第9話:スパルタ×泗川の戦い 〜鬼石曼子と火薬の舞〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
スパルタ王レオニダスは、仮眠の最中、奇妙な夢を見ていた。
それは、冷たい雨と泥の感覚だった。
視界が悪い。体の芯まで冷える。だが、背中には「熱」があった。
自分たちが守らねばならぬ背中。丸に十字の紋章を背負い、死に場所を求めて座り込む東洋の戦士たち。
彼らの悲壮な覚悟が、なぜかレオニダスの魂を激しく揺さぶっていた。
「……王よ! 敵襲ではありませんが、異常です!」
副官アステリオスの声で、レオニダスは現実に引き戻された。
目を開けると、そこは灼熱のテルモピュライ……ではなかった。
「……蒸すな」
レオニダスは、まとわりつくような湿気を感じて顔をしかめた。
ギリシャの乾いた熱気ではない。大陸特有の、土埃と湿気が入り混じった重苦しい熱風だ。
彼らが立っていたのは、赤土の丘の上にある、巨大な城郭の城門前だった。
「飛びましたね」
アステリオスが、慣れた手つきで槍の状態を確認する。
「今度は随分と騒がしい場所だ」
レオニダスは眼下を見下ろし、息を呑んだ。
城を取り囲む平原が、極彩色の海となっていた。
軍勢だ。それも、桁外れの。
無数の旗がはためき、銅鑼と太鼓の音が大地を揺るがしている。
その数、二十万。
地平線まで埋め尽くす人の波は、かつて対峙したクセルクセスの軍勢を彷彿とさせた。
「ペルシア軍か? いや、装束が違う」
レオニダスは目を細めた。
そして、背後の城壁に掲げられた旗を見て、心臓が早鐘を打った。
丸に十字の紋章。
ズキン、とこめかみが痛んだ。
(……なんだ? この紋章、どこかで見た気がする)
記憶にはない。俺たちは今、テルモピュライに居た。
だが、夢で見た光景か、あるいは戦士としての本能か。
その旗を見ると、腕の筋肉が勝手に脈打ち、血が騒ぐのを感じた。
『彼らは友だ』と、魂の奥底が告げている。
「……王よ。あの旗に見覚えは?」
「知らん。だが、妙に気がかりだ」
レオニダスはニヤリと笑った。
理由などどうでもいい。
目の前には二十万の敵。背後には、なぜか放っておけない小勢の友軍。
戦う理由はそれで十分だ。
「どうやら俺たちの本能が、ここの連中に『加勢しろ』と叫んでいるらしい。従うとしよう」
王は槍を掲げ、咆哮した。
「行くぞ、スパルタ人! この城門は、我らが熱き門だ!」
◇◇◇
慶長三年九月。朝鮮半島、泗川新城。
島津義弘率いる日本軍七千は、明・朝鮮連合軍二十万の大軍により、蟻の這い出る隙間もなく包囲されていた。
城内の緊張は極限に達していた。
兵糧は尽きかけ、援軍の望みは絶たれている。
城壁の外からは、明軍の挑発的な銅鑼の音と、降伏を勧告する矢文が絶え間なく降り注ぐ。
普通の武将であれば、絶望に発狂するか、潔く腹を切る状況だ。
だが、総大将・島津義弘は違った。
六十四歳の老将は、床几にどっかりと腰を下ろし、愛刀の手入れをしていた。その瞳は、獲物を前にした猛虎のように爛々と輝いている。
「殿、敵が動きました! 中軍、その数およそ十万! 大手門へ向かってきます!」
物見の報告に、家臣たちが動揺する。
しかし、義弘は不敵に笑った。
「よか。予定通りじゃ」
義弘は立ち上がり、城兵たちを見渡した。
「敵は二十万。我らは七千。……単純な計算じゃ。一人が三十人殺せば、我らの勝ちじゃ」
静まり返っていた広間に、どっと笑いが起きた。
狂気ではない。これが薩摩の兵法だ。
死を恐れぬのではない。死をも武器として使いこなす。
義弘の策は「釣り野伏せ」の応用だった。わざと城門を開け放ち、敵を城内に誘い込む。
狭い城内で大軍の利を消し、鉄砲の一斉射撃で混乱させ、その瞬間に全軍で逆突撃を敢行し、大将首のみを食い破る。
失敗すれば全滅。成功しても全滅に近い損害が出る。
だが、勝つ道はそれしかない。
「来るぞ! 構えろ!」
地響きと共に、明軍の先鋒が迫る。
巨大な攻城塔が城壁に取り付き、破城槌が城門を叩く。
ドォン! ドォン! という音が、城兵の心臓を叩く。
メキメキッ!
