物語は、俺を逃がさない
夜の森は、静かだった。
風が枝を揺らし、葉が擦れる音だけが続く。
村を出てから、どれくらい歩いたか分からない。
振り返らなかった。
振り返る理由も、もうなかった。
「……これで、いい」
そう言い聞かせるように呟く。
誰もいない。
誰も期待しない。
誰も、俺を“使おう”としない。
それでいいはずだった。
――なのに。
胸の奥が、ざわついている。
あの感覚。
言葉が、勝手に並び始める前兆。
「……やめろ」
足を止め、深く息を吸う。
もう書かない。
書かなければ、削られない。
そうすれば、俺は俺のままでいられる。
理屈は、通っている。
だが、世界は――理屈通りにいかない。
視界の先、森の奥で、かすかな光が揺れた。
焚き火だ。
近づくと、そこには小さな一団がいた。
旅人だろう。
荷車と、数人の大人と、子供が一人。
そして――地面に倒れている影。
「……間に合わなかったか」
誰かの声が、震える。
俺は、息を呑む。
倒れているのは、男だ。
胸から血を流し、呼吸が浅い。
周囲の会話で、状況はすぐに分かった。
魔獣に襲われた。
ここまで逃げ延びたが、手当てがない。
このままでは――。
死ぬ。
はっきりと、分かる。
同時に、頭の中に文章が浮かんだ。
「彼は、夜明けを迎えることなく――」
「……っ!」
俺は、強く目を閉じる。
まただ。
また、書かれた運命。
逃げたはずなのに。
何もしない場所を選んだはずなのに。
物語は、平然と俺の前に現れる。
誰かが、俺に気づいた。
「君……薬草は持っているか?」
期待。
縋る視線。
それだけで、十分だった。
俺は、分かってしまう。
ここで書かなければ、
俺は一生、この結末を背負う。
助けられたかもしれない命。
書かなかったという事実。
第5話の記憶が、胸を刺す。
「……」
喉が、ひくりと鳴る。
代償が、よぎる。
次は何が消える?
顔か。
感情か。
それとも――自分の名前か。
それでも。
俺は、歩み出ていた。
「……少し、下がってください」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
男の傍に膝をつく。
血の匂い。
冷えた体温。
助けたい、と思った。
それだけは、嘘じゃない。
俺は、目を閉じる。
言葉を、選ぶ。
全部は書かない。
奇跡は書かない。
ただ、余白を残す。
「彼は、死ぬはずだった。
だが――結末は、まだ書かれていない。」
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
同時に、何かが――
確かに、削れ落ちた。
頭の中で、誰かの笑顔が、輪郭を失う。
思い出そうとしても、名前が出てこない。
「……くそ」
歯を食いしばった瞬間。
男の呼吸が、わずかに整った。
「……生きてる?」
「息が……戻ってるぞ」
ざわめき。
安堵の声。
俺は、立ち上がる。
ふらりと、視界が揺れた。
――分かった。
もう、戻れない。
書かなければ失う。
書いても失う。
なら、選択肢は一つしかない。
俺は、夜空を見上げる。
「……逃げても、無駄だな」
物語は、俺を放さない。
俺が書く限り。
俺が“書ける”限り。
そして――。
書くことをやめた瞬間、
俺は“ただの登場人物”になる。
それだけは、嫌だった。
俺は、歩き出す。
次の物語へ。
次の、書かれなかった結末へ。
――こうして俺は、物語から逃げることを、完全に諦めた。




