第8話:スパルタ×千早城の戦い 〜知略の罠と物理の蓋〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
その日、レオニダスは「寒さ」によって目を覚ました。
あり得ないことだった。
彼らが陣取っているのは、灼熱の太陽が照りつける地中海の海岸線だ。血と脂と腐敗臭、そして焼け付くような熱気が支配する世界のはずだった。
だが、肌を刺すのは、針のように冷たく鋭い冷気だった。
「……王よ」
副官のアステリオスが、白い息を吐きながら身震いした。
彼の自慢の筋肉に、鳥肌が立っている。
「ハデス(冥府)の入り口は、氷の世界だと聞いたことがありますが……我々は死んだのですか?」
レオニダスは無言で立ち上がり、周囲を見渡した。
霧だ。だが、海霧ではない。
山の精霊が吐き出したような、冷厳な白霧が森を覆っている。
足元には、霜柱が立った黒い土。頭上には、葉を落とした巨木が亡霊のように枝を広げている。
そして、彼らが立っている場所は、切り立った断崖絶壁の頂上だった。
「山だな」
レオニダスは断じた。
「それも、とびきり険しい山だ。空気が薄い」
彼は崖の縁に立ち、眼下を覗き込んだ。
霧の切れ間から、遥か下方に無数の焚き火が見える。そして、豆粒のような兵士の群れが、山裾を埋め尽くしているのが見て取れた。
その数、数万。いや、十万に届くかもしれない。
「ペルシア軍か? また随分と数を揃えたものだ」
レオニダスは鼻を鳴らした。
そして、振り返る。
彼らの背後には、粗末な木の柵と、急造された櫓が建っていた。
砦だ。それも、山の地形を巧みに利用した、天然の要塞。
「状況は明白だ」
王はマントを巻き直し、寒さを払いのけるように槍を構えた。
「我々は包囲されている。敵は下に十万。こちらは三百。……いつもの仕事場よりも寒いが、やることは変わらん」
その時、砦の中から、聞き慣れない言葉の怒号と、何か巨大なものが転がる地響きが響いてきた。
◇◇◇
元弘三年二月。河内国、金剛山。千早城。
後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成は、わずか千人の手勢と共に、この山城に籠もっていた。
対するは、鎌倉幕府軍十万。
常識で考えれば、一日で落ちる兵力差である。だが、戦いはすでに数十日続いていた。
「落とせェッ! 一気に登り切れェッ!」
幕府軍の将が叫ぶ。
蟻の群れのように斜面を登ってくる敵兵たち。彼らは梯子をかけ、我先にと城壁に取り付こうとする。
櫓の上で、楠木正成は静かに采配を振った。
彼は、源義経や武田信玄のような猛将ではない。兵法書を読み込み、地形を知り尽くした「戦術の鬼」である。
彼の目は、戦場全体を盤上の駒として捉えていた。
「今だ。落とせ」
正成の合図と共に、城兵たちが綱を切った。
ズドオオオォォォッ!
轟音と共に落下したのは、巨木と巨石だった。
あらかじめ集めておいた大木や、漬物石ほどの大きさの岩が、雪崩のように急斜面を転がり落ちる。
密集して登ってきていた幕府兵たちは、避ける術もなく弾き飛ばされた。
「ひ、ひぃぃッ! 岩だ! 山が降ってくるぞ!」
悲鳴を上げて逃げ惑う敵兵。
だが、正成の手は緩まない。城壁に取り付いた者たちへの次なる一手。
「次は湯だ。冷えた体を温めてやれ」
城壁の上から、煮えたぎった熱湯が、柄杓で豪快に撒かれる。
ジュワアァァッ!
