第15話:スパルタ×魔王 〜神殺しの槍と帰還の時〜
魔王城の扉が開かれた瞬間、肌を刺すような冷気が吹き抜けた。
外の熱狂とは真逆の、魂を凍らせるような絶対零度の静寂。
レオニダスは、足を踏み入れた。
そこは、無限に続くかと思われるほど広い、闇の謁見の間だった。
天井は見えない。床は黒曜石のように磨き上げられ、歩くたびにコツン、コツンと硬質な音が反響する。
広間の最奥に、蒼白い炎が揺らめいていた。
その炎の中に、玉座があった。
座っているのは、人ではなかった。
不定形の闇。あるいは、光。
見る者の心によって姿を変える、高次元の存在。ある者には慈悲深い女神に見え、ある者には恐ろしい悪魔に見えるという。
だが、レオニダスの目には、それはこう映っていた。
黄金の装飾品をジャラジャラとつけた、ひどく偉そうな男である。
「……趣味が悪いな」
レオニダスは、かつての宿敵クセルクセス王を思い出し、鼻を鳴らした。
「どこの世界でも、一番偉い奴というのは、高い椅子に座ってふんぞり返るのが好きらしい」
玉座の主――魔王が、ゆっくりと顔を上げた。
その声は、鼓膜ではなく、直接脳幹に響いてきた。
『……ヨクゾ参ッタ、人間ヨ』
重層的な声。数千人の死者の呻きが重なったような、不快な和音。
『我ガ軍勢ヲ破り、我が城門を叩いた勇気ハ褒メテヤロウ。ダガ、ココガ貴様ラノ墓場ダ』
魔王が指を弾く。
空間が歪み、重力が倍増した。
ズシンッ!
目に見えない巨人の手が、スパルタ兵たちを床に押し付けようとする。
「ぐぅッ……!」
セラフィナが膝をつきそうになる。ミナは既に床に這いつくばり、悲鳴を上げている。
だが、スパルタ兵たちは倒れなかった。
彼らは槍を杖代わりにし、全身の筋肉を軋ませ、骨がきしむ音を立てながら耐え抜いた。
「……自重トレーニングに丁度いい」
アステリオスが、額から脂汗を流しながら笑う。
レオニダスは、一歩前に出た。
重圧など存在しないかのように、背筋を伸ばして。
「挨拶は終わりか、化け物。墓場かどうかは、俺たちが決める」
『……ホウ? 我ガ覇気ニ耐エルトハ』
魔王は興味深そうに身を乗り出した。
『ナラバ、コレハドウダ?』
魔王の瞳が怪しく輝いた。
精神攻撃。
【絶望】、【恐怖】、【虚無】。
生物が根源的に抱く負の感情を、魔力によって増幅し、精神を崩壊させる攻撃。
普通の人間なら、一瞬で発狂し、自ら喉を掻き切って死ぬレベルの呪いだ。
セラフィナの脳裏に、ありもしない未来のトラウマがフラッシュバックする。
守れなかった部下。燃える王都。自身の無力さ。
「あ……あぁ……いやだ……」
彼女の瞳から光が消えかける。
だが、その肩を、岩のような手が掴んだ。
レオニダスだ。
「しっかりしろ、弟子よ。ただの幻覚だ」
王の声は、どんな上位魔法よりも強力に、彼女の意識を現実へ引き戻した。
「幻覚……?」
「そうだ。敵は俺たちの心を折ろうとしている。だが、スパルタ人の心は鉄よりも硬い」
レオニダスは、魔王を睨みつけた。
「貴様の攻撃は軽すぎる。俺たちが背負っているもの――国、家族、誇り――に比べれば、貴様の『絶望』など、羽毛のようなものだ」
スパルタ兵たちが盾を槍で打ち鳴らす。
ガン! ガン! ガン!
そのリズムは、心臓の鼓動のように力強く、魔王の精神波を物理的にかき消した。
恐怖? そんなものはテルモピュライに置いてきた。
絶望? 三百人で百万に挑むのが、最高に楽しい時だ。
『……貴様ラ、何者ダ?』
魔王の声に、初めて焦りの色が混じった。
『恐怖ヲ感ジナイドコロカ、高揚スラ感ジテイル……? 狂ッテイルノカ?』
「狂っているだと?」
レオニダスはニヤリと笑った。
「褒め言葉だ。まともなやつに世界は救えん」
精神攻撃が通じないと悟った魔王は、物理的な排除に出た。
『死ネ! 元素ノ塵トナレ!』
魔王が手を掲げると、無数の魔法陣が展開された。
炎、氷、雷、闇。極大魔法の雨が、スパルタ軍に降り注ぐ。
「テストゥド!」
レオニダスの号令。
スパルタ兵が密集し、盾を掲げる。
ドワーフ製のハイブリッド盾(青銅+ミスリル)と、アテナの加護、そして彼らの気合が、魔法の嵐を受け止める。
ドガアアアァァァッ!!
