表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

溺愛シリーズ

婚約者を「所有物」にしていた私、殺されたのでやり直します。~解放するはずが執着されました~

掲載日:2026/03/02

「お前のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ」


 低く、地這うような声。


「……え?」

「『大事な幼馴染』? 笑わせるな。俺はただの、お前の所有物コレクションだろう。……お前がいなくなれば、俺は自由だ。ようやく、俺の人生を取り戻せる」


 突き飛ばされた体は、重力に従って宙に浮く。

 最後に見たのは、青ざめた顔で私を見下ろす、憎しみと、そして——なぜか今にも泣き出しそうな、歪んだ彼の瞳だった。



「——っ!!」


跳ね起きると、そこは見慣れた自室のベッドの上だった。

心臓がうるさい。喉の奥に、あの時の冷たい風の感触が残っている。


(……戻ったの? 殺される前に?)


 カレンダーを見れば、あの崖の日から三年前だった。

 私は崖から突き落とされる前の自分の振舞いを思い返す。

 とある貴族が開いた夜会の喧騒の中、私はいつものように彼——ジルヴァンの手を引いていた。


「ジルヴァン、あちらの侯爵閣下にご挨拶しましょう。大丈夫、あなたは私の『大事な幼馴染』なんだから、胸を張っていて」


 私の言葉に、彼は一瞬だけ眉をひそめた。けれど、すぐに完璧な家臣の息子の顔に戻り、「仰せのままに、お嬢様」と微笑む。その微笑みが、削り取られた自尊心の代償だとは、当時の私は露ほども思っていなかった。

 私は彼を愛していた。

 王家級の財力を持つ公爵家の一人娘である私にとって、家格の落ちる彼は、守るべき、そして慈しむべき「私のもの」だった。

 夜会でも、ファーストダンス以降は彼を放り出して他の男たちと踊り続けた。彼に恥をかかせないために、私は社交界の花として君臨するために。

 彼のあげた成果を「さすが私の選んだ人ね!」と手放しで褒めたのも、彼を認めている証拠。

 ……彼が私の婿になるために、実家の継承権を妹に譲り、私の影として生きる道を選ばされたことも、「ずっと一緒にいられる素晴らしいこと」だと疑わなかった。

 あの日、成金の男に薬を盛られ、密室に連れ込まれかけた時もそうだ。

 ジルヴァンが裏で手を回し、一睡もせずに醜聞を揉み消してくれた報告を受けた時、私は事も無げに言った。


「あら、あなたでも見逃すことがあるのね。でも、次は気をつけて。だってあなたと私は、ずっと一緒なんだもの!」


 彼がどんな顔でその言葉を聞いていたか、当時の私には見えていなかった。

 彼の瞳の奥に溜まった澱が、いつか決壊することなど、想像もしていなかったのだ。

 数日後、視察と称して訪れた領地の崖の上。

 夕日に染まる彼の顔は、酷く美しく、そして見たことがないほど冷え切っていた。


「……ジルヴァン? どうしたの、そんなに離れて」


 私が手を伸ばした瞬間、彼はその手を払いのけ——そうして私は、落ちた。

 今ならわかる。私の傲慢が、彼の心を削り続けていたのだ。

 しかも三年前――婚約が内定し、私が最も傲慢に振る舞っていた時期だ。

 頭が痛くて思わず抑えたところで、ノックの音が鳴る。


「失礼します」

「……ジルヴァン?」


 扉を開けて入ってきた彼を見て、私は心臓が止まるかと思った。

 そこは私の寝室だ。私はまだ寝着に近い格好で、ベッドの上にいる。

 一周目の私は、これを「親愛」だと思っていた。


『朝一番に、大好きなあなたの顔が見たいわ。だって私たちは、世界で一番仲良しの幼馴染なんですもの!』


 そんな自分勝手な理屈で、多忙な彼を無理やり早朝から呼び出し、侍女のアニーを隅に立たせて、着替えの邪魔をさせながら予定を確認させていたのだ。

 公爵令嬢としての矜持も、彼の男としての立場も、すべて私の「好き」という免罪符で踏みにじっていた。


(……ああ、なんて酷いことをしていたの、私は)