湯気が立ち上ると同時に、断末魔の叫びが上がる。
「ぐあぁぁぁッ! 熱いッ!」
鎧の隙間に熱湯が入り込み、皮膚を焼く。火傷を負った兵士たちが、梯子から転げ落ちていく。
正成は、口元に薄い笑みを浮かべた。
「戦に綺麗事はいらぬ。あるものは全て使え。石も、木も、水も、全てが武器よ」
だが、彼は知っていた。
この奇策も、長くは続かないことを。
城内の水は確保できているが、兵たちの疲労は限界に近い。幕府軍は無尽蔵に兵を送り込んでくる。
正面の城門を突破されれば、このゲリラ戦術も無意味となる。
「正成様! 大手門の方角より、新たな敵影!」
物見の兵が叫んだ。
「幕府の精鋭部隊か?」
「いえ、それが……見たこともない、裸の……巨人たちです!」
「裸の巨人?」
正成は眉をひそめた。
山伏か、あるいは山の神か。
彼は急ぎ大手門へと向かった。そこで彼が目にしたのは、幕府軍の甲冑よりも遥かに異様な、真紅のマントを羽織った三百人の戦士たちだった。
レオニダスは、眼下の凄惨な光景を眺めていた。
巨石に潰され、熱湯に焼かれ、転げ落ちていく無数の兵士たち。
華々しい一騎打ちなどない。あるのは、地形と物理法則を利用した、一方的な「処理」だった。
「……容赦がないな」
アステリオスが呟く。
「王よ、ここの指揮官は、戦を楽しんではいませんね。ただ、勝つことだけに徹している」
「ああ。だが、嫌いではない」
レオニダスは、冷静に分析した。
「敵は大軍。まともにぶつかれば押し潰される。なりふり構わず『時間を稼ぐ』という点において、我々のテルモピュライと目的は同じだ」
スパルタ人は、名誉ある死を尊ぶ。
だが同時に、国家を守るためならば手段を選ばぬ冷徹さも持っている。
この城の戦い方には、戦士としての美学よりも、守護者としての執念が感じられた。
その時、城門が開き、一人の武将が現れた。
烏帽子を被り、質素だが手入れの行き届いた鎧を着た男――楠木正成だ。
正成は、目の前の異国人たちを見上げ、警戒しつつも声をかけた。
「何者だ。六波羅の差し金か?」
レオニダスは、正成の目を見た。
知性の光が宿っている。そして、その奥にある、決して折れぬ鉄の意志。
(……この男が、この山の王か)
レオニダスは、自身の円盾を地面に突き立て、ニヤリと笑った。
「我らは迷い人だ。だが、通りかかった以上、無粋な連中の相手をしてやってもいい」
言葉は通じない。だが、レオニダスは槍を掲げ、城門を指差し、そして自らの胸を叩いた。
『この門は、俺たちが守る』という意思表示。
正成は、一瞬にして理解した。
この男たちは、敵ではない。
そして、ただの援軍でもない。
彼らの肉体、構え、隙のない陣形。
(……強い。一騎当千どころではない。この三百人で、万の軍勢を支えられる器だ)
正成は、賭けに出た。
彼は扇を閉じ、レオニダスに向かって深く一礼した。
「かたじけない。貴殿らに、大手門の守りを任せたい」
そして、城内を指差して言った。
「私は中で策を巡らす。正面の『蓋』を頼む」
レオニダスもまた、ニヤリと笑い返した。
「安心しろ。門番は慣れている。ただし、俺たちの盾の前には岩を落とすなよ。邪魔だ」
奇妙な同盟が成立した。
知略の神と、筋肉の壁。
千早城の伝説が、ここからさらに加速する。
翌朝。
幕府軍は総攻撃を開始した。
狙いは、城の正面、大手門。
側面からの攻撃が岩と熱湯で阻まれた今、正面突破こそが唯一の道だと判断したのだ。
「かかれェッ! 押し潰せェッ!」
数千の兵が、城門へ続く一本道に殺到する。
だが、そこに立ちはだかったのは、日本の城門には似つかわしくない、青銅の輝きだった。
三百人のスパルタ兵が、城門の前に何重もの列を作り、ファランクス(密集陣形)を展開していたのだ。
「なんだあれは? 裸の男たちだぞ!」
「構わん、突き殺せ!」
幕府兵が槍を突き出す。
ガギィン!
スパルタの盾は、和鉄の穂先を軽々と弾き返した。
「押し返せ!」
レオニダスの号令。
スパルタ兵が一斉に踏み込む。
狭い山道において、彼らの「壁」は絶対的だった。
幕府兵は押され、バランスを崩し、次々と崖下へ転落していく。
「硬い! 岩のように動かん!」
攻めあぐねる幕府軍。
その様子を、櫓の上から見ていた正成は、感嘆の息を漏らした。
「素晴らしい。あれこそ、真の『城壁』よ」
彼らが正面を完全に封鎖してくれているおかげで、正成は他の策に集中できる。
「よし、次の手だ。人形を出せ」
城壁の上に、数十体の「兵士」が現れた。
鎧を着て、弓を構えている。
遠目には完全に人間の武者に見えるが、その正体は藁人形だ。
「敵が出たぞ! 射殺せ!」
幕府軍の弓隊が、一斉に矢を放つ。
ヒュンヒュンと音を立てて、数千本の矢が人形に突き刺さる。
人形は倒れない。
「なんだあいつらは!? 不死身か!?」
