聞いた話です
「聞いた話です」
湯気の立つティーカップを、伊吹は真剣に見つめていた。しろいカップには琥珀色のお茶が注がれていて、ふんわりと、とてもいい香りが立ち上ってくる。
うん、香りはフツウの・・・美味しそうなお茶の香りだと思う。
「そんなにじっと見つめなくても、ヘンなものは入っていませんよ」
この店・・・喫茶店“カレント”のマスター、梢は苦笑を浮かべた。この前だしたお茶のせいですかねえと。
お茶に手を付けず、凝視している伊吹に、「ああそうそう、胡桃とレーズンのマフィン焼いたんですよ、持ってきますね~」と梢は言い置いて、カウンターの中へと戻っていく。瞳と同じ色の、黒の長い髪の毛が、ひらりと翻った。
伊吹とテーブルを挟んで向かい側に座る、矢萩とうさぎは、お茶が運ばれた途端、手を伸ばし美味しそうに飲んでいた。
「飲まないのか、とても美味しいのに」
うさぎが声をかける。けれど伊吹は疑わしそうな眼差しを二人にくれた。
「じいさまやうさぎの“うまい”は、あてにならないよっ」
「あらまあ、伊吹くん、それはひどいですねえ~」
焼きたてのマフィンを運んできた梢は、眉をハの字に下げた。三人の前にお菓子を置き、「温かいうちに召し上がれ、もちろん、お茶もね」と、にっこりと笑った。
そうして、伊吹はカップに手を伸ばす。
魔法屋“シェル”の面々・・・店主の伊吹、店番のうさぎ、店主の孫の伊吹・・・は、街の西にある喫茶店“カレント”を訪れていた。この店は、一般的なお茶から、すこし風変わりなお茶まで、多種多様なお茶を出すことで有名である。四人がけのテーブル席が二つ、丸テーブルが一つ、カウンター席が三つのこぢんまりとした店だ。
お客は常連がほとんどで、その大半は矢萩やうさぎのような、お茶好きである。店に来ては、珍しいお茶の情報を交換したり、試飲をして感想を話したりするのである。
この店のマスターは、梢といって、背中を越すくらいの長い黒い髪を、首の後ろでひとつに括っている。黒い瞳はいつもおだやかに笑っていて、伊吹は時々、梢さんてほんと、何歳くらいなのかなあと思う。伊吹の父親と同じくらいに見えるのだが、あっさり「いいええ、も~っと年が上ですよ」なんて答えられそうな気もするからだ。
ともあれ。
カップの中身を一口すすり、伊吹は唇を尖らせた。
「だってさ」
にこにこ笑いながら、梢はテーブルの下で足をぶらぶらさせる伊吹を見下ろしている。サイワイにして、このお茶は美味しいと思ったけど。
「この前なんか、美味しいから飲んでごらんなさいって出してくれたお茶、すっごくヘンな味がしたよ?」
「あはははは~あれはねえ、すこ~しクセがあるお茶でしたから~」
「ヘンな味って、おまえ、あれはとても珍しいお茶だったんだぞ」
祖父の矢萩は、嘆かわしげに言う。なんたって異界渡りだからなと。
しかし伊吹には、そんなことは関係ない。伊吹にとっては、ただのヘンな味のお茶でしかなかった。
と、思うのだが、何分三対一では分が悪い。
「だから、今日はちゃんと伊吹くんにも美味しいお茶をいれましたよ?お菓子もどうですか?」
「・・・両方とも美味しいよ」
焼きたてのマフィンも、バターがたっぷりでとても美味しい。
それはよかったとにっこり梢は笑うけど。伊吹は内心警戒している。忘れた頃に、“とんでもない味”のお茶を出すんじゃないかって。だって、梢は“今日はちゃんと”と言ったのだから。
「マスター。ごちそうさま」
マフィンをぺろりと平らげて、うさぎが梢に声をかける。カップの中も既に空である。
「お粗末さまでした。お茶のお代わりはいかがですか」
うさぎは丸眼鏡を指で押し上げながら答えた。
「いや、もう少し後で貰おうかな」
はい、わかりましたと梢は答え、うさぎは街で手に入れたばかりの、分厚い本を開いて読み始める。
矢萩は梢とお茶について話を始める。彼らの他は客は居らず、本のページをめくる音と、祖父と梢の話し声だけが店内に響く。
伊吹はカップを両手で持ち、店の中をぐるりと見回した。午後のやわらかな日差しと、座り心地のいい椅子。時を経たように、落ち着いた色合いのテーブルやカウンター。壁に架けられた大きな柱時計。ゆっくりと、確実に時を刻んでいる。
時間は確かに流れているのに。この店の中では、時間が止まっているかのように、伊吹には思えるのだ。
それは、いつも穏やかな笑顔で迎えてくれる、梢のせいだろうか。