「お早うございます、お嬢様。本日の予定ですが――」


 ジルヴァンは、いつものように感情を消した「完璧な婚約者」の面を被って、手帳を開く。

 その指先が、わずかに強張っていることに初めて気がついた。彼は、この「令嬢の寝室への入室」という不名誉な特権を、一度だって喜んでなどいなかったのだ。


「待って、ジルヴァン」


 私は彼の手帳を遮るように手を挙げた。

 一週目なら、「その前に、おはようのハグをして?」と甘えていた場面。


「……お嬢様?」

「アニー、ジルヴァンを隣の応接室へ案内して。……ジルヴァン、ごめんなさい。身なりを整えてから、改めて伺うわ。朝早くから、こんな場所まで来させて悪かったわね」


 部屋の空気が凍りついた。

 侍女のアニーは目を見開き、ジルヴァンは開いた手帳を握りしめたまま、彫像のように固まった。


「……場所を、変えるのですか?」

「ええ。ここは私の寝室だもの。婚約者とはいえ、男性をこんな時間に入れるべきではなかったわ。今まで、私のわがままであなたの尊厳を傷つけていて……本当にごめんなさい」


 ジルヴァンの瞳に、明らかな動揺が走る。

 謝罪。

 しかも、彼を「便利な幼馴染」ではなく、一人の「男性」として、そして「一線を引きたい相手」として扱うような言葉。


「……承知いたしました。では、あちらで。……失礼いたします」


 彼は深々と頭を下げて退出した。

 その背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。


(よし……まずは、彼を『公爵令嬢のペット』から解放する第一歩だわ)


 だが、私は気づかなかった。

 廊下に出たジルヴァンが、震える指先で自らの口元を覆い「……あんな顔で、謝られるはずがない」と、一周目には見せなかった「執着の色」を瞳に宿し始めたことに。



 王宮の夜会は、色とりどりのドレスと野心の香りに満ちていた。

 一周目の私なら、ジルヴァンを「連れ」として端に控えさせ、自分は公爵令嬢として中央で蝶のように舞っていただろう。

 彼を「私の所有物」として周囲に誇示しながら、彼自身の声には耳を貸さず。


(……今日は、絶対に彼を蔑ろにしない。彼を、一人の人間として扱うのよ)


 私はジルヴァンの腕にそっと手を添えた。

 彼がびくりと肩を揺らす。以前のように、私のわがままで振り回される覚悟をしていたのだろう。

 そこへ、一人の高位貴族の青年が近づいてきた。


「アヴェリス公爵令嬢。次の一曲を、私と踊っていただけませんか?」


 一周目なら、二つ返事で彼の手を取っていただろう。ジルヴァンに「ここでグラスを持って待っていて」と、まるで従者に命じるように言い放って。


「お誘いありがとうございます。ですが……」


 私は一拍置き、隣のジルヴァンを穏やかな目で見上げた。

「今夜は、私の大切な『婚約者』とだけ踊りたいのです。彼に断りなく、他の殿方の手を取ることはできませんわ」


 沈黙。誘った青年も、周囲の貴族たちも、そして何よりジルヴァン自身が固まった。

 それもそうだろう。アヴェリス公爵家の奔放な一人娘が、ジルヴァンを格下ではなく、尊重すべきパートナーとして、彼を立てたのだ。

 青年が引き下がった後、ジルヴァンが信じられないものを見るような目で私を見下ろした。


「……お嬢様。本気ですか?」

「ええ、もちろんよ。……嫌かしら?」

「いえ、そうではなく。……あなたは、ダンスがお好きでしょう? 俺のような、エスコートもろくにできない身内の男より、あのような華やかな御方と踊られた方が、お嬢様の価値も高まるはずですが」


