婚約破棄は喜劇のように
その婚約破棄は、あまりにも騒がしかった。
カイゼルヴァルム帝国アストラ州の中心都市、アストリアの宮殿の大広間。
都に住まう貴族のほとんどを集めた舞踏会で、帝国皇子にしてアストラ州知事に任じられているレオンハルト殿下は胸を張り、台本でも読んでいるのではないかと思うほど抑揚のついた声で宣言した。
「よってここに! ナターシャ・ヴォルコフとの婚約を破棄する!」
──どっ、かぁん。
誰かが太鼓でも鳴らしたのかと思うほど、空気が弾けた。拍手、歓声、金切り声が入り混じり、まるで劇場のようだ。
「出たー! さすが殿下! さす殿!」
「オレたちには恥ずかしくて言えないセリフを平然と!」
「そこに痺れる! 憧れるぅ!」
見れば、殿下の半歩後ろに控える少女が、いかにもか弱そうに殿下の袖を掴み、涙目でこちらを見ている。
はいはい、男爵家の庶子でマナーに疎くて、でも心は清らかで、私にいじめられていた設定ですね。
私はゆっくりと息を吸った。
少しだけ胸が痛いけれど、脈拍は正常範囲内だ。2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37……素数もちゃんと数えられるから問題ない。
「ナターシャ! 貴様はアメリアを妬み、陰湿ないじめを」
「しておりませんわ」
講堂が一瞬静まった。
あ、しまった。もっと高飛車に、あるいはヒステリックに叫んだほうがよかったかしら。
「し、していないだと!?」
「ええ。身に覚えがございませんので」
殿下はわかりやすく狼狽えた。どうやらここで、私が高笑いしてアメリアを貶め、自分の正当性を主張する想定だったらしい。
「だ、黙れ! 証拠は揃っている! アメリアからの訴えも──」
「殿下」
私は静かに殿下を見つめた。
「ここは、婚約破棄の場でございましょう?」
また沈黙が訪れる。あら、これも予定外でしたか。
「……な、なにが言いたい!」
「でしたら、早く本題をお進めくださいませ。皆さま、お待ちですもの」
周囲からくすくすと笑い声が漏れ、誰かが「確かに」と小声で言う。殿下のこめかみが引き攣るのが見えた。
「よ、よし……ならば宣言する! 俺はアメリアを愛している! 心優しく、純真で、俺を真に理解してくれたのは彼女だけだ!」
アメリアが「殿下……!」と潤んだ声を出す。
拍手と歓声が湧き上がり、どこからか色とりどりの紙吹雪まで舞った。誰が用意したの?
「よってナターシャ、貴様との婚約は破棄! 今後、アメリアこそが私の婚約者だ! 貴様はこのアストラ州から追放する!」
今度は、私は遮らなかった。
殿下の宣言を最後まで聞き、場内が最高潮の盛り上がりを見せたところで、私はドレスの裾をつまみ、優雅に頭を下げた。
「承知いたしました」
それだけ。泣き叫ぶでもなく、失神するでもなく、平手打ちもしない。あまりにあっさりした反応に、ざわつきが一段階下がる。
「……それだけか?」
「もう少し、こう……カタルシスが欲しいというか」
「え、ざまぁ来ないの?」
観衆の期待が視線となって突き刺さる。私は顔を上げ、殿下をまっすぐに見た。
「殿下のお幸せを、お祈りいたします」
それは、嘘ではなかった。
殿下は完全に面食らった顔で、「そ、そうか……」と曖昧に頷く。
アメリアという名前らしき少女は勝ったはずなのに、殿下の袖を引っ張ったまま不安そうにこちらを見ている。
こうして、婚約破棄劇は幕を閉じた。──実に、見事な喜劇だった。
私は一人、宮殿の大広間を後にした。
背中に浴びるのは、好奇と落胆が入り混じった視線だ。
ああ、期待を裏切ってしまいましたか。申し訳ありません。
控室に戻ると、さすがに足から力が抜け、椅子に腰を落とした。
深く息を吐く。胸は、まだ少し痛い。それでいい。
ドレスを着替え、外套を羽織る。指先がわずかに震えているのを見て、私は小さく笑った。
「……役に、入り込みすぎね」
誰に聞かせるでもない独白。
控室の裏口を抜けると、人気のない回廊に出る。そこに、一人の老人が立っていた。
「ご苦労だった」
老宰相。この国で、皇帝に次いで発言力を持つ人物だ。私は立ち止まり、深い礼を執った。
「問題なく終わったようだな」
「はい。予定通りです」
「感情は?」
「……許容範囲内です」
老人はそれ以上追及せず、代わりに分厚い封筒を差し出した。
「では尋ねよう。第十六皇子レオンハルト殿下は如何に」
私は中身を一瞥し、紙を一枚だけ抜き取った。そこに記された判定は、ごく短い。
──不合格。
「やはりか」
老宰相は小さくため息をついた。
「民の喝采を、あれほど楽しんでしまってはな」
「はい」
私は頷いた。
婚約破棄という舞台、断罪という役割、正義の側に立つ快感。
それに酔った者は、例外なく次を欲しがる。
「次は、第十七皇子マティアス殿下でよろしかったでしょうか?」
「いや、マティアス殿下は先日、邪気眼に目覚められてしまい、既に不合格となった。よって、次は第十八皇子エルヴィン殿下だ。このまま殿下の治めるカストリア州へ向かえ。馬車は手配してある」
「次回は、もっと質の良いエキストラを用意していただきたいのですが。観客の演技が大袈裟すぎます」
「許せ。期待値の低い舞台の予算は削られるものだ」
そこまで告げると、老宰相は労わるような視線を向けた。
「お前も長い役目になるな」
「承知しております」
私は外套の襟を正し、回廊の奥へ歩き出す。
ひんやりとした空気に、無意識に左手が胸を押さえた。その仕草をとらえた老宰相の声が背後から追ってきた。
「……まだ、痛むか」
「ええ。少し」
それもまた、嘘ではない。
「ですが」
振り返らずに続ける。
「それを笑いものにしない皇子でなければ、皇帝にはなれませんから」
足音が、静かな回廊に響く。
今日の舞台は、終わった。次の婚約破棄は、もう別の場所で準備されている。
喜劇の仮面をかぶれる者だけが、この国の未来を測る資格を持つ。それだけの話だ。
プロフェッショナルな女性の話をオムニバスで描こうとして早々に挫折し放り出したものを、短編にしたものです。冒頭のセリフであれ? と気づかれた方がいらっしゃいましたら、ありがとうございます。特に関連はありません。




