第4話:スパルタ×元寇 〜博多湾に築かれた筋肉の防波堤〜
紀元前四八〇年。熱き門、テルモピュライ。
三日間に及ぶ激戦は、スパルタ兵たちの青銅の鎧を血と脂で黒く染め上げていた。
アステリオスは、足元に転がる不死隊の死体を無造作に蹴り飛ばし、海を見た。
エーゲ海は赤く染まっている。だが、水平線を埋め尽くすペルシアの艦隊は、まるで減っているように見えなかった。
絶望的な光景だ。しかし、アステリオスの胸中にあるのは、心地よい虚無と、任務への没頭だけだった。
「王よ」
アステリオスは、隣で槍を研いでいるレオニダス王に声をかけた。
「海風が変わりました。妙に湿っています」
レオニダスは鼻を鳴らした。
「ペルシアの奴らが、海そのものを腐らせたか。あるいは――」
言葉は途切れた。
突如として、視界が白濁したからだ。
霧だ。
乾燥した地中海の空気が、一瞬にして粘りつくような濃霧へと変質する。太陽の熱が消え、代わりに肌を刺すような冷気がまとわりつく。
足元の岩場の感触が消える。ザク、ザク、という砂の音が響く。
「総員、警戒せよ」
王の低い声が響く。
霧が晴れていく。
そこに現れたのは、見慣れたテルモピュライの海岸線ではなかった。
灰色の空。荒れ狂う波。そして、弧を描く広大な砂浜。
だが、最もアステリオスの目を引いたのは、海上だった。
船だ。
無数の船が、海を埋め尽くしている。
ペルシアのガレー船ではない。帆の形も、船体構造も異なる、見たこともない異国の軍船の大集団。
それらがドラの音を鳴らし、銅鑼や太鼓の音と共に、海岸へ向けて上陸用舟艇を吐き出している。
「……懲りん奴らだ」
レオニダスが呆れたように呟いた。
「船の形を変えれば、我らを欺けるとでも思ったか。クセルクセスめ、よほど海遊びが好きなようだ」
アステリオスも同意し、円盾を構え直した。
場所がどこであろうと、敵が海から来るなら、やることは一つだ。
水際で食い止め、海へ突き落とす。
「見ろ、王よ。先行している兵がいるようです」
アステリオスが指差した先、砂浜の一角で、奇妙な鎧を着た騎馬武者が一人郎党を連れて、大軍に向かって突撃していくのが見えた。
「勇敢な、あるいは無謀な男だ。だが、あれでは死ぬぞ」
◇◇◇
文永十一年十月二十日。博多湾。
肥後の御家人、竹崎季長は、焦っていた。
心臓が早鐘を打ち、喉が渇ききっている。
「一番駆けは、この竹崎季長がもらう!」
彼は馬腹を蹴り、手綱をしごいた。
季長にとって、この戦はただの防衛戦ではない。人生を懸けた大博打だった。
所領の訴訟に負け、生活は困窮。この戦のために馬具を売り払い、借金までして、郎党わずか五騎を連れてはるばる九州までやってきたのだ。
敵の首が要る。それも、誰よりも早い「一番槍」の功名が。
そうでなければ、鎌倉殿からの「御恩」にあずかれず、腹を切るしかない。
「控えよ! 命令違反だぞ!」
総大将・少弐景資の制止も耳に入らない。
季長は砂浜を駆け抜け、上陸してくる「蒙古」の軍勢へと突っ込んだ。
「やあやあ! 遠からん者は音にも聞け! 我こそは肥後国御家人、竹崎五郎兵衛尉季長なり! いざ尋常に――」
日本の戦の作法通り、名乗りを上げ、鏑矢を放とうとした、その時だった。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
返事の代わりに飛んできたのは、短弓の毒矢の雨だった。
名乗りなど聞く耳持たぬ。礼儀など存在しない。
それが大陸の戦法だった。
「ぐっ……!?」
季長の愛馬が悲鳴を上げ、前足から崩れ落ちる。
落馬した季長は、砂まみれになりながら立ち上がった。
「卑怯者め! 名乗ってから戦え!」
叫ぶ季長の前に、異形の集団が迫る。
革鎧を着込み、太鼓の音に合わせて密集隊形で進んでくる蒙古兵たち。彼らは個人の武勇など競わない。集団の暴力で圧殺しに来ている。
さらに、彼らの後方から火のついた鉄球が投げ込まれた。
――てつはう。
ドォォォン!