 彼の声には、深い困惑が混じっていた。

 自分は「背景」であり「道具」であると、彼自身が誰よりも強く思い込んでいる。


「ジルヴァン。私の価値を決めるのは私よ。……それに、私はあなたと踊りたいの。……いいかしら?」


 私が静かに手を差し出すと、彼は幽霊でも見たかのように目を見開いた後、震える指先で私の手を取った。


「……踊られないのですか? お嬢様。……俺と、本当に?」

「ええ。あなたがリードしてくれる?」


 フロアの中央へ進み、音楽が始まる。

 一周目、彼を放置して踊り狂っていた私には見えていなかった。

 彼のリードは、驚くほど丁寧で、私の歩幅を完璧に守っている。


(……こんなに、大切に扱ってくれていたのね。私はそれを、『当たり前』だと思って無視し続けていたんだわ)


 音楽が流れる間、彼は一度も目を合わせようとしなかった。

 ただ、私の腰を支える彼の手が、不自然なほど強張っている。


「……お嬢様。……今日のあなたは、少し、おかしい」


 絞り出すような彼の声。

 解放しようとする私の善意は、彼にとって「優しさ」ではなく、これまでの日常を壊す「得体の知れない恐怖」として響き始めていた。



 あの夜会以来、私は「奔放な跡取り娘」としての振る舞いを、根本から改めることにした。

 まず、無自覚な搾取を止めた。

 以前なら、彼が徹夜で仕上げた書類を「ありがとう!」の一言で奪い、自分の手柄のように王宮へ提出していたけれど、今は違う。必ず彼の名前を連名にし、父様や寄親の貴族たちにも「これはジルヴァンの功績です」と一筆添えて報告するようになった。

 次に、彼の「時間」を返した。

 早朝の寝室への呼び出しはもちろん廃止。彼の公務の合間に「お茶に付き合って」と強引に連れ回すこともやめた。彼には彼の、一人の男としての研鑽の時間が必要なのだと、ようやく気づけたから。

 生まれ変わった視点で見る夜会は、まるで遠い異国の出来事のようだった。

 きらびやかなシャンデリアの光も、このホールの隅までは届かない。

 私が喉を潤そうと給仕を探しに壁際へ寄った時、柱の影から、ひそひそと毒を孕んだ笑い声が漏れてきた。


「見ろよ、アヴェリス公爵令嬢だ。相変わらず、あの家臣の息子を背後に侍らせて……物好きにも程がある」

「婿養子に迎えるという噂は本当らしいな。まあ、公爵家の『飾り』にはお似合いだ。分をわきまえた忠犬は、余計な吠え面を見せないからな」


 男たちの、薄っぺらな嘲笑。

 一周目の私なら、この言葉が終わる前に即座に噛み付き、派手に騒ぎ立てて事を大きくしていただろう。

 「私の所有物ジルヴァン」を侮辱した無礼者たちを完膚なきまでに叩きのめし、その結果、政治的な火消しに走るジルヴァンの胃をどれほど痛めていたか……。当時の私は、想像したことすらなかった。

