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第5話:スパルタ×本能寺の変 〜魔王の舞と炎の中の鬼神〜


 紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。


 世界は、熱と血で飽和していた。

 スパルタ王レオニダスは、愛用の槍の石突いしづきで、地面を這い回るペルシア兵の喉を無造作に潰した。


 不眠不休の殺戮劇は、王の肉体から疲労という感覚すら奪い去り、代わりに鉛のような重い充実感を与えていた。


 兜の隙間から流れ落ちる汗が、睫毛を濡らす。

 眼下には、エーゲ海の青を塗り潰すほどの、クセルクセスの大艦隊。

 頭上には、太陽を遮るほどの矢の雨。


「王よ」

 副官のアステリオスが、砕けた歯を吐き出しながら寄ってくる。


「気温が上がっています。……異常なほどに」

 レオニダスは眉をひそめた。


 確かに、熱い。

 地中海の乾いた陽射しではない。もっと粘着質で、肺腑を内側から焦がすような熱気だ。


 大気が歪んでいる。蜃気楼か?

 いや、匂いが違う。


 潮と血の匂いが消え、代わりに鼻をつくのは――焦げた木材と、やにの匂い。そして、嗅ぎ慣れない爆発性の粉塵(硝煙)の臭気。


「ペルシアの連中め、また妙な油でも撒いたか?」

 レオニダスが鼻を鳴らした、その刹那。


 世界が裏返った。


 青い海が消失し、真紅の赤蓮が視界を埋め尽くす。

 足元の硬い岩盤の感触が消え、美しく磨き上げられた板敷きと、柔らかな畳の感触へと変わる。


 耳をつんざく轟音。パチパチと爆ぜる木材の悲鳴。

 そして、聞いたことのない言語の怒号と、雷のような炸裂音が四方八方から響き渡る。


 レオニダスは瞬きをし、状況を瞬時に認識した。

 そこは、燃え盛る巨大な木造建築の中だった。


 スパルタの神殿よりも精緻で、しかし可燃性の高い「木の城」が、今まさに崩落しようとしている。


「……総員、盾を構えよ!」

 王の咆哮が、炎の音を切り裂いた。


 三百人のスパルタ兵は、混乱するよりも早く、条件反射で円盾アスピスを構えていた。

 煙の向こうから、数人の兵士が飛び出してくる。

 東洋風の奇妙な鎧。手には長い槍と、火を噴く鉄の筒。


 彼らの背中には、鮮やかな水色の旗指物が揺れている。そこには、五弁の花――桔梗の紋が染め抜かれていた。

「……水色の旗か」

 レオニダスはニヤリと笑った。


「ペルシアの海兵隊だな。随分と派手な色の軍装だ。……ここは敵の陣地か、それとも我らが守るべき場所か」

 その答えは、すぐに目の前に現れた。


 炎の奥、広間の中心で、一人の男が舞っていたのだ。

 

◇◇◇


天正十年六月二日。未明。京、本能寺。


 天下布武を掲げた織田信長の覇道は、この夜、紅蓮の炎の中で潰えようとしていた。


 ドンッ! ドンッ!


