第7話:スパルタ×川中島の戦い 〜軍神の車懸りと不動の円陣〜
紀元前四八〇年。テルモピュライ。
灼熱の太陽が消えた。
レオニダスは、不意に肌寒さを感じて目を開けた。
そこは、真っ白な闇の中だった。
視界が効かない。自分の手を伸ばしても、指先が霞むほどの濃霧。
鼻をつくのは、乾いた砂埃と血の匂いではなく、湿った草と、冷たい川の匂いだった。
足元の感触は、柔らかい泥土。
どこからか、冷たい水が流れる音がする。
「……またか」
レオニダスは、もはや驚きもしなかった。
神々の悪戯か、あるいはハデスの気まぐれか。戦場の只中から、別の戦場へ。
だが、今回の場所は厄介だ。
「王よ。何も見えません」
副官のアステリオスが、霧の中で声を潜める。
「敵の気配はありますが、数が読めません。ただ、殺気だけが濃密に漂っています」
レオニダスは頷き、耳を澄ませた。
静寂。
だが、それは平和な静けさではない。何千、何万という人間が、息を殺して潜んでいる気配だ。
時折、金属が触れ合う微かな音と、馬の鼻息が聞こえる。
ズシン、ズシン……。
そして、地面を伝って響く、規則正しい振動。
何かが近づいている。
ゆっくりと、しかし確実に。巨大な質量を持った「死」の行軍が、霧の向こうから迫ってくる。
「盾を構えろ」
レオニダスは静かに命じた。
「陣形は円陣。全方位を警戒せよ。見えぬ敵には、動かぬことが最大の防御だ」
ザッ。
三百のスパルタ兵が、背中合わせに円を作り、盾を構える。
白い霧の中に、青銅の要塞が出現した。
◇◇◇
永禄四年九月十日。早朝。川中島、八幡原。
「越後の龍」上杉謙信は、愛馬・放生月毛の背で、静かに白檀の数珠を繰っていた。
頭には白頭巾。身には白銀の鎧。
その姿は、戦場に降り立った毘沙門天の化身そのものであった。
「……見えたぞ」
謙信は、霧の向こうを見据えた。
宿敵・武田信玄の策、「キツツキ戦法」。別動隊に妻女山を攻撃させ、下山した上杉軍を本隊が待ち受けて挟撃する策。
だが、その策は読めていた。
謙信は夜陰に乗じて妻女山を下り、雨宮の渡しを越え、信玄の本陣の目の前に布陣していたのだ。
現在、武田本隊は八千。上杉軍は一万三千。
別動隊が戻ってくるまでの数刻、上杉軍は数的優位にある。
この一瞬に全てを賭ける。
「全軍、かかれ」
謙信の声は、静かだが、戦場全体に響き渡るような透徹な響きを持っていた。
「陣形は『車懸り(くるまがかり)』。休むことなく攻め立て、武田の菱を砕け」
車懸りの陣。
それは、軍神・上杉謙信のみが統率し得る、必殺の機動戦術である。
部隊を風車の羽根のように配置し、次々と敵陣に突撃させ、一撃離脱しては後方へ下がり、間髪入れずに次の部隊が突撃する。
まるで回転する巨大な鋸のように、敵を削り続ける無限の波状攻撃。
「毘沙門天の加護ぞ! 我に続けェッ!」
先鋒の柿崎景家が吼える。
上杉の精鋭たちが、白い霧を切り裂いて突撃を開始した。
目指すは武田信玄の本陣。
だが。
霧が晴れかけたその時、先鋒の柿崎は目を見開いた。
そこにいたのは、武田の「武田菱」の旗ではなかった。
見たこともない、真紅のマントを羽織った、半裸の巨人たちだった。
「な……なんだ、あれは!?」
柿崎は驚愕した。
武田の伏兵か? いや、南蛮の鬼か?
彼らは円形に盾を構え、霧の中で不気味なほど静止している。
(……鬼門が開いたか)
謙信は、動じなかった。
信心深い彼は、この戦場に魔性のものが現れたとしても、それは毘沙門天が与えた試練だと解釈した。
あるいは、信玄めが魂を売って呼び出した地獄の防人か。
「構わん。魔道ごとき、我が正道の前には塵に等しい」
謙信は軍配を振り下ろした。
「車輪を回せ。轢き潰せッ!」
「来るぞ!」
レオニダスが叫ぶと同時に、霧の中から騎馬と足軽の混成部隊が飛び出してきた。
彼らは奇妙な言葉を叫びながら、猛烈な勢いで突っ込んでくる。
ドォォォン!
