ張る。が、動かない。まさか外套を脱いだらまずい事情でもあるのかと思ったが、それにしても少々様子がおかしい。良く見れば硬直したままだった。よほど衝撃だったらしい。
仕方が無いので問答無用で引き剥がす。留め金がはじけ飛んだが工夫すればどうにかなるだろう。とりあえず羽織って一息つくと、そこでようやく獣が現実に戻ってきた。
「お、まえ……何で平然としてるんだよ!」
「事故で裸を見られたくらいで攻撃するほど純情じゃない。もちろん、故意なら使い物にならなくする程度の報復はする。それよりも声がでかい」
驚いたのは声が大きいという指摘か別のものか、とにかく獣は再び毛を逆立てた。あえて気付かないふりをして理久はそのまま話を進めようと獣の側にあった樽に腰かけた。
「で、何で私を助けた。まずはそこから教えてくれ」
「あ、ああ……」
獣は理久から目をそらし、気まずそうに毛並みを整える。ますます猫のようだ。
「まだ目的地は先なんだ。歩きながらになるぞ」
獣はそう言って先導するように歩き始めた。
獣の名はディルレインというらしい。占い師をやっている姉に『王宮の牢獄にとらわれている、黒を持つ者を助け出してこい』と命令されたのだという(依頼されたとは言わなかった)
「よし、このあたりでいいか」
かなりの距離を歩いていたため、時間もかなり経過しており、空には雲が増えてきた。雨が降るのだろうか。理久はこめかみにはりついた髪をかきあげながらそんな事を思う。
すでに城下町を出たらしい。裏道らしき細い路地ばかり通っていたこともあって、どのくらい城から距離を取れたのかは理久には判断できないが。
歩く道は舗装されておらず、土がむき出しになっている。ディルレインは少しの間空を眺めていたが、やがて納得したようにうなずいて道端に落ちていた枯れ枝を拾った。
「ちょっとそこどけ」
そう言って理久を押しのけると、枯れ枝で何やら書き込み始めた。まずは巨大な円。さらに同心円をいくつか。円と円の間に複雑な紋様。その紋様の中にあの暗い部屋の床に刻まれたものもまじっているように見える。
「なにかの準備か」
「ああ……えーと、これで不備は、ないはずなんだがっと」
空が薄明るくなっていく。太陽は見えないが、夜は明けていたらしい。空気はさらに湿度を増している。降り出すのも時間の問題だろう。
ディルレインは地面に書いた円を細かく検分して、やがて不備が無いことを確認すると手に持った枯れ枝を細かく折って円の中に放り込む。そしてみずからの指にナイフを滑らせ、円の中に血を落とした。
「あとはあんたの血だな、手、よこせ」
理久は差し出された手の上に自分の手を預ける。一瞬、小さく焼けつくような痛み。滲みだした血をディルレインにならって円の中に落とす。
その途端、エンジンが鈍い輝きを放ち始めた。
「行くぞ」
手をひかれて円の中に立つ。輝きは鈍いものから暗いものへと変化していた。やがて輝きが円をドーム状に包み……
「歯ぁくいしばれ。舌噛むぞ」
その言葉とほぼ同時に。
強く圧縮されるような感覚に包まれる。頬に当たる雨粒よりもさらに小さいものへと押し込められていくような苦痛。耐えるべくきつく目を閉じた。
◆
頬に再び雨粒が当たった。抑え込むような苦痛もいつの間にか消えている。
目を開かなくてもわかる。さっきまでいた場所から遠く離れたどこかだ。雨を抱いた風が緑の香を運ぶ。耳に触れる葉ずれの音が『ここは森の中だ』と主張している。
「着いた。ここまでくれば安全……」
ディルレインの声が途中で止まった。不思議に思って目を開いてみる。
そして最初に目に入ったのは、飛んできた水晶玉を顔面で受け止めるディルレインの姿だった。
水晶玉はそのまま地面に落ちて転がっていく。それを拾い上げる手を見て、理久は視線を上にあげた。
美人と言うわけではない。髪は銀ではなく灰色。骨ばっている手指を見る限り、華奢と言うよりは痩せすぎと言った方がいいかもしれない。緑青の瞳は少々きつすぎる感がある。
だが、そういった欠点を持ってなお不思議な存在感を放つ女性だった。
「遅い! 人ひとり拉致してくるだけの簡単な仕事に何でこんなに時間がかかるの!」
そして、強烈な個性の持ち主でもあるようだった。どうやら水晶玉を投げた犯人は彼女らしい。唖然として見ていると、理久の視線を感じたのか女性は大げさに咳払いして急に姿勢を正す。さらにどこか物憂げな雰囲気をこれ見よがしにまとってみせた。
「ようこそ、黒を持つ者よ。私は隠れ里の占い師クラウディア。隠れ里はあなたを歓迎するわ」
「今更遅ぇよ、姉貴」
呻くディルレインの鼻面に、今度はクラウディアの裏拳が飛んだ。
どうやらこの姉弟の関係はきわめてはっきりしているだった。