爆発音と共に、熱風と破片が季長を襲う。
轟音に耳が聞こえなくなり、視界が煙で覆われる。
郎党たちは散り散りになり、季長はたった一人、敵陣のど真ん中で孤立してしまった。
「おのれ……これまでか……!」
太刀を構える手も震える。
借金を返すどころか、犬死にか。
蒙古兵の槍が、四方から突き出される。
季長が死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
ゴウッ!
という風切り音と共に、目の前の蒙古兵の頭が弾け飛んだ。
季長は目を見開いた。
何が起きたのか理解できなかった。
蒙古兵の頭蓋を粉砕したのは、一本の「槍」だった。だが、それは見慣れた槍ではない。丸太のように太く、恐ろしい速度で投擲されたものだ。
「……なんだ?」
煙が風に流され、その向こうから現れた者たちを見て、季長は息を止めた。
鬼だ。
赤鬼だ。
真紅のマントを風になびかせ、青銅の兜を被り、鍛え上げられた裸の肉体を晒した巨人たち。
彼らは三百人ほどの集団で、規則正しい足音を立てて近づいてくる。
その手には、人間一人が隠れるほどの巨大な円盾。
彼らの先頭を行く、一際巨大な男――レオニダスが、季長の前に立った。
身長は六尺(約180cm)を超える季長よりもさらに頭一つ大きい。
レオニダスは、腰を抜かしかけている季長を見下ろし、何かを怒鳴った。
「ラインに戻れ!」
ギリシャ語の怒号。当然、季長には通じない。
だが、その眼光の鋭さに、季長は反射的に縮み上がった。
「な、何奴だ!? 蒙古の援軍か!?」
レオニダスは呆れたように溜息をついた。
目の前の東洋人は、勇敢ではあるが、戦術というものを理解していない。
盾も持たず、たった一騎で敵の密集陣形に突っ込むなど、自殺志願者としか思えない。
「アステリオス、この子供を拾ってやれ」
「はっ」
アステリオスと呼ばれた兵士が、季長の襟首を掴み、軽々と持ち上げた。
「無礼者! 放せ! 俺は御家人だぞ!」
手足をバタつかせる季長を、アステリオスは自らの盾の後ろに放り投げた。
「邪魔だ。そこで見ていろ」
その時、蒙古軍のドラが激しく打ち鳴らされた。
数千の蒙古兵が、謎の乱入者(スパルタ兵)を排除すべく、雄叫びを上げて殺到してくる。
季長は青ざめた。
「いかん、逃げろ! あやつらは集団で来るぞ! てつはうを使うぞ!」
だが、レオニダスは動じなかった。
彼は円盾をガツンと地面に叩きつけ、海を埋め尽くす敵を見据えた。
「数だけは多いな。ペルシアの奴隷兵どもめ」
王が槍を掲げる。
「教育の時間だ。スパルタの『集団』がどういうものか、教えてやれ!」
蒙古軍の戦法は、個人の武勇を否定し、集団の連携で敵を圧殺することにある。
彼らは密集し、銅鑼の合図で一斉に前進し、毒矢の雨を降らせる。
日本の武士たちが苦戦したのは、この「個 vs 集団」の相性の悪さゆえだった。
だが、今日、蒙古軍は不幸だった。
彼らが対峙したのは、人類史上、最も「集団戦」に特化して、最も「個の武勇」に優れた狂戦士たちだったからだ。
「構え!」
レオニダスの号令一下。
ザッ! という音が揃い、三百枚の盾が隙間なく噛み合った。
それは、浜辺に出現した青銅の城壁だった。
蒙古兵の毒矢が雨のように降り注ぐ。
だが、スパルタ兵は微動だにしない。盾の表面で矢が弾かれ、乾いた音を立てて砂に落ちる。
「矢で日陰ができたな」
アステリオスが笑う。
次に、蒙古兵が「てつはう」を投げ込んできた。
導火線が燃え、黒い鉄球がスパルタの陣列へ転がる。
ヒュルルル……という導火線の燃える音が響き、黒い鉄球がスパルタの足元へ転がった。
季長が裏返った声で叫んだ。
「伏せろォ! 妖術だッ、爆発するぞ!」
だが、レオニダスは動かなかった。逃げもせず、伏せもしない。
ただ、巨大な円盾を少し前に傾け、足元の鉄球を覆い隠すように構えただけだった。
直後。
ドォォォォォン!!