 けれど、今は違う。

 私は手に持っていた空のグラスを、男たちのすぐ脇にあるサイドテーブルへ、わざと硬い音を立てて置いた。


「——その『忠犬』がいなければ、あなた方の派閥が提出した軍備予算案は、今頃差し戻されて大恥をかいていたはずですが?」


 感情に任せて怒鳴るのではない。私はわざと、静かに釘を刺した。


「王宮財務局の再計算。あの完璧な修正案を仕上げたのは、そこにいるジルヴァンです。あなた方の署名で提出された、あの書類のこと……忘れたとは言わせませんわ」


 周囲の楽団の演奏を突き破るように、凛とした声を響かせる。


「公爵家の『飾り』にしておくには、少々優秀すぎるのではなくて? それとも、彼の手を借りなければ数字一つ扱えないと、自ら宣伝して回りたいのかしら」


 男たちは顔を真っ赤にし、周囲の視線を気にするように肩をすぼめ、逃げるように人混みへと消えていった。

 静寂が戻る。私は一つ深呼吸をして、すぐ後ろの闇に控えていた彼を振り返った。


「……聞こえていたでしょう、ジルヴァン」


 彼は影に溶け込むように立っていた。

 表情は読めない。けれど、握りしめられた拳が、微かに震えている。


「……なぜ、あのようなことを。お嬢様が、彼らと角を立てる必要はなかったはずです」


 低く、自分を律するような声。また自分が「後始末」をさせられるのを恐れているのだろうか。


「事実を言ったまでよ。あなたの功績を、他人の虚栄心のために使い潰させるつもりはないわ」

「……それは、お嬢様の立場を危うくします」

「危うくなるのは、正当に評価されない方でしょう?」


 私は一歩踏み込み、彼を真っ直ぐに見上げた。


「ジルヴァン。私は、あなたを『私の所有物』として誇示したいのではないわ。あなたが、あなた自身として評価される場所を、私は隣で見たいの」


 一瞬、彼の呼吸が止まる。

 琥珀色の瞳の奥に、言葉にならない感情が渦巻いた。

 救われたような、けれど同時に、今まで自分を振り回してきた「身勝手な主人」が突然見せた理性に、底知れぬ恐怖を感じているような。


「……お嬢様は、今日、本当におかしい」


 絞り出すようなその声は、震えるほど切実だった。

 ——そして、この出来事は社交界での「最初の噂」になった。

 それ以降、彼は「公爵令嬢の連れ」ではなく、名指しで呼ばれることが増えた。

 ……すべては、彼が「私がいなくても、どこででも生きていける」ようにするためだ。


(……これで、ようやく準備は整ったわ)


 手元の机には、私が数ヶ月かけて密かにまとめ上げた、分厚い書類の束がある。

 それは、彼を私の婿養子という縛りから解き放ち、彼の実家——家臣家系である彼が、本来継ぐはずだった爵位を正式に継承できるよう、各所に根回しをした記録だ。

 公爵家としての補償、妹さんへの調整、そして王家への特例申請。

 私の「わがまま」で捻じ曲げてしまった彼の人生の軌道を、元に戻すための集大成。


「お嬢様、ジルヴァン様がお見えです」


 侍女の声に、私は深く息を吐く。

 鏡に映る私は、一周目のような傲慢な笑みではなく、どこか寂しげで、けれど晴れやかな顔をしていた。


「お入りいただいて」


 扉が開き、ジルヴァンが入ってくる。

 最近の彼は、どこか私を観察するような、鋭く、それでいて縋るような視線を向けることが増えた。私が彼を立てれば立てるほど、彼は不安そうに、私の影を追うようになっている気がする。

 でも、それも今日で終わり。


「ジルヴァン、座って。……今日は、あなたに大切な『贈り物』があるの」


 私は机の上の書類を、彼の方へとゆっくり滑らせた。

 私の知る限り、彼にとって最高に価値があるはずの「自由」という名の贈り物を。

 差し出された分厚い書類の束を、ジルヴァンは不審そうに見つめた後、ゆっくりと手に取った。

 私は、誇らしい気持ちと、胸の奥を刺すような寂しさを抱えて、彼の顔を見守る。


(これでいいの。これで彼は、私の我儘に振り回される「便利な幼馴染」じゃなくなる)


 パラパラと捲られる紙の音。

 そこには、彼が公爵家への婿入りを辞退し、自らの実家を継ぐための特例措置、妹への補償金、そして王家への奏上書が、完璧な筆致で記されている。


「……これは、何ですか」


 低く、抑えられた声。

 一周目の、あの崖の上で聞いた声に似ている。私は努めて明るく、けれど誠実に答えた。


「あなたの人生を取り戻すための、準備よ。ジルヴァン、今までごめんなさい。私の隣にいるために、あなたは多くのものを諦めてきたでしょう? 家督も、一人の男としての誇りも」


