失われた名前
その夜、夢を見た。
懐かしい部屋。
古い机。
キーボードの音。
前の世界の、俺の部屋だ。
画面の前に座り、誰かと話している。
顔は見える。
声も、温度も、確かに覚えている。
「無理しすぎるなよ」
そう言って、苦笑する相手。
何度も原稿を読んでくれた人。
評価はくれなかったが、否定もしなかった。
――大切な人だ。
なのに。
「……誰だ?」
名前が、出てこない。
呼ぼうとした瞬間、夢が崩れた。
俺は、息を詰めて目を覚ます。
孤児小屋の天井。
薄暗く、静かだ。
「……っ」
胸を押さえる。
嫌な予感が、確信に変わっていた。
俺は、ゆっくりと記憶を辿る。
前の世界。
書いていた物語。
通っていた場所。
――思い出せる。
だが、そこにいた“誰か”の名前だけが、
きれいに、抜け落ちている。
「……そんなはず、ないだろ」
声に出すと、喉が震えた。
あの人は、確かにいた。
何度もやり取りをした。
俺が折れそうな時、画面越しに支えてくれた。
なのに、名前だけが、ない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
頭痛が走る。
ずきり、ずきり、と。
第3話で“書いた”時と同じ痛み。
――間違いない。
これは、代償だ。
物語を書き換えた結果、
俺の中の「物語」が、削られている。
しかも、順番に。
価値の高いものから。
「……冗談じゃない」
藁の寝台に腰を下ろし、拳を握る。
創作の記憶。
プロット。
登場人物。
そして今、
人の名前。
次に消えるのは、何だ?
感情か。
顔か。
それとも――自分自身か。
外で足音がした。
「……いるか」
村の大人の声。
昨日、川にいた男だ。
俺は、扉を開ける。
「昨日のことだがな……」
男は、言いづらそうに視線を逸らす。
「誰も、お前を責めていない」
「むしろ……期待してる者もいる」
期待。
その言葉が、胃の奥を冷やす。
「次は、頼むぞ」
「お前なら、何とかできるんだろ?」
善意だ。
悪意は、ない。
だからこそ、きつい。
「……できません」
即答だった。
男は、驚いた顔をする。
「俺は、何でもできるわけじゃない」
「……それに、代償がある」
どこまで伝わったかは分からない。
男は、しばらく黙り込んだあと、深く息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、去っていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
俺は、壁にもたれかかる。
世界は、もう俺を放っておかない。
だが、俺自身が、先に壊れていく。
「……名前、か」
もう一度、あの人のことを思い出そうとする。
だが、何度試しても、そこは空白だった。
涙が、頬を伝う。
評価されなくてもよかった。
売れなくてもよかった。
それでも、
確かに“誰かと繋がっていた”証だけは、
失いたくなかった。
俺は、歯を食いしばる。
「……全部は、書かない」
救わない。
書かない。
逃げる。
そう決めたはずなのに。
胸の奥で、
物語が、静かに蠢いている。
――まだ、書けるだろ?
そんな声が、
どこからか聞こえた気がした。
――名前が消えたのなら、次は“顔”か、それとも“心”か。