轟音と共に、盾の下から猛烈な黒煙と火花が噴き出した。
砂が舞い上がり、熱風が季長の頬を打つ。
「あ、あぁ……」
季長は絶望した。まともに食らった。あの距離では、五体満足では済まないはずだ。
南蛮の巨人たちは、挽肉になったに違いない。
しかし。
煙が海風に流れると、そこには信じがたい光景があった。
「……ケホッ。煙たい奴らだ」
レオニダスは、盾の煤を無造作に手で払った。
無傷。
青銅の盾は、火薬の炸裂すらも表面で受け止め、その主を守り抜いていたのだ。
「音と光だけか。ゼウスの雷霆に比べれば、子供の癇癪だな」
王は退屈そうに鼻を鳴らし、凍りつくモンゴル兵を見据えた。
「行進を続けるぞ。――前進!」
スパルタの壁が、再び動き出す。
モンゴル兵たちは恐慌状態に陥った。
毒矢も効かない。てつはうも効かない。あの怪物たちは、死なないのか?
錯乱したモンゴルの前衛部隊が、槍を構えて突っ込んでくる。
だが、それは「波」が「岩」に挑むようなものだった。
ガギィンッ!
軽装のモンゴル兵が、スパルタの盾にぶつかった瞬間、ボールのように弾き飛ばされた。
質量が違う。覚悟の密度が違う。
「どけッ! そこをどけええい!」
その背後で、季長が地団駄を踏んでいた。
彼は助けられたことよりも、手柄を奪われる焦りで半狂乱になっていた。
「俺の一番槍だ! 俺の首だ! 横取りするな、この赤鬼ども!」
季長は太刀を振り回し、スパルタの列を無理やり追い越そうとした。
その無防備な背中を、モンゴル兵の槍が狙う。
ガシッ!
レオニダスが、季長の兜のしころを掴んで引き戻した。
「グエッ!?」
「列を乱すな、小僧!」
王の怒号。言葉は通じないが、その拳骨が季長の頭をゴツンと殴った。
「痛ってぇ! 何しやがる!」
「一人で突っ込んで死にたいなら勝手にしろ。だが、俺たちの盾の横に穴を開けるな!」
レオニダスは季長をアステリオスの盾の後ろへ放り投げ、指差した。
そこには、互いの盾を重ね合い、死角を消し合っているスパルタ兵の姿があった。
個人の武勇ではない。隣の友を守るために盾を構え、その結果として「最強」が完成している。
季長はハッとした。
自分は借金のこと、恩賞のこと、自分一人の栄達しか考えていなかった。だから突出して、死にかけた。
(こいつらは……自分のためじゃなく、隣の奴のために戦っているのか?)