 私は身を乗り出し、彼の冷え切った手の上に、自分の手を重ねようとした。


「でも、もう大丈夫。これからは、あなたはあなたの家を継ぎ、自分の意志で歩んでいけるわ。……私との婚約は、白紙に戻しましょう」


 その瞬間。ジルヴァンの手が、跳ねるように私の書類を叩きつけた。


「――ッ、ふざけるな!!」


 激しい怒声。一周目の彼なら、どんなに蔑ろにされても、決して上げなかった声。

 彼は椅子を蹴るようにして立ち上がり、私を、射抜くような眼差しで見下ろした。


「……解放? 取り戻す? ……お前は、またそうやって勝手に決めるのか!」

「ジルヴァン……?」

「数ヶ月、急に態度を変えて、俺を立てて……周囲に認めさせて。……そうか、すべてはこのための『手切れ金』の準備だったのか。俺を、綺麗さっぱり追い出すための!」


 彼の瞳が、激しく揺れている。

 一周目の崖の上。私を突き飛ばした時の、あの絶望と憎しみが混じった瞳。

 けれど、何かが違う。あの時は「消えてくれ」という拒絶だった。今は――。


「……俺は、家に戻りたいなんて一言も言っていない! 婿が嫌だとも、不自由だとも……っ。お前は、俺がどんな思いで、お前の隣に立つために泥を啜ってきたか、一度でも考えたことがあるのか!?」

「だって、あなたはあの時……! 私のせいで人生がめちゃくちゃだって……っ」


 思わず口に出かかった言葉を、私は慌てて飲み込んだ。「一周目」の記憶など、彼にはないはずだ。


「……『あの時』? 何のことだ。……いいか、お嬢様。……いや、カリスティア」


 彼は私の名を、呪いのように低く呼んだ。

 そのまま机を回り込み、逃げ場を塞ぐようにして私を壁際に追い詰める。


「お前が俺を『幼馴染』という檻に閉じ込めていた時も、俺は地獄だった。……だが、今さら『自由にしてやる』なんて善意面をして、俺を放り出そうとするお前は……もっと残酷だ」


 彼の大きな手が、私の頬を包む。その指先は、怒りで微かに震えていた。


「お前のせいで、俺の人生はもう、めちゃくちゃなんだよ……! 今さら、まともな道に戻れると思うな」


(……嘘。どうして? 自由にしてあげたかったのに。……どうしてそんなに、泣きそうな顔で私を睨むの?)


 私の善意は、彼という闇を救うどころか、より深く、逃げ場のない場所へと引き摺り込んでいたのだ。


「……ジルヴァン、離して。苦しいわ」


 私の弱々しい拒絶など、今の彼には届かない。壁に押し付けられた背中に、冷たい石の感触が伝わる。かつて私を見守っていた騎士の面影はどこにもなく、そこにあるのは、獲物を追い詰めた飢えた獣の眼差しだった。


「離さない。……二度と、勝手な真似はさせない」


 彼は私の手首を掴み、机の上に散らばった「自由への書類」を、もう片方の手で迷いなく引き裂いた。スウ、と紙が裂ける音が、静かな執務室に空虚に響く。


「ああ……っ、何をするの! それを準備するのに、私がどれだけ……!」

「知っている。お前が夜遅くまで明かりを灯し、あちこちの門閥に頭を下げて回っていたことも。……俺を捨てるための準備に、お前がどれほど心血を注いでいたか、すべて見ていた」


 彼の顔が近づく。吐息が触れるほどの距離で、ジルヴァンは歪んだ笑みを浮かべた。


「お前は、俺を『まともな男』にして放流したかったんだろう? 輝かしい家柄と名声を与えて、自分への罪悪感を清算して……。だが、残念だったな。俺が欲しかったのは、爵位でも自由でもない」