轟音と共に、堅牢な大手門が粉砕された。
舞い上がる土煙。その向こうから、無数の明兵が雄叫びを上げて雪崩れ込んでくる。
「門が破れたぞ! 一番乗りィッ!」
「皆殺しにしろォッ!」
義弘は刀を抜き、叫ぼうとした。「撃て!」と。
だが、その命令は喉で止まった。
破られた門の向こうに立っていたのは、明兵ではなかった。
真紅のマント。青銅の兜。そして、鋼鉄のような筋肉の鎧を纏った、異形の巨人たちだった。
先頭を走っていた明軍の兵士たちは、急ブレーキをかけた。
目の前に、壁があったからだ。
石垣ではない。青銅の盾と、筋肉で構成された、生きた壁だ。
「な、なんだこいつらは!? 倭人ではないぞ!」
「南蛮の化け物か!?」
レオニダスは、眼下に群がる明兵たちを見下ろし、鼻を鳴らした。
「列も組まず、喚き散らしながら走ってくるとは。奴隷兵以下の規律だな」
彼は、背後の城内を一瞥した。
そこには、火縄銃を構えたまま呆然としている東洋の武者たちがいた。
(……やはり、この連中だ)
レオニダスは確信した。
理屈ではない。匂いだ。
この城内の兵たちからは、スパルタ人と同じ、死と隣り合わせの修羅の匂いがする。
ならば、助けるに値する。
「王よ。どうしますか?」
アステリオスが問う。
「決まっている」
レオニダスは槍を旋回させ、切っ先を明軍に向けた。
「狭い門こそ、我らの庭だ。一人も通すな!」
王の号令一下。
ザッ!
三百の盾が隙間なく噛み合い、砕けた城門を物理的に修復した。
青銅のファランクス。
狭い城門という地形において、彼らの防御力は無限大に等しい。
「どけェッ! 雑魚どもが!」
明兵が長刀や槍で斬りかかる。
だが、全て弾かれる。傷一つつかない。
逆に、盾の隙間から毒蛇のように繰り出される長槍が、明兵の喉を正確に貫く。
城内でその様子を見ていた義弘は、呆気にとられた。
「なんじゃ、ありゃあ……?」
南蛮の傭兵か? いや、あれはただの人間ではない。鬼だ。
だが、義弘はすぐに正気を取り戻した。
敵ではない。彼らは明軍を殺している。
義弘は馬を進め、レオニダスの背中に声をかけた。
「おい! そこの赤鬼の大将! どこの手の者かは知らんが、助太刀か!」
レオニダスは振り返り、義弘の顔を見た。
(……いい面構えだ。ここの大将か)
レオニダスはニヤリと笑い、親指で明軍の大波を指差した。
「俺たちは通りすがりの客だ。だが、あの騒がしい連中が気に入らん。少し掃除を手伝ってやる」
言葉は通じない。だが、義弘にはその不敵な笑みの意味が分かった。
『背中は預けろ。お前は好きに暴れろ』と言っているのだ。
「かたじけない! 貴殿らがいれば百人力じゃ!」
義弘は采配を振り下ろした。
「鉄砲隊、前へ! 赤鬼殿の盾の間から撃ち放て!」
島津軍が誇る、千丁の種子島(火縄銃)。
それが、スパルタ兵の背後に展開した。
レオニダスは、火薬の匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。
(また、あの音だけの筒か)
スパルタ人は、遠距離から攻撃する飛び道具を「臆病者の武器」として嫌う。
だが、彼は同時に合理主義者でもあった。
圧倒的な数の敵を減らすには、この武器は悪くない。
「いいだろう。連携といこうか」
レオニダスが叫ぶ。
「盾を開け!」
号令と共に、スパルタ兵が一斉に盾を半身ずらす。
その隙間から、薩摩の銃口が黒い口を開ける。
ズドォォォォォン!!