初めて会った時から変わらない、梢の笑顔を見るたびに、伊吹はそう思う。
街へ買出しに出掛けた時、祖父やうさぎとこの店を訪れて、美味しいお茶やお菓子をいただくこと。
それと。
梢に、“お話”をしてもらうことが、伊吹が楽しみにしていることだった。
「ねえ梢さん、何か“お話”してくれる?」
「ええ、いいですよ」
頷いて、梢はお盆を持ったまま伊吹を見下ろした。額にかかる髪の毛を指で撫でつける。
伊吹は期待に満ちた目で、見上げてきている。初めて伊吹に“お話”を聞かせたのはいつだったか・・・いつの間にか、“お話”を聞かせるのが習慣になってしまった。伊吹はとても楽しそうに“お話”を聞いてくれるから、話す梢としても楽しいのだが。
さて、今日はどんな話をしよう。
あれこれ考えながらふと視線をあげた梢は、カウンターの上部の壁に架けられた、一枚の絵に目をとめた。そうだ、あの話にしよう。
それじゃ、ちょっと失礼しますねと、椅子を一つ引き寄せ、腰かけた。
窓越しにやわらかな光が差し込んでくる。
静かに、ゆっくりと梢は話し始める。
いつもの言葉を前置きにして。
「聞いた話です」
むかし、昔。
ある画家がいました。
彼はとても人気のある画家でしたが、気難しいことでも有名でした。
いくらお金を積まれても、いくら熱心に頼まれても、自分が気に入らない仕事は、けして引き受けようとはしませんでした。
それでも彼の描く絵は、人々を惹きつけたので、彼の人気は衰えませんでした。
やがて彼は年を取り、ますます偏屈になりました。
もともと人付き合いの悪い人間でしたが、親しかった友人や、画家仲間との付き合いすらしなくなったのです。
家に引きこもり、絵を描くことさえ止めてしまいました。
たとえ、どんないい条件を出されても。
誰がどれほど熱心に頼んでも。
どうして彼が絵を描くことをやめてしまったのか、知る者は誰もいませんでした。
そうして、彼の絵の人気は、ますます高くなったのです。
そして。世間の人気とは無縁に、彼はひっそりと亡くなりました。
ただ。彼は亡くなる前に、一枚の絵を描いたと言われています。
言われています、というのは。
残されていたのは、一枚の写真。そこに写る絵は、彼の作品のようでした。だから・・・彼は新作を描いたに違いないと、彼の家の中や、アトリエをどんなに探しても、絵は見つかりませんでした。
彼の絵を知る画家や評論家は、写真に写る絵を彼の絵であると認めました。
写真から複製が作られ、彼の“最後の作品”はひろく世間に知られました。
けれど・・・作品はとうとう見つかりませんでした。本物の作品は、一体どこに消えたのでしょう?
「どこに作品は消えてしまったんでしょうね」
梢は伊吹に尋ねた。
「わかんないよ。誰かかこっそり持ち出したんじゃない?」
「誰か・・・?それは一体、誰でしょうね・・・?」
柱時計が鳴った。それを合図に、梢は再び話を始めた。
あるコレクターがいました。
彼は画家の絵がとても好きで、“最後の作品”も何としても手に入れたいと思っていました。
どんなに技術が進歩し、本物そっくりな複製が作られたとしても、所詮はまがいもの。代替品、あるいは記録にしかすぎないじゃないかと彼は考えたのです。
彼は手を尽くして、画家の“最後の作品”の行方を追いました。
それとともに、彼は生前の画家を知るものを探し始めました。画家が亡くなってから、もう随分と時間が経っています。年をとってから人前に姿を見せなくなった画家を、直接知る者はもう僅かになっていました。
しかし、彼の執念が通じたのでしょうか。彼はとうとう、画家の妻であった婦人を見つけ出したのです。
彼女なら、誰も知らない絵の行方を知っているかもしれない。期待に胸を躍らせて、彼は彼女を訪ねたのです。
突然のコレクターの訪問にも、彼女は驚きませんでした。コレクターに請われるままに画家の話を聞かせました。そして、コレクターは、一番訊きたかった事をたずねます。
「あの人の最後の作品ですか・・・ええ、存じておりますよ」
彼女は皺ふかい顔に、笑みを浮かべました。その答えに、コレクターは勢い込んで尋ねました。
「でも、どうして、貴方はあの作品の行方を尋ねられるんですの?複製や模写で十分じゃあございませんか?」
彼女は穏やかな笑みを浮かべています。いいえとコレクターは首を横に振りました。
「いいえ、私は本物が欲しいのです」