季長の顔から、焦燥という名の毒気が抜けていった。
代わりに、腹の据わった武士の顔が戻ってくる。
「……わかったよ。わかった、赤鬼の大将」
季長は太刀を構え直し、アステリオスの盾の隙間に身を寄せた。
「俺も混ぜろ。日本の武士が、ただ守られているだけだと思うなよ!」
アステリオスがニヤリと笑い、盾を少しずらして「射撃用」の隙間を作った。
古代ギリシャの最強の盾と、鎌倉武士の鋭利な太刀。
時空を超えた即席の要塞が、博多の浜に完成した。
戦いは、日没まで続いた。
スパルタ兵の水際の防壁は、ついに破られることはなかった。
海を埋め尽くしていた蒙古軍は、上陸地点を確保できず、死体の山を築いて撤退を始めた。
彼らにとって、この小さな浜辺は、決して越えられない鉄の壁だった。
夜になると、風が強まった。
嵐の予兆だ。博多湾にうねりが生じ、蒙古の船団が大きく揺れ始めている。
後に「神風」と呼ばれる暴風雨が近づいていた。
レオニダスは、血のついた槍を海水で洗い流すと、空を見上げた。
「海が荒れるな。ポセイドンも、ようやく仕事をする気になったか」
彼は部下たちに撤収を命じた。
霧が、再び彼らを包み込もうとしている。
季長は、去りゆくレオニダスを呼び止めた。
「待ってくれ! 名を聞かせてくれ! あんたたちのおかげで助かった。恩賞を山分けしたいんだ!」
レオニダスは足を止め、振り返った。
そして、季長の肩をポンと叩いた。岩のような重い手だった。
「功名心も悪くはない。だが、盾の重さを忘れるなよ、東洋の戦士よ」
王はニカっと笑うと、霧の中へと歩き出した。
三百人の背中が、白い闇に溶けていく。
後には、誰もいない静かな浜辺と、打ち上げられた蒙古兵の死体だけが残された。
◇◇◇
数ヶ月後。鎌倉、幕府の評定所。
竹崎季長は、自らの武功を証明するために描かせた『蒙古襲来絵詞』を広げていた。
「ご覧ください! これが私が一番駆けをした証拠です!」
役人が絵巻物を覗き込む。
そこには、傷ついた馬に乗り、孤軍奮闘する季長の姿が描かれていた。
だが、役人は首を傾げた。
「竹崎殿。この、後ろの方に消されたような跡があるが……これは何か?」
季長はバツが悪そうに頭をかいた。
「いや、実は……そこに『赤いマントの裸の巨人たち』を描かせようとしたのですが……」
「裸の巨人?」
「はい。彼らが盾となって私を守り、蒙古軍を押し返したのです。彼らこそ真の功労者なのですが」
役人は鼻で笑った。
「戦のしすぎで幻を見たのではないか? 裸の男がてつはうを防げるわけがなかろう」
「しかし、本当なのです!」
「まあよい。一番駆けの事実は認めよう。恩賞を与える」
季長は恩賞の土地と馬を得た。
だが、絵巻物から消された「スパルタの亡霊」たちは、歴史の闇へと消えていった。
ただ、季長だけは生涯忘れなかった。
あの嵐の博多湾で、鉄の規律と筋肉の壁が、日本を守ってくれたことを。
そして時折、酒に酔うとこう語ったという。
「鬼はいる。だが、あれは強くて優しい鬼だった」と。
鎌倉武士・竹崎季長が自身の武功を描かせた『蒙古襲来絵詞』。
この国宝の絵巻には、後世の加筆や修正の跡が多く見られることで知られる。
特に、蒙古軍の集団戦法が描かれた場面の余白には、かつて「何か」が描かれていた形跡があり、近年のX線解析の結果、それは「円い盾を持った裸の男たち」の姿であったことが判明している。
なぜ季長がそれを描かせ、そしてなぜ消されたのか。その真実は歴史の闇の中である。
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