第6話:スパルタ×一ノ谷の戦い 〜空から降る騎馬と崖下の槍〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
世界が、熱病に浮かされたように歪んだ。
スパルタ王レオニダスは、三日三晩続いた殺戮の果てに、その感覚を味わった。
ペルシア軍の放つ矢が太陽を覆い隠し、灼熱の空気が肺を焼く。だが、次の瞬間、その熱気が嘘のように引いていった。
足元の硬い岩盤の感触が消え、ジャリッという湿った砂利の感触へと変わる。
鼻をつくのは、血と脂の腐臭ではなく、冷たく澄んだ潮の香り。
霧が晴れた時、スパルタ軍三百人は、見知らぬ海岸線に立っていた。
目の前には、鉛色の海が広がっている。
そして背後には、天を衝くような断崖絶壁がそびえ立っていた。
高さは数百メートルあろうか。猿でさえ足を滑らせそうな垂直の壁が、背後を完全に塞いでいる。
「……ほう」
レオニダスは、その絶望的な地形を見上げ、口元を歪めた。
「悪くない」
常人ならば逃げ場のない「袋の鼠」と嘆く場所だ。だが、スパルタ人にとっては違う。
「前は海、後ろは壁。これなら背後を突かれる心配はない。正面の敵を殺すことだけに集中できる」
究極の背水の陣。それは同時に、最強の防御陣地でもあった。
「王よ、あれを」
副官のアステリオスが、海岸線の彼方を指差す。
数千、いや数万の軍勢が、横一列に陣を敷いている。彼らは皆、鮮やかな赤旗を掲げていた。
「あそこに見えるのがペルシア軍か。赤旗とは珍しい」
「我々のマントと同じ色だな」
アステリオスが苦笑する。
「味方と間違われませんか?」
「構わん。スパルタの盾の前に立つ者は、すべからく敵だ」
レオニダスは槍の石突で地面を叩き、隊列を整えさせた。
ここがどこかは知らんが、やることは変わらない。
壁を背にし、前から来る敵を串刺しにする。単純明快な仕事だ。
だが、その時。
パラパラ、と頭上から小石が落ちてきた。
最初は風のせいかと思った。だが、すぐに小石は拳大の石となり、続いて地鳴りのような重低音が響き始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
雷鳴ではない。何かが、空の高い所から「駆けてくる」音だ。
「……王よ、上が騒がしいのですが」
「気のせいだ」
レオニダスは一蹴した。
「あそこは道ではない、壁だ。鳥か、神々の使いでもなければ通れん」
直後。
頭上の茂みが裂け、茶色い影が飛び出した。
一頭の鹿だ。
鹿は驚異的なバランス感覚で斜面を滑り降り、スパルタ兵の目の前に着地すると、驚いて海の方へ逃げ去った。
「……鹿?」
レオニダスが眉をひそめた、その瞬間だった。
鹿よりも遥かに巨大で、遥かに重い「質量」の気配が、空を覆った。
見上げれば、太陽を背にして、無数の黒いシルエットが落下してくるところだった。
◇◇◇
寿永三年/治承八年二月。一ノ谷、鵯越の頂上。
寒風吹きすさぶ断崖の縁で、源九郎義経は狂喜していた。
「見ろ弁慶! 崖下に敵の主力がおるぞ!」
義経の視線の先、遥か彼方の海岸線に、へばりつくように陣取った「真っ赤な集団」が見えていた。
朝日に輝く青銅の輝きと、血のような真紅のマント。
義経には、それが平家の精鋭部隊に見えた。
「なんと派手な赤備え! あれこそ平家の本陣、あるいは総大将の近衛に違いない! あそこを叩けば勝負ありだ!」
「九郎判官殿、お待ちください!」
巨漢の荒法師、武蔵坊弁慶が顔色を変えて立ちはだかった。