最初の激突。
上杉軍の槍が、スパルタの盾を叩く。
だが、スパルタ兵は一歩も下がらない。彼らのファランクスは、大波を受け止める防波堤のごとく堅牢だ。
「硬いッ!」
上杉兵が驚愕する。
普通の足軽なら吹き飛ぶ衝撃を、この裸の男たちは顔色一つ変えずに受け止めた。
そして、盾の隙間から鋭い突きを繰り出し、上杉兵を串刺しにする。
だが、レオニダスは違和感を覚えた。
敵が、すぐに引いていくのだ。
「……逃げたか?」
アステリオスが首を傾げる。
突撃してきた敵部隊は、一撃を加えるや否や、左右に散開して後退していく。
スパルタ人にとって、背中を見せて逃げるのは恥ずべき行為だ。
「腰抜けめ。ペルシア兵の方がまだ粘るぞ」
しかし、その嘲笑はすぐに凍りついた。
逃げた敵の背後から、既に「次の部隊」が突っ込んできていたのだ。
ドォォォン!
二度目の衝撃。
新品の槍、元気な馬、殺気に満ちた兵士たち。
さっき戦った連中とは違う、無傷の部隊だ。
彼らもまた、激しく攻め立て、そしてサッと引いていく。
そして、また次の部隊が現れる。
「なんだ、これは……?」
レオニダスは戦慄した。
敵が途切れない。
まるで、巨大な車輪が回転しているかのように、常に「元気な兵士」だけが正面に送り込まれてくる。
疲弊した敵を殺そうとしても、その時にはもう敵は入れ替わっているのだ。
「王よ! これでは休む暇がありません!」
アステリオスが悲鳴を上げる。
スパルタ兵は強靭だが、生身の人間だ。
対して、上杉軍の「車懸り」は、部隊を交代させることで常に体力満タンの状態を維持している。
息切れしたスパルタ兵の盾に、次々と新鮮な殺意が叩きつけられる。
削られる。
物理的に、体力が、盾の耐久力が、ガリガリと削り取られていく。
「回転する戦列か……! 東洋には恐ろしい戦術家がいるものだ!」
レオニダスは、敵将の知略に感嘆し、そして笑った。
「面白い。持久戦なら望むところだ! スパルタの筋肉と、貴様らの車輪、どちらが先に摩耗するか勝負しようではないか!」
「ウー! ハー!」
スパルタ兵が雄叫びを上げ、盾を押し返す。
回転する刃と、不動の岩。
川中島の霧の中で、物理法則の限界を試すような消耗戦が始まった。
戦況は膠着していた。
上杉軍の車懸りは、確かにスパルタ軍の体力。削っていたが、突破には至っていなかった。
あの赤マントの集団は異常だった。
何度突撃しても、どれだけ叩いても、壁が崩れない。
それどころか、交代の隙を狙って槍を投げ、確実に上杉兵の数を減らしている。
本陣で戦況を見ていた謙信は、眉をひそめた。
「……武田の菱(守り)は硬いが、あれは異質だ。人の技ではない」
謙信は、直感した。
あれは、ただの兵士ではない。
この地を守るために現れた、金剛力士(仁王)の類であると。
「ならば、神には神が相手をするしかあるまい」
謙信は、太刀『小豆長光』を抜いた。
白頭巾をなびかせ、愛馬を駆る。
軍神自ら、最前線へと躍り出た。
「退けい! 毘沙門天が通る!」
謙信の気迫に、味方の兵さえも道を開ける。
車懸りに割り込み、単騎、スパルタの円陣へと突入した。
「む?」
レオニダスは、敵の陣が割れ、一騎の武者が突っ込んでくるのを見た。
白い頭巾。白い鎧。女のように美しい顔立ちだが、その瞳には凍てつくような殺気が宿っている。
(……大将か)
一目でわかった。この回転する軍団の団長だ。
謙信は、馬上からレオニダスを見下ろした。
半裸の巨漢。全身に矢を受け、血にまみれながらも、岩のように立つ男。
「貴様が、この魔境の門番か」
謙信の澄んだ声が響く。
「我は上杉輝虎。信玄という悪鬼を討つため、まかり通る。その門、開けてもらおうか」
レオニダスには言葉は通じない。
だが、目の前の武者が、自分を「障害物」として認識し、排除しようとしていることはわかった。
レオニダスは槍を捨て、腰の短剣を抜いた。
盾を構え、ニヤリと笑う。
「通行料がいるぞ、白い踊り子よ」
刹那。
謙信の太刀が閃いた。
「ええいッ!」
神速の袈裟斬り。
レオニダスは盾で受ける。
ガギィン!
