3・逃亡者
正確な時間の流れはわからない。牢獄はいつも薄暗く、理久がいる独房は光源といえば鉄格子の無効にある火立てから来る光くらいのもの。今は昼なのか夜なのか。あれから何日たったのか。
「確か食事が出たのが三回だから……いや」
ここは法に護られた現代日本の刑務所ではない。最低限の健康すら無視されて当然の牢獄だ。
気配を感じて体を起こす。どうやら刑務官が食事を持ってきたらしい。四度目の食事……最低でも四日か。
命をつなぐ、本当に最低限の食事。干からびたパンはカビが生えていないことだけが救いだ。スープはぬるい塩水同然。そんな食事でも一応は支給される。あくまで公開処刑までは生かすつもりらしい。
舌を噛んで死んでやろうかとも思ったが、そもそもあれはフィクションでしか通用しない自殺方法だ。実際の成功率はとんでもなく低い。
(しかし、公開処刑ってどこでやるんだ……)
「おい」
(そもそも黒髪で殺されるってどこの魔女狩りだよ)
「おい!」
(あー、幻聴まで聞こえてきた。やっぱ精神的にキてるんかな)
「おい、そこの目つき悪い黒髪!」
幻聴とともに理久の影が揺らめき、眼の前に黒い幻影が盛り上がる。やがて幻影はその輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。
「……二足、歩行?」
「突っ込むのはまずそこかよ」
二足歩行の獣。そう表現するのがぴったりだった。
火立ての明かりでは暗すぎるため、容姿はわからない。輪郭にあたる部分が金色に輝いているあたり、金茶とかそのあたりの毛並みなのだろう。
「ったく、姉貴の命令で来てみれば……ナニか? 姉貴は俺をゲイに仕立て上げるつもりか?」
ぶつぶつとつぶやく獣は膝をついて理久の顔をうかがう。ゲイと言うところをみると、どうやら男に間違われているようだ。本来なら憤慨すべき場面だが、理久は自身が男に間違われることに慣れ過ぎている。さらに背中を切られた時の傷が膿んでおり、そこからの熱にやられて意識はもうろうとしていた。
「おい。……えーと、名前は?」
「り、く」
「リックか。」
獣は納得したようにうなずく。違うと訂正したかったが、いい加減気力も限界に来ていた。
「答えろ。お前、生き延びたいか?」
「……当然だ」
低く声を絞り出す。生き延びたいか? それは少し違う。訳もわからぬまま殺されるのはごめんだ。自分の死に意味を求めているわけではない。
ただ――――意味不明な思い込みの犠牲になることを受け入れるなんて無理な話だった。
「やっぱ、そうだよな……」
獣の耳が心なしか下がる。何事だと顔をしかめる理久をよそに、獣はなおもぶつぶつと呟いていた。
しばらくそうしていたが、ようやくなにやら決意したらしく懐から瓶らしきものを取り出して理久の目の前に膝を突いた。
「よし。いいかリック。今からお前を逃がす為の薬を飲ませる。抵抗するなよ」
獣は瓶の中身をあおり、理久を助け起こす。そして理久の口を自分のそれで塞ぎ、含んでいた液体を流し込んでいった。
(なんだこりゃ。不味いにも程がある)
やたらと青臭い味に顔がゆがみそうになる。荒れ放題の唇は既にあちこちが切れていたので、血の味が混じっていく。それは獣のほうも同じなのか眉根に皺を寄せていた。
だが、薬を飲み下していくうちに獣の様子が変わっていく。しかめた顔は何かに驚いたような表情になっていく。そして――――
「お前……女だったのか?」
その声は震え、まさに『愕然』としていた。
なんとなく腹が立ったので目の前にあるヒゲを思い切り引っ張ってやった。
「ぐおっ! てめ」
「騒ぐな。ばれたら危ないんだろ」
「……ぐっ。後で文句はたっぷり言わせてもらうからな」
獣の手が伸び、理久の額にあてられる。
瞬間。
体中に強烈な違和感が生じた。細胞を作る情報が全て書き換えられるような衝撃。視界がゆがみ、天井が遠くなる。
「さっき飲ませたのは一時的に能力を伝染させる薬だ。俺の能力を使えば脱出……」