「あそこへ行くには、この崖を降りねばなりません! 見てください、ほぼ垂直ですぞ! 人間でも足がすくむというのに、馬などで降りれば人馬諸共挽肉になります!」
「甘いな、弁慶。お前の目は節穴か」
義経は、先ほど駆け下りていった鹿の足跡を指差した。
子供のような無邪気さと、底知れぬ狂気を瞳に宿して、彼は言い放った。
「鹿を見なかったか? 鹿は四本足だ。馬も四本足だ。鹿が行けるなら、馬も行ける! 道理だ!」
「道理になっていません!」
「それに、敵も『ここからは来ない』と油断しているはず。そこを突くのが戦の極意よ!」
義経は聞く耳を持たなかった。
彼の頭の中では、既に勝利の絵図が描かれていた。
常識という壁を、物理的な速度で突破する。それが源義経という男の戦い方だった。
彼は愛馬・太夫黒の首を優しく撫でた。馬は恐怖で泡を吹き、白目を剥いているが、義経は気にも留めない。
「行けるな? お前なら飛べるな? 我らは風になるのだ」
義経は采配を振り下ろした。
「者共、続けェェッ! 遅れる者は置いていくぞ!」
「南無八幡大菩薩! 駆けろォォォッ!」
義経が馬腹を蹴った。
太夫黒が、悲鳴のような嘶きと共に宙に躍り出る。
続いて、数十騎の坂東武者たちが、半ばヤケクソの雄叫びを上げながら、奈落の底へと身投げした。
それは奇襲というより、集団投身自殺に近い光景だった。
だが、彼らは落ちていくのではない。
重力をねじ伏せ、敵の喉元へ喰らいつくために「降って」いくのだ。
レオニダスは、生れて初めて自分の目を疑った。
空から、馬が降ってきたのだ。
一頭ではない。数十頭。
それらが雪崩のような砂煙を巻き上げ、重力の加速を乗せて、自分たちの頭上へと一直線に突っ込んでくる。
「馬鹿な……!?」
歴戦のスパルタ王も、この光景には絶句した。
ペルシアの戦車隊でも、巨象部隊でも、こんな方向――「真上」から攻めてくる奴はいなかった。
これは戦争ではない。天変地異だ。
だが、スパルタの訓練は思考よりも先に体を動かす。
「総員、対空防御ォッ!密集隊形を作れェェッ!」
王の絶叫が、海岸に轟いた。
呆然としていたスパルタ兵たちが、瞬時に反応する。
彼らは密集し、巨大な円盾を頭上に掲げた。隣の兵の盾と縁を重ね合わせ、隙間をなくす。
一瞬にして、海岸線に巨大な「青銅の亀の甲羅」が出現した。
直後。
衝撃が走った。
ズドォォォォォン!!
隕石が衝突したかのような轟音。
義経率いる騎馬隊が、スパルタの亀甲陣の上に「着地」したのだ。
馬の蹄が青銅の盾を叩き、火花が散る。
数百キロの肉塊が、時速数十キロで激突する衝撃。
「ぐぅッ……!」
数名のスパルタ兵が、馬の重量に耐えきれず膝を折り、腕の骨をきしませた。
だが、陣形は崩壊しなかった。
彼らは互いの肩で支え合い、筋肉の鎧で衝撃を吸収したのだ。
「痛ってェェ!」
アステリオスが叫ぶ。盾の上で馬が暴れている感触が伝わってくる。
「王よ! 馬です! 空から馬が降ってきました! ペガサスの群れですか!?」
「見ればわかる! 押し返せ! 屋根の上で運動会をさせるな!」
盾の上には、奇跡的に着地を成功させた義経が乗っていた。
彼は揺れる足場(盾)の上で、馬を巧みに操り、太刀を振りかざした。
馬の脚が折れなかったのは、スパルタの盾が適度なクッションになったからか、あるいは義経の悪運か。
「やあやあ! 我こそは源九郎義経なり! 平家の赤備えと見たり、覚悟ォッ!」
義経は、足元の「床」が生き物のように蠢いていることに驚愕した。
岩盤だと思っていたが、これは盾だ。
数百人が盾を掲げ、その上で暴れる騎馬隊を支えているのか?