「じゃあ、何が欲しかったの……? 私は、あなたを愛していたから……!」


 その言葉に、彼の動きが止まった。

 一瞬の静寂。ジルヴァンの瞳に、どろりとした、暗く熱い執着が溢れ出す。


「愛? ……笑わせるな。お前の愛は、首輪と同じだ。……だが、いいだろう。その首輪、今さら外せると思うなよ」


 彼は私の耳元に唇を寄せ、呪文のように囁いた。


「一周目……と言ったか。お前が何を見たのかは知らない。だが、もし俺がお前を殺したというのなら……それは、お前が俺を捨てようとしたからじゃないのか?」


 心臓が跳ねた。

 そうだ。あの崖の上、彼は言った。「お前がいなくなれば、俺は自由だ」と。

 でも、その時の彼の瞳は、今のこの瞳と同じ——。

 絶望的なまでに、私に縛り付けられていたのではないか。


「……カリスティア。俺を『所有物』にしたのはお前だ。責任を取れ」


 彼の手が、私の腰を強く引き寄せる。

 それは「敬愛する主」への抱擁ではなく、「逃がさない」という意思表示。

 一周目の私は、彼を無視して傷つけた。

 二周目の私は、彼を尊重しようとして、逆に彼の存在理由を奪ってしまった。


「……ジルヴァン、離して。苦しいわ」


 私の声は震えていたけれど、今度は逃げずに彼の瞳を真っ向から見据えた。

 その奥底に渦巻いているのは、かつて私が恐れた憎悪ではない。

 愛する者に置き去りにされ、存在理由を失うことへの、どうしようもないほどの「恐怖」だった。


「離さない。……二度と、勝手に俺の未来を整えるな」


 足元には、引き裂かれた書類の残骸が雪のように散らばっている。

 私が彼のために心血を注いで用意した、輝かしいはずの“自由”。

 けれど、それすらも結局は、私の身勝手な傲慢だったのだ。彼の意志を置き去りにして、私が勝手に「良かれ」と決めた未来。一週目と形を変えただけの、独りよがりな支配。


「……ごめんなさい」


 私の謝罪に、彼の指先がわずかに凍りつく。


「私はあなたを檻から出そうとして……また、無意識に別の檻を用意していたのね。あなたの心を、ちっとも見ていなかった」


 私は震える手で、彼の手をそっと握り返した。


「もう、勝手に決めたりしないわ。あなたの未来を、私が勝手に整えたりもしない」


 一瞬、部屋から音が消えた。


「今度は、あなたが選んで。ジルヴァン」


 その言葉が引き金だった。

 彼を縛り付けていた完璧な「家臣」の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。

 怒りでも嘲りでもなく、堰き止めていた感情が、悲鳴のような嗚咽となって溢れ出した。


「……俺は」


 喉を激しく震わせながら、彼は吐き出すように続ける。


「家に戻りたいわけじゃない。……婿になるのが嫌だったわけでも、不自由が欲しかったわけでもないんだ!」


 額が触れそうな距離。彼の瞳が、痛々しいほど私を映し出す。


「……ただ、捨てられるのが、怖かっただけだ」


 心臓を直に握り潰されたような衝撃が走る。

 一周目のあの日、崖の上で私を突き落とした彼の瞳。あれは「自由を求めた反逆」などではなく、私という執着から逃れられず、共に滅びることを選んだ末の「絶望」だったのだ。