 種子島(火縄銃)のつるべ撃ちが、本堂の障子を蜂の巣にし、漆塗りの柱を削り取っていく。

 硝煙の白煙が、火災の黒煙と混じり合い、地獄の霞となって堂内を包んでいた。


「上様! 上様ァッ!」

 小姓の森蘭丸が、血刀を下げて叫んだ。


 その白皙の美貌は、煤と返り血で汚され、左肩からは深手を負った鮮血が滴り落ちている。


「敵は明智日向守ひゅうがのかみ! 手勢は一万三千を超えております! 馬廻り衆は既に……もはや防ぎきれません! どうか、奥へ!」

 信長は、湯帷子ゆかたびら一枚の姿で、燃え盛る炎を見つめていた。


 不思議と、心は凪いでいた。

 怒りはない。恐怖もない。あるのは、奇妙な納得だけだった。


「……光秀か」

 信長は、唇の端を吊り上げた。


「あの金柑頭め。いつかやるやも知れぬと思うておったが、まさか今日とはな」

 裏切りは戦国の常。


 父を欺き、弟を殺し、比叡山を焼き、神仏をも恐れぬ所業を重ねてきた己が、畳の上で死ねるとは思っていない。


 だが、志半ばであることは認めよう。天下一統を目前にして、最も信頼していた腹心に喉元を食い破られるとは。


「是非もなし」

 信長は短く吐き捨てた。


 これ以上の言葉は不要だった。

 脱出路はない。ここで腹を切るか、焼き殺されるか。

 ならば、魔王らしく果てるのみ。


「蘭丸。槍を持て」

「は……?」

「余は舞うぞ。最期の儀式ぞ。一兵たりとも、ここへ踏み込ませるな」

 信長は、近くにあった敦盛の扇を拾い上げた。


 炎が襖を焼き落とし、熱風が信長の長い髪を巻き上げる。

 彼は広間の中央に進み出ると、パチリと扇を開いた。


「人間五十年……下天の内をくらぶれば……」

 朗々たるうたいが、戦場の騒音を圧して響き渡る。


 外では、蘭丸が絶叫しながら槍を振るっている。

 「信長の首を獲れェ!」「一番槍はもらったァ!」

 欲望に目を血走らせた明智の雑兵たちが、壊れた扉から雪崩れ込んでくる。


 信長は舞い続けた。

 死への恐怖を、舞いの所作一つ一つに込めて昇華させる。


 (光秀よ。貴様にこの舞が見えるか。貴様が焼こうとしているのは、ただの肉体ではない。第六天魔王という存在ぞ)

 背後で、蘭丸が崩れ落ちる気配がした。


 無数の足音が、信長へと殺到する。

 背中に殺気を感じる。


 扇を閉じる。

 これで終わりか。

 その時だった。


 ドゴォォォン!!

 本堂の壁そのものが、内側からではなく、外側から「何か」によって粉砕された。


 爆発ではない。

 物理的な質量による衝撃だった。


 信長へと殺到していた明智兵たちが、まるで玩具のように宙を舞い、壁に叩きつけられた。


「な……?」

 信長は、扇を構えたまま目を見開いた。


 崩れた壁の向こう、炎の揺らめきの中から、異形の巨人たちが現れた。

 それは、日ノ本の武者ではなかった。


 身の丈は六尺を優に超え、鍛え上げられた肉体は、仁王像のごとく隆起している。


 身につけているのは、血の色をした真紅のマントと、青銅に輝く兜、そして脛当てのみ。


 左手には、人間一人がすっぽりと隠れるほどの、巨大な円形の盾。


 右手には、長く太い槍。


 彼らは数百人の集団でありながら、一糸乱れぬ隊列を組み、無言で明智軍の前に立ちはだかった。

 その威圧感は、炎の熱気すら凍らせるほどだった。


「鬼か……?」

 信長は呆然と呟いた。


 南蛮の宣教師が連れてきた黒奴――弥助とも違う。あれは、戦うために造形された、純粋な暴力の化身だ。


 集団の先頭に立つ男――レオニダスが、信長を一瞥した。

 その眼光。


 猛禽類のような、あるいは老いた獅子のような、絶対強者の瞳。

 二人の視線が交差する。


 言葉はない。

 だが、レオニダスは信長の姿――燃え盛る炎の中で、死を前にしてなお優雅に舞う姿――を見て、口元を歪めた。

 それは、獰猛な笑みだった。


 (この男、王だ)