重い衝撃が左腕に走る。ただの斬撃ではない。気合の乗り方が違う。
謙信は止まらない。
「ヤァッ! トォッ!」
馬上から、嵐のような連撃を繰り出す。
盾の上、横、下。変幻自在の太刀筋は、まさに流れる水の如し。
レオニダスは防戦一方になるが、その防御は鉄壁だった。
盾の角度を微妙に変え、斬撃を滑らせ、威力を殺す。
「ほう……我が太刀をことごとく弾くか」
謙信は目を細めた。
「見事だ。やはり貴様、只人ではないな。西方の守護神か?」
「よく喋る男だ」
レオニダスは、相手の呼吸を読んだ。
馬上の敵に対し、歩兵は不利。だが、懐に入れば別だ。
謙信が大上段に振りかぶった瞬間、レオニダスは盾を捨てて飛び込んだ。
タックル。
巨体が馬の首に激突する。
放生月毛がバランスを崩し、謙信が体勢を崩す。
そこへ、レオニダスの短剣が突き出される。
謙信は、とっさに太刀でそれを受け止めた。
カァン!
至近距離。
軍神の白頭巾が落ち、乱れた黒髪から鋭い視線が射抜く。
スパルタ王の髭面が、獣のように嗤う。
「……よい面構えだ」
謙信は呟いた。
信玄以外に、これほど魂を震わせる敵がいるとは。
その時。
遠くから、法螺貝の音が響き渡った。
妻女山へ向かっていた武田の別動隊が、背後から迫っている音だ。
そして、霧が晴れ始めた向こう側、八幡原の彼方から、本物の「武田菱」の旗が見え始めた。
武田信玄の本隊が、鶴翼の陣を敷いて待ち構えている。
謙信は、ハッとして馬を立て直した。
(……時は過ぎたか)
車懸りの陣は、短期決戦のための戦術。
この謎の鬼神たちに時間を費やしすぎた。今から信玄の本陣を抜くには、時間が足りない。挟撃されれば、上杉軍が危うい。
謙信は、悔しげに唇を噛んだが、すぐに表情を戻した。
彼は太刀を収め、レオニダスに向き直った。
そして、馬上から優雅に一礼した。
「楽しかったぞ、西方の鬼よ。貴様との手合わせ、信玄の首に勝るとも劣らぬ手土産であった」
レオニダスもまた、殺気を収めた。
敵が引く気配を見せたからだ。
それに、霧が晴れていくにつれ、自分たちの体が透け始めているのを感じた。
この世界での滞在時間が終わるらしい。
「もう終わりか? 踊り足りないようだが」
レオニダスは肩をすくめた。
謙信は、腰に下げていた竹筒をレオニダスに投げた。
中身は、越後の酒だ。
「とっておきの酒だ。貴様らのような豪傑にこそ相応しい。……さらばだ!」
謙信は馬首を返し、全軍に撤退を命じた。
「全軍、犀川を渡り、引くぞッ!」
疾風のように去っていく上杉軍。その背中は、鮮やかで、美しかった。
レオニダスは、投げられた竹筒を受け取り、栓を開けた。
強烈な酒の匂い。
一口煽ると、喉が焼けるような熱さが広がった。
「……悪くない」
霧が完全に晴れた時、スパルタ軍の姿は消えていた。
残されたのは、無数の蹄の跡と、激しい戦闘の痕跡。
そして、何も知らない武田信玄の本隊だけが、ポツンと取り残されていた。
後に、武田軍の将兵は首を傾げたという。
「上杉は一体、何と戦っていたのだ?」
地面は耕されたように荒れ、折れた槍や矢が散乱しているのに、敵の死体が一つもない。
◇◇◇
第四次川中島の戦い。
歴史上は「謙信が信玄の本陣に切り込んだ」とされるこの戦いだが、越後の古文書には、謙信が晩年、こう書き残した記述がある。
『川中島の霧の中には、毘沙門天の使い番たる、赤きマントの巨人が住まう。その盾は山のごとく、その槍は雷のごとし』
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