真剣な顔で見ていた獣の顔が固まった。何事だとか能力って何なんだとか、訊きたいことはいくつもあった。だが理久の口から洩れたのはそれらの言葉ではなく……
「にゃーう」
「できる、はず、なんだが……」
「な」
「……何で、猫に変身するんだ……?」
茫然とした獣の声に、理久も慌てて自分の姿を確認する。目に入ったのは、女にしては少々大きすぎる手のかわりに金に茶のラインが入った毛皮に包まれた前足。もちろん肉球もついており、指先に力を込めれば鋭い爪が顔を出す。
「……ふぎゃお」
なんだこりゃと心の中で突っ込むが、それよりも重要なことに気がついた。痛みが無い。どうやら猫になった時に傷がふさがったようだ。
そうとわかれば牢獄なんぞに長居は無用。理久は鉄格子の隙間からそっと身を滑らせた。
「あ、おいちょっと待て! そこでじっとしてろ」
何事かと思って立ち止まって振り向く。そして思わず目を疑った。
身長なら理久よりも高いであろう獣が理久の影に触れると、見る見るうちに影の中に溶け込んでいったのだ。茫然としていると、影から低くささやく声がした。
「説明は後だ。まずは看守のところへ行く。安心しろ、この国じゃ猫は魔を祓う聖獣だ。手出しはされねえよ」
なるほど、牢が空になっていることを知らせ騒がせる算段らしい。
「なーう?」
精一杯愛らしい鳴き声を出して、さらに駄目押しとばかりに看守の靴に前足を乗せてみる。学校に住み着いていた野良猫たちを思い出してそれを再現する。奴らはそうやってエサを勝ち取っていた。
理久は内心寒気を感じていたが、そんなことに気づくわけもない看守は理久の喉をくすぐった。猫じゃないので正直うれしくない。
「なんだ。どこから入り込んだんだ?」
「んなーお」
もう一度鳴いて、今度はふいっと方向転換。元来た道を少しだけ戻って、振り返ってみせる。視線でついてくるよう訴えかけて、再び走る。思惑通り看守はついてきた。
(勤務態度に問題ありだな。大丈夫かこの国)
心の中で毒づくが、どうでもいいといえばどうでもいい。斬られて監禁されて、さらに虐待レベルの食事を与えられた恨みはそれなりに深い。国が滅びたらそれはそれで面白そうだとすら思う。むしろ潰れやがれ。天を怨みず人を咎めずなんて言葉、少なくとも今の理久には通用しない。
思いつく限りの罵詈雑言を心の中で羅列しつつ、動かしていた足を止める。少ししてから看守が追いついたらしい。止めとばかりにもう一度愛らしく鳴いて見せた。
「にゃーう」
「……なっ……!」
看守は少しの間硬直していたが、すぐに来た道を戻っていった。その様子を注意深く見ていると、再び影から声が飛んでくる。
「いくぞ。方向は俺が教える。お前はとにかく走れ」
その声を合図に走り出す。混乱が生じつつある牢屋を抜け出し、ひたすら外を目指した。猫の体は機敏だ。人の足の間をすり抜け、ときには調度品の隙間を走り抜ける。その間、影からは絶えず進路を指示する声が飛んでくる。
「あれだ! 突き当たりの窓が開いてる。脱出するぞ!」
言われるままに視線を上げると、確かに煌びやかな装飾の窓はかすかにだが開いていた。
たん、と全力で跳びあがり、窓枠に乗る。周囲はいまだ混乱の中で、走り回る猫にかまっている余裕はなさそうだった。
一瞬、後ろ髪を引かれる思いが理久の足を止めた。
(逃げていいのか? 私だけが逃げて……)
確かに理久は助かるだろう。獣には怪しい要素しかないが不思議と信用できる。
問題は……
「急げ。逃げるぞ。変身した状態は長くはもたないんだ」
獣の言うとおりだ。ここで足踏みをしていても事態は好転しない。この騒ぎとはいえ、由梨を助けられる可能性はあまり高くないだろう。うっかり元の姿に戻った時のリスクを考えれば、今は一人で逃げるしかない。
未練を振り切るように、力強く窓枠を蹴る。
また会える。自分にそう言い聞かせはしたが、心のどこかですでに諦めていた。