 レオニダスは確信した。


 死の淵にあって、神に舞いを捧げている。戦勝祈願か、あるいは己への鎮魂歌か。

 いずれにせよ、戦士としての格が高い。


 そして、その儀式を邪魔しようとする群青の旗の連中は、無粋な野暮天だ。


「アステリオス! 聞こえるか!」

 レオニダスが叫んだ。


「あそこで踊っている男が、この砦の司令官だ! 今は神聖な儀式の最中らしい!」


「はっ! 邪魔をする奴は殺せとの仰せですね!」


「その通りだ! ペルシアの礼儀知らずどもに、スパルタ流の観劇マナーを教えてやれ!」

 レオニダスが槍を掲げると、三百の盾がガンッ! と打ち鳴らされた。


 スパルタ兵たちは、信長を守るように半円形に展開し、本堂の崩れた入り口を完全に封鎖した。

 明智軍の先鋒隊長が、震える声で叫んだ。


「な、何者だ貴様らは! 信長の隠し兵か! ええい、構わん! 撃て! 撃ち殺せェッ!」


 ズドン! ババババッ!


 数十挺の火縄銃が一斉に火を噴いた。

 至近距離からの斉射。鉛の弾丸が、スパルタ兵の肉体を抉る――はずだった。


 カァァァンッ!!


 高く、硬質な金属音が堂内に響き渡った。

 弾丸は、スパルタ兵が掲げた青銅の盾に弾かれ、あるいは表面に食い込んで止まった。


「硬い! 弾が通じぬぞ!」

「馬鹿な、ただの盾だぞ!?」

 狼狽する明智兵。


 その隙を、レオニダスは見逃さなかった。

「突き出せ!」

 盾の隙間から、三百本の長槍ドリュが一斉に突き出される。


 それは、正確無比な死のピストン運動だった。

 明智兵の鎧の隙間、喉元、眼球。急所だけを狙い撃つ一撃。


 ジュボッ、グシャッ。


 生々しい音と共に、最前列の明智兵が串刺しになり、血しぶきが炎の中で蒸発する。

 信長は、その光景を見ながら舞い続けた。


夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり……」

 信長の足拍子が、床を鳴らす。


 ドンッ。


 それに呼応するように、スパルタ兵が盾で敵を殴打する。

 ゴガッ。


一度(ひとたび)(しょう)を得て……」

 信長が扇を翻す。

 ヒュッ。


 それに合わせて、後列のスパルタ兵が投槍を放つ。

 ドスッ。


 奇妙なシンクロニシティ(同調)が生まれた。

 信長の舞いは、死を悼むものではなく、戦いを指揮する軍配のように見え始めた。


 炎が爆ぜるリズム。信長の謡のリズム。そして、スパルタ兵が敵を殺すリズム。

 全てが渾然一体となり、本能寺の本堂は、血と炎のオペラハウスと化した。


「滅せぬもののあるべきか……」

 信長は恍惚としていた。


 (面白い。なんと面白き見世物よ!)

 地獄の鬼どもが、余のために露払いをしておるわ。


 これが南蛮のファランクスとかいう戦法か。個の武勇ではなく、群れとしての暴力。

 余が目指した三段撃ちのことわりにも通じる、合理的な殺戮だ。


「ええい、押し包め! 数はこっちが上だ!」

 明智兵が、死体の山を乗り越えて殺到する。槍の長さでは勝てぬと見て、刀を抜いて懐に入ろうとする。


 だが、スパルタ兵は槍を捨て、腰の短剣クシフォスを抜いた。

 ここからは、泥臭い近接戦闘だ。


 一人の明智武者が、レオニダスに斬りかかる。

「死ねェッ! 赤鬼!」


 日本刀の鋭い斬撃。

 だが、レオニダスは盾のリムで、刀を側面から叩き折った。


「なっ!?」

 驚愕する武者の顔面を、王の額が砕く。頭突きだ。


 鼻骨が陥没し、武者がのけぞる。そこへ、逆手に持った短剣を鎖骨の上から心臓へ向けて突き下ろす。


 絶命。


 無駄がない。美しくはないが、極めて実戦的な殺人術。

 信長の胸に、熱い塊がこみ上げてきた。


 死ぬつもりだった。だが、こやつらを見ていると、どうにも血が騒いで仕方がない。

 こやつらは、死ぬために戦っているのではない。


 この絶望的な炎の中で、一秒でも長く、一歩でも前へ踏み込み、「生」を貪り食おうとしている。


 (余は、諦めが良すぎたか……)

