救えない命
その日は、雨が降っていた。
冷たい霧雨が村を覆い、地面を黒く濡らしている。
嫌な予感が、朝から胸に張りついて離れなかった。
「……嫌な空気だな」
呟いても、誰に届くわけでもない。
鐘の音が鳴ったのは、昼前だった。
異変を知らせる合図。
人が集まる。
そして大抵、良くない知らせが運ばれてくる。
「子供が……川に落ちた!」
息を切らした男の声に、空気が凍る。
俺は、はっとして顔を上げた。
川――。
昨夜の雨で、水位が上がっているはずだ。
人の波に押されるようにして、俺も走った。
川岸には、すでに人だかりができていた。
濁流の中、誰かが引き上げられている。
小さな身体。
ぐったりとして、動かない。
「まだ息は……ある!」
誰かが叫ぶ。
だが、その声は確信に欠けていた。
俺は、その子の顔を見た。
――知らない子だ。
それでも、分かる。
このままでは、助からない。
胸の奥が、ひくりと疼いた。
あの感覚。
書ける。
今なら、間に合う。
頭の中に、言葉が浮かび始める。
「彼は、冷たい水の中で――」
そこで、止まった。
身体が、拒否反応を示す。
視界が、ぐらりと歪む。
吐き気が、喉までせり上がる。
「……っ」
分かってしまった。
これを書けば、
今までとは比べものにならないほど、削られる。
昨日まで覚えていた物語。
大切にしていた記憶。
それ以上の何か。
直感が、警告している。
――これは、取り返しがつかない。
周囲では、大人たちが必死に声をかけている。
「しっかりしろ!」
「目を開けろ!」
誰かが、俺の肩を掴んだ。
「お前……昨日の子だな」
「何か、できることは――」
期待。
無意識の期待。
胸が、締めつけられる。
書けば、助かる。
書かなければ、死ぬ。
世界は、あまりにも簡単に、俺に選択を迫る。
――違う。
これは、選択なんかじゃない。
取引だ。
命と、俺自身を天秤にかける。
そんなもの、誰が決めた?
俺は、歯を食いしばる。
指先が、震える。
それでも、言葉は喉まで上がってきていた。
「だが――」
そこまで、だった。
頭の中に、別の映像が割り込む。
前の世界。
真夜中の部屋。
誰にも読まれない原稿。
それでも、書いていた自分。
――書くことだけが、俺だった。
それを、全部差し出してまで、
俺は“神”になるのか?
答えは、出ていた。
「……ごめん」
誰にも聞こえない声で、呟く。
俺は、続きを書かなかった。
数秒後。
子供の身体から、力が抜けた。
「……だめだ」
誰かが、静かに告げる。
雨音だけが、残った。
村の人々は、項垂れ、散っていく。
誰も俺を責めない。
それが、何よりきつかった。
俺は、川岸に立ち尽くす。
胸の奥が、ひどく痛む。
書いていないのに。
「……俺は」
声が、震える。
助けられたはずの命。
書けば変えられた結末。
それを、見送った。
最低だ。
卑怯だ。
それでも――。
「……神じゃない」
誰に言い訳するでもなく、言葉を吐き出す。
俺は、選んだ。
すべてを救わない道を。
雨の中、俺は踵を返す。
背後で、誰かが泣いている。
その声が、ずっと耳に残った。
――これが、俺の力の正体だ。
救える。
だが、救わないこともできる。
その責任だけが、
静かに、重く、俺の肩に乗っていた。
――それでも俺は、生きるために、書かないことを選んだ。