轟音。
城門に群がっていた明兵の最前列が、薙ぎ払われるように倒れ伏す。
鉛の弾丸は、明軍の軽装鎧を容易く貫通し、背後の兵までも吹き飛ばした。
「閉めろ!」
撃ち終わると同時に、盾の壁が閉じる。
カン、カン、カン!
生き残った明兵が放った矢が、青銅の盾に虚しく弾かれる。
その安全地帯の中で、島津兵は落ち着いて弾薬を再装填する。
「よか! よかぞ!」
義弘は手を叩いて喜んだ。
火縄銃の弱点は、装填の隙だ。だが、この赤鬼たちがいる限り、その隙は存在しない。
最強の盾と、最強の矛。
無敵の移動砲台が完成していた。
明軍の指揮官・董一元は、本陣で頭を抱えていた。
「なぜだ! なぜ城門が抜けない! あの盾は何でできているんだ!」
二十万の大軍が、たった一つの門に殺到し、詰まり、死んでいく。
死体の山がバリケードとなり、さらに攻略を困難にさせていた。
レオニダスは、火薬の煙の中で笑った。
「なるほど、槍を投げる手間が省ける。悪くない」
アステリオスが弾を込める島津兵に、水を渡してやる。
言葉は通じないが、島津兵はニカっと笑って受け取る。
奇妙な連帯感が、戦場の中で芽生えていた。
その時。
明軍の後方で、天地を揺るがす大爆発が起きた。
ドカァァァァァン!!
赤黒い炎が空を焦がす。
明軍の火薬庫(茅草屯)に、島津の伏兵が火を放ったのだ。
この爆発が、戦いの潮目を変えた。
「今じゃ!」
義弘が吼えた。
「敵が浮き足立った! 機は熟した! 全軍、打って出ろ! チェストォォォッ!」
城門から、島津軍七千が一気に雪崩れ出た。
その先頭を駆けるのは、島津義弘と、レオニダス。
老将の日本刀と、スパルタ王の長槍が並び立つ。
「突撃!」
スパルタ兵が盾で敵を突き飛ばし、ボウリングのピンのように跳ね除ける。
その開かれた道を、薩摩の兵たちが狂気じみた雄叫びと共に駆け抜ける。
「逃げるな! 背中の傷は恥だぞ!」
レオニダスは逃げ惑う明兵を次々と突き伏せた。
二十万の大軍が、総崩れとなって敗走していく。
川は死体で埋まり、血で赤く染まった。
後に「泗川の戦い」として語り継がれる、島津軍の伝説的な大逆転劇である。
戦いが終わり、夕日が戦場を照らしていた。
義弘は、血刀を下げたまま、レオニダスに向き直った。
その顔には、心からの敬意と感謝が浮かんでいた。
「見事な槍働きじゃった。貴殿らがいなければ、わしらはここで土になっていただろう」
レオニダスは、兜を脱ぎ、汗を拭った。
そして、義弘の肩をバンと叩いた。
「いい戦だった。お前のような狂った指揮官は嫌いじゃない」
霧が立ち込め始めた。
別れの時だ。
レオニダスは、去り際に義弘を振り返った。
この老将は、魂の色が自分たちと同じだ。
いずれまたどこかの戦場で会う気がする。
そんな予感めいたものを感じたが、言葉にはしなかった。戦士に別れの言葉など不要だ。
「達者でな、東洋の虎よ」
レオニダスは短く告げた。
霧の中に、赤いマントの背中が溶けていく。
義弘は、その言葉の意味はわからなかった。
だが、その堂々たる背中を目に焼き付けた。
◇◇◇
明国の記録『明史』には、こう記されている。
『島津の兵は鬼のごとし。また、その先陣には、鉄壁の盾を持つ裸の巨人がおり、矢も鉄砲も通じなかった。彼らは一騎当千の神兵なり』
鬼石曼子の伝説の陰には、三百のスパルタ兵の姿があった。
鹿児島県の島津家墓地には、義弘の墓の隣に、小さな無銘の石碑が寄り添うように建っている。
その石碑には、薩摩の家紋である「丸に十字」と、ギリシャ文字の「Λ(ラムダ)」が、何故か交差するように刻まれているという。
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