 天下布武。その道半ばで燃え尽きるのも一興と思うたが――。


 目の前で、こんな極上の「足掻き」を見せられては、魔王の名が廃る。


「……是非もなし、とは撤回じゃ」

 足拍子が床を踏み抜く。


「押し返せ(オティスモス)!」

 レオニダスの号令。

 盾の壁が前進し、明智兵を物理的に押し潰していく。


「王よ! 煙が回ってきました!」

 アステリオスが叫ぶ。


 スパルタ兵の足元には、既に数百の明智兵の死体が積み上がっている。だが、炎の勢いは止まらない。

 梁が焼け落ち、天井が崩落を始めている。


「潮時だな」

 レオニダスは、転がる明智兵の死体で刃についた脂を拭うと、振り返った。

 信長の舞いは、終わっていた。


 炎の海と化した本堂の中心で、信長は荒い息を吐きながら立っていた。

 全身汗まみれ。だが、その瞳は爛々と輝いている。

 レオニダスは歩み寄り、信長の前に立った。


 巨人と、魔王。

 時代も場所も異なる二人の英雄が、至近距離で対峙する。


 レオニダスは、本堂の裏手――まだ火の回りが遅く、明智の手薄な方角――を顎でしゃくった。


「道は開けた。行け、東洋の王よ」

 言葉は通じない。


 だが、信長にはその意図が痛いほど伝わった。

 『舞台は終わった。観客は帰したぞ』と、この赤鬼は言っているのだ。


「……フン、余に逃げよと言うか」

 信長は苦笑した。


 本来なら、情けをかけられるなど恥辱。だが、こやつらの戦いぶりには、不思議と敬意を感じる。


 死に場所を探していたはずが、生への渇望が湧いてくるのを感じた。

 まだだ。まだ、余の天下は終わっておらぬ。


「であるか」

 信長は腰に差していた愛刀、『へし切長谷部』を鞘から外した。


 国宝級の名刀。それを惜しげもなく、レオニダスへと放り投げた。

 レオニダスは片手でそれを受け取った。


 ずっしりとした重み。鞘の装飾の美しさ。そして、鯉口から覗く刃の冷たさ。

 「褒美だ」と、信長の目は語っていた。


「……良い武器だ。貰っておく」

 レオニダスはニヤリと笑い、その刀を自身の腰帯に差した。

 信長は、崩れ落ちた蘭丸の遺髪を一房切り取ると、懐に入れた。


 明智兵たちは、鬼神のごときスパルタ兵に恐れをなし、誰も追おうとしない。あるいは、炎の勢いに阻まれて近づけないのだ。


 信長は一度だけ振り返った。

 炎の中で仁王立ちする、三百人の赤き背中。

 彼らは逃げない。


 この燃え落ちる寺と運命を共にするつもりか、あるいは別の戦場へ還るのか。


「さらばだ、地獄の同胞はらからよ」

 信長は闇へと駆けた。


 直後、轟音と共に本能寺の本堂が崩落した。

 舞い上がる火の粉が、京の夜空を焦がす。


◇◇◇


 翌日。焼け跡を捜索した明智光秀は、信長の遺体を発見できなかった。

 ただ、本堂の跡から、奇妙なものが発見された。


 ひしゃげた青銅の円盤の破片と、日本のものとは思えぬ形状の、焼き尽くされた剣の残骸。


 そして、無数に転がる明智兵の死体は一様に、恐怖に顔を歪ませていたという。


 歴史はここから、我々の知るものとは少し違う軌道を描き始めるのかもしれない。あるいは、信長は海を越え、遠い異国の地で新たな覇道を歩んだのかもしれない。


 ただ、後年、奇妙な伝承が残された。

 『魔王の危機には、三百の赤鬼が現れる』と。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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