爆炎が彼らを包む。床が溶け、天井が崩れる。
だが、煙が晴れた後、そこには無傷の亀の甲羅があった。
『ナゼダ……ナゼ砕ケヌ!』
魔王が驚愕する。
レオニダスは、盾の隙間から顔を出し、挑発した。
「痛くも痒くもないぞ。もっとマシな攻撃はないのか?」
『小賢シイ!』
魔王は、苛立ちと共に自身の周囲に多重の「絶対防御障壁」を展開した。
物理攻撃を100%遮断し、触れた者を消滅させる神の壁。
その中に引き籠もり、一方的に攻撃する構えだ。
「引き籠もりか。性根の腐った神だ」
レオニダスは、槍をアステリオスに預けた。
そして、素手で障壁の前に立った。
「王よ、危険です!」
地面に張り付けにされたままのミナが叫ぶ。
だが、レオニダスは右足を大きく引いた。
腰を落とし、全身のバネを極限まで圧縮する。
「理屈は知らん。だが、壁があるなら、蹴り壊せばいい」
ただ、目の前の障害物を排除することだけに集中した。
かつて、ペルシアの使者を井戸底へ叩き落とした、あの一撃。
「我々スパルタだァァァッ!!」
前蹴り。
単純にして至高の暴力。
レオニダスの足裏が、絶対防御障壁に激突した。
パァァァン!!
ガラスが割れるような音が、広間に響き渡った。
物理無効の壁が、物理的な衝撃で粉砕されたのだ。
理屈ではない。気合と、アテナの加護と、そして「絶対に壊す」という意志の力が、世界の理をねじ曲げた。
『バ、馬鹿ナ……! 我ガ壁ヲ、人ガ……!?』
魔王が玉座から立ち上がる。
その無防備な腹部に、障壁の破片が突き刺さる。
「今だ! 総員、突撃!」
レオニダスが槍を受け取り、駆け出す。
セラフィナも、アステリオスも、三百人の兵士たちも続く。
「ウー! ハー!」
雄叫びが、魔王の恐怖を煽る。
『寄ルナ! 近寄ルナァァッ!』
魔王が闇の触手を伸ばす。
だが、セラフィナが剣『岩断』で触手を切り裂く。
「教官! 道を開けました!」
「でかした!」
レオニダスは、魔王の懐に飛び込んだ。
神にも等しい存在と、一人の人間が対峙する。
身長差は倍以上。魔力差は無限大。
だが、勝負を決めるのは「槍が届くかどうか」だけだ。
「貴様は神か?」
レオニダスは問うた。
魔王は、恐怖に歪んだ顔で答えた。
『ソ、ソウダ! 我ハ神! コノ世界ノ支配者……』
「ならば死ねるな」
レオニダスは、渾身の力で槍を突き出した。
ドワーフの親方ガンテツが鍛え上げ、数多の戦場で血を吸ってきた最強の槍。
ズドン!!
槍の穂先が、魔王の心臓(核)を貫いた。
背中まで貫通し、玉座に縫い付ける。
『ガ……ア……』
魔王が血を吐く。その血は黒く、そして熱かった。
神も血を流す。ならば、殺せる。
「……俺はかつて、神を名乗る男に傷を負わせたことがある。だが、殺せなかった」
レオニダスは、槍をねじ込んだ。
「今回は、やり遂げたぞ」
魔王の体が崩壊を始める。
光の粒子となって霧散していく。
『人間……恐ロシイ……種族……』
最期の言葉を残し、魔王は消滅した。
玉座の間が静まり返る。
勝ったのだ。
物理と筋肉が、魔法と神を凌駕した瞬間だった。
魔王城が揺れ始めた。
主を失い、崩壊しようとしている。
「脱出するぞ!」
一行は崩れる城を駆け下りた。
外に出ると、空が晴れ渡っていた。
毒々しい紫