「ば、化け物だ!」
矢が尽きるまで撃たせたところで、正成は采配を振った。
「回収せよ」
城兵たちが笑いながら人形を引き上げる。そこには、敵から「補給」してもらった大量の矢が刺さっていた。
「矢の蓄えができたな。礼をせねばなるまい」
今度は、本物の射手たちが、回収した矢を幕府軍に撃ち返す。
正面ではスパルタの壁に阻まれ、頭上からは矢と岩が降り注ぐ。
幕府軍にとって、千早城は登ることのできない針の山と化した。
レオニダスは、頭上で展開される正成の策を見て、呆れつつも感心していた。
「人形を囮にして矢を奪うとはな。オデュッセウスのような知恵者だ」
アステリオスが盾で敵を殴り飛ばしながら答える。
「王よ。あの人形、我々も使えませんか?」
「我々は隠れる必要はない。だが……」
レオニダスは、ふと思いついた。
彼は、近くに落ちていた藁人形の一つを拾い上げ、自分の隣に立てかけた。
そして、盾の影に隠れた。
幕府兵が「隙あり!」と人形に斬りかかる。
その瞬間、レオニダスが横から飛び出し、短剣を敵の喉に突き立てた。
「残念だったな。藁の方が強そうだぞ」
スパルタ兵たちも真似を始めた。
人形と筋肉が入り乱れるカオスな防衛線。
幕府兵は、どれが人間でどれが人形かもわからず、疑心暗鬼の中で次々と狩られていった。
戦いは、百日近く続いたといわれる。
だが、幕府軍十万は、ついに千早城の門をくぐることすらできなかった。
兵糧は尽きかけ、士気は地に落ち、脱走兵が相次いだ。
ある朝、幕府軍の陣営から撤退の合図となる太鼓が鳴り響いた。
諦めたのだ。
圧倒的な大軍が、わずかな守備兵に敗北した瞬間だった。
千早城の城内には、歓声が響き渡った。
正成は、ボロボロになった鎧を脱ぐことも忘れ、大手門へと走った。
そこには、血と脂と泥にまみれた、三百人のスパルタ兵が立っていた。
彼らは激戦の最中も、ついに一人の死者も出さなかった。
「……見事だ」
正成は、レオニダスの前に進み出た。
「貴殿らがいなければ、この城は三日と持たなかっただろう。これぞ、天下一の武勇」
レオニダスは、兜を脱ぎ、汗を拭った。
白い呼気が、冬の空に昇っていく。
「礼はいらん。良い運動だった」
王は、正成の肩をバンと叩いた。
「お前の戦い方はエグいが、嫌いではない。国を守るというのは、綺麗事ではないからな」
正成は、その言葉の意味を不思議と理解した。
(国を守る、か……)
正成の脳裏に、後醍醐天皇の顔が浮かぶ。
彼にとっての戦いは、帝のためのもの。そのためなら、泥水を啜ることも厭わない。
目の前の異国の王もまた、何か大きなものを背負って戦っているのだと感じた。
「酒はあるか?」
レオニダスがジェスチャーで問う。
「ああ、勝利の美酒がある。山ほどのな」
正成が笑う。
その夜、千早城では盛大な宴が開かれた。
日本の武士と、スパルタの兵士たちが、言葉の壁を越えて酒を酌み交わした。
藁人形の真似をして笑う者。筋肉を見せ合って力比べをする者。
束の間の平和。
翌朝、霧が晴れると、スパルタ兵たちの姿はどこにもなかった。
彼らは報酬も求めず、名も告げず、風のように去っていった。
正成は、誰もいない大手門に立ち、深々と頭を下げた。
鼻当てが長く伸び、頭頂部に赤い鶏冠のような飾りがついた、異形の兜。
正成はそれを拾い上げ、夕日にかざした。
「……天狗、か」
山の神が助けてくれたのか、それとも異国の亡霊だったのか。
正成は兜を城内の祠に納め、深く一礼した。
「さらばだ、鼻高の友よ」
◇◇◇
時代は下り、現代。
大阪と奈良の県境、金剛山。
この山には古くから「天狗伝説」が語り継がれている。
『金剛山の天狗は、顔が赤く、鼻が高く、筋肉隆々の大男であり、悪人を懲らしめる』
地元の祭りで使われる天狗の面は、一般的な天狗よりも鼻が太く直線的で、頭には独特の扇状の飾りがついているのが特徴である。
歴史学者たちは、これを「修験道の影響」と説明してきた。
しかし、近年行われた千早城跡の発掘調査で、その定説を覆す発見があった。
本丸跡の地下深くから、酸化して緑色に変色した金属片が出土したのだ。
成分分析の結果、それは日本刀の鋼ではなく、地中海沿岸部で紀元前に製造された「青銅」であることが判明した。
さらに、復元されたその形状は、古代ギリシャの重装歩兵が用いた「コリント式兜」と酷似していたのである。
なぜ、鎌倉末期の日本の山城に、古代ギリシャの兜が埋まっていたのか。
そして、なぜ金剛山の天狗は、ギリシャの戦士と同じ顔をしているのか。
その答えを知る者はいない。
ただ、地元の古老たちは、風の強い夜にはこう言う。
「今夜は天狗様が宴会をしておる。酒と、臭いスープの匂いがする」と。
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