人間業ではない。まるで青銅でできた巨大な百足の上にいるようだ。
「こやつら、平家の兵か!?」
足元の隙間から、半裸の巨人が槍を突き上げてくる。
シュッ! と風を切る鋭い突き。
義経は馬上で身をひねり、紙一重で槍を回避した。
太刀を振るうが、盾の表面が硬すぎて刃が通らない。カキン、と乾いた音がして弾かれる。
「ええい、邪魔だ! そこをどけ!」
義経は馬から飛び降りた。馬上で戦うには足場が悪すぎる。
彼は「八艘飛び」の要領で、スパルタ兵の盾から盾へと軽やかに飛び移った。
天狗のような身軽さで、亀甲陣の上を疾走し、指揮官と思しき兜の男――レオニダスを目指す。
レオニダスは、頭上の騒がしい羽虫の気配を察知した。
「盾を解け!」
号令と共に、スパルタ兵が一斉に盾を開く。
足場を失った義経が空中に投げ出される。
だが、義経は空中で体をひねり、猫のように回転して、レオニダスの目の前に着地した。
砂煙が晴れる。
至近距離で、二人の視線が絡み合う。
小柄だが俊敏な日本の天才と、岩のような威圧感を放つスパルタの王。
「とったァッ!」
義経の太刀が閃く。神速の袈裟斬り。
レオニダスは、とっさに槍の柄でそれを受け止める。
ガギィン!
重い金属音と共に、火花が散る。
「……空から降ってくるとはな」
レオニダスは、腕に伝わる痺れを楽しみながらニヤリと笑った。
「ペルシアの軽業師か? 肝が据わっている。それに、いい太刀筋だ」
「言葉が通じぬか! だが、その面構え、平家の公達ではないな!」
義経もまた、獰猛な笑みを浮かべた。
誤解だらけの遭遇。
だが、互いに「こいつは最高に手強い」という一点のみで、魂が共鳴していた。
その時、少し離れた場所に陣取っていた「本物の」平家軍が、ようやく騒ぎに気づいた。
彼らは呆然としていた。
崖の上から源氏の騎馬隊が降ってきて、海岸にいた謎の武装集団と乱戦を始めたのだ。
「な、なんだ!? 崖下で仲間割れか!?」
「いや、あれは源氏の白旗! 奇襲だ! 放てッ、矢を放てッ!」
ヒュルルル……!
平家軍からの矢の雨が、義経とレオニダスの間に降り注ぐ。
レオニダスは舌打ちした。盾で矢を弾きながら、平家軍を睨みつける。
「あっちにも敵がいるのか。面倒な場所だ。俺とコイツの決闘に水を差すとはな」
彼は義経を盾で弾き飛ばし、距離を取った。
そして、平家軍の方へ槍を向け、アゴでしゃくった。
「おい、軽業師。お前の相手は後だ。まずはあの煩い連中を片付ける」
義経もまた、飛んできた矢を切り払いながら、状況を理解した。
目の前の赤鬼は、敵ではない。少なくとも、今の敵ではない。
「ふん、獲物の取り合いか。望むところよ!」
義経は指笛を吹いた。
暴れていた愛馬・太夫黒が、主人の元へ駆け寄る。
義経は飛び乗ると、刀を掲げた。
「行くぞ赤鬼! 遅れるなよ!」
レオニダスは鼻を鳴らし、部下たちに号令をかけた。
「ファランクス(密集陣形)! あの船持ちどもを海へ叩き落とせ!」
スパルタ軍と源氏軍。
対立していた二つの勢力は、共通の敵を前に、なし崩し的に雪崩れ込んだ。
一ノ谷の海岸線は、空から降ってきた騎馬隊と、地から湧いた重装歩兵によって粉砕された。
戦いの後、義経はあの赤い巨人たちを探したが、彼らは海の霧と共に姿を消していた。
ただ、地面には、崖から滑り落ちてきたかのような深い溝と、無数の蹄の跡だけが残されていた。
◇◇◇
義経は生涯、崖を見るとこう語ったという。
「馬は降りられる。だが、下に『壁』がある時はやめておけ。あれは痛いぞ」と。
平家物語の異本の一つ、『長門本』には、一ノ谷の合戦における不可解な記述がある。
『崖より降り注ぐ源氏の騎馬武者を、海より現れたる赤き鬼どもが、甲羅のごとき盾にて受け止めたり。その盾、岩よりも硬く、その槍、波よりも激し』
当時、京の都では「義経は天狗を使って戦をした」という噂が流れたが、それはあながち間違いではなかったのかもしれない。
ただし、その天狗は鼻が高いのではなく、筋肉の鎧を纏った、異国の王であったようだが。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