そうですか、本物がですかと彼女は微笑んだまま、小さく呟きました。
「本物、って、何なのでしょうね」
コレクターは虚をつかれて彼女の顔を見ました。彼女は・・・画家のかつての妻は、哀れみとも慈しみともとれる不思議な表情をしろい面に映し、明瞭に言ったのです。
「あの絵はこの世にありません」
と。
コレクターは驚きに目を見開き・・・驚きが去った後、怒ったように言いました。
「何故・・・そう言いきれるんですか」
残された写真。そこに写った絵が、もう無いとどうして言えるのですかと。
彼女はますます笑みを深くしました。
「記録の中でのみ、存在している絵。それが、あの人が“最後の作品”として描き出したものだからです」
絵を描き、写真に撮る。その時点で絵は不要になり処分されました。
写真を残すということ、残された写真を見て、人々がどのような行動を取るのかということ。
それら全てが・・・画家が“最後の作品”として意図したものだったのです。
その事に気付いたコレクターは愕然としました。今まで彼が“まがいもの”だと思った、画家の“最後の作品”の複製。単なる記録にしか過ぎないと思っていたそれらこそが・・・今に残る“本物”だ、など。
存在していない絵。
記録の中でのみ、存在している絵。
実像は失われ、けれど、かぎりなく実像に近い虚像だけが残っているのです。
まるで夢の残滓のように。
彼女の声が、静かに響きました。
「だから言いましたでしょ。どうして“本物”を探すのかしらって。貴方はもう、それを手にしていたというのに」
この世にある彼の“最後の作品”の、複製・・・それら全てが、“本物”。
そして。
いつか彼の作品の“本物”を探すものが現れ、その誰かが、画家の隠された意図に気づくことが出来た時・・・それこそが、画家の“最後の作品”の終末だった。
「大勢の人から称賛されて。でもあの人は誰より自分自身が信じられなかった。自分の作品を信じていなかった。だから」
彼女は茫然とするコレクターに、優しく、ただ優しく語りかけました。
「あの人は精一杯の皮肉をこめて、“最後の作品”を描いたんですよ」
「・・・そして彼女は言いました。“あの人は精一杯の皮肉をこめて、最後の作品を描いたんですよ”と」
語り終えて、梢はほうっと息をついた。ふと窓の方へ視線をむけると、日はいつの間にか傾いていて、長い影が床へ伸びていた。柱時計の時を刻む音が店内に響く。
奇妙に静まり返った空間を壊したのは、窓の外を駆けて行った、子どもたちの高い声だった。
それを合図としたかのように、梢は立ち上がる。
「新しいお茶をいれましょう。ちょっと待っていて下さいね」
テーブルの上のカップを集め、梢は一旦厨房へと戻る。カップを流し場に置くと、薬缶を火にかけて湯を沸かし始めた。湯が沸くまでの間に、新しいカップと茶葉を準備する。
あらかじめ温めたポットに茶葉をいれ、勢いよく湯を注いだ。余った湯でティーカップを温め、時間を見計らい湯を捨てる。トレイにカップとポットを載せ、店に戻った。
「お待たせしました」
ティーカップを各々の前におき、お茶を注ぐ。しろい薄手のカップに、オレンジ色のお茶はよく映えた。甘い香りがふわりと立ち上って、うさぎは鼻をひくひくさせ、矢萩は嬉しそうに目を細めた。
「ねえ梢さん、今の話って、本当にあったことなの?」
伊吹がお茶を一口飲んでから尋ねた。梢はさあ・・・と首を傾げて微笑む。
「さあ・・・聞いた話ですから。ああでも」
梢はカウンター上部の壁に架けられた、一枚の絵を指した。
「あの絵、あれは画家の“最後の作品”だと、この話をしてくれた人は、言いましたよ」
その絵は、長い時を経たように古びていて。原色をたくさん使っているのに、何故か全体としては落ち着いて・・・淡い印象さえ与える、不思議な絵だった。
その絵をじっと見つめたあと、伊吹はぽつりと言った。
「なんだか淋しい絵だね」
夕方になる前に、魔法屋シェルの面々は帰って行った。矢萩の店“魔法屋シェル”は、街を挟んで丁度反対側にある。早めに出ないと、暗くなる前に帰り着かないのだった。
今日はもうお客さんは来ないでしょう、と梢は早々に店じまいをはじめる。営業終了の札を表にかけ、鼻歌交じりに洗い物や店内の掃除をしていく。もともと採算を見込んではじめた店ではない。言ってみれば趣味が高じてのものだった。
「さて、次に伊吹くんが来たときには、どんな話をしましょうかね」
「聞いた話です」