「お前のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ……」


 掠れた、けれど熱い声。


「でもな。そのめちゃくちゃになった人生の、中心にいるのもお前なんだよ。カリスティア」


 息が止まる。

 彼は私の頬にそっと触れた。

 今度は、私を縛り付けるための支配ではなく、そこに私が存在することを祈るような手つきで。


「家にも、お前という権力にも、もう俺は縛られない」

「俺が、俺自身の意志で選ぶ」


 ジルヴァンは、私の前に静かに膝をついた。

 一周目の従順な芝居でも、二周目の困惑でもない。

 一人の男として、誇り高く。


「婿でも、補佐でも、ただの幼馴染でもない」


 言葉が響く。気高く、真っ直ぐに。


「一人の男として、お前の隣に立たせてくれ。……夫として、お前を支えさせてほしい」


 胸の奥が、じわりと温かな熱で満たされていく。

 私は、跪く彼の手をしっかりと取り、力強く引き寄せた。


「ええ。……今度は、私があなたを選ぶわ。ジルヴァン」


 彼の腕が、私を抱きしめる。

 それはもう、私を壊すような力ではなく、分かち合うための確かな温もりだった。


「……俺を見ろ。一生、俺だけを」


 耳元で囁く声は、もはや隷属を強いる命令ではない。

 自由を望んでいたはずの男は、

 誰よりも自分の意志で、私の隣という名の「愛」を選び取ったのだ。

 ジルヴァンの腕の中で、私はようやく彼という「人間」の重さを知った。

 今までの私は、彼を自分の色に染めることばかり考えていた。傲慢な支配者として、あるいは独りよがりな救済者として。

 けれど、私の肩に顔を埋める彼の吐息は熱く、生々しい。

 彼は私の「所有物」でも「悲劇のヒーロー」でもない。私と同じように悩み、傷つき、そして私を渇望する一人の男なのだ。


「……ふふ、くすぐったいわ、ジルヴァン」


 私がわざと明るい声を出すと、彼は顔を上げ、きまり悪そうに視線を彷徨わせた。その耳の先が赤くなっているのを見て、一周目には一度も見られなかった彼の「若さ」に、私の胸はさらに高鳴る。


「……笑わないでください。俺は、これでも必死なんです」

「知っているわ。……ねえ、ジルヴァン。さっきの書類、拾い集めてくれる?」


 彼が怪訝そうな顔をした。せっかく彼が引き裂いた「自由への切符」だ。


「捨ててしまうのはもったいないもの。あそこに書いた根回しや予算は、そのまま『公爵家次期当主夫妻』の独立予算として書き換えましょう。私たちが、父様や家に縛られず、自分たちの足で立つための資金にするの」


 ジルヴァンの瞳に、知的な光が戻る。彼は床に散らばった紙片を一つひとつ丁寧に拾い集め、それから私を真っ直ぐに見つめた。


「……後悔しませんか? 俺を隣に置けば、あなたは一生、俺の執着から逃げられませんよ」

「望むところよ。私だって、あなたを誰にも渡すつもりはないもの」




 数ヶ月後。

 私たちは、再びあの「崖」の上に立っていた。

 一周目で私が突き落とされた、あの夕映えの場所。視察の合間に、私はあえてこの場所を選んだ。過去の呪縛を、今度こそ完全に断ち切るために。

 風が吹く。

 一歩間違えれば奈落へ落ちる断崖を背に、私はジルヴァンに手を伸ばした。


「ジルヴァン、怖くないわ。……あなたが、そこにいるから」


 彼は一瞬、苦しげに目を細めた。おそらく彼も、夢の中で、あるいは無意識の記憶の中で、この場所の「惨劇」を覚えていたのかもしれない。

 けれど、彼は逃げなかった。


「……ああ。もう、お前を離さない」


 彼は私の手を力強く握り、ぐいと自分の方へ引き寄せた。

 宙に浮いたのは、突き飛ばされた体ではなく、彼に抱き上げられた私の足だった。


「ひゃっ……! ジルヴァン!?」

「崖の近くは危ない。……ここからは、俺が運びます」


 冗談めかした彼の微笑みには、もうおりは一切なかった。あるのは、守るべきものを見つけた男の、静かな強さだけだ。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

「所有」と「解放」のどちらでもなく、二人が自分の意志で選び直すところまでを書きました。

少しでも刺さったら、評価や感想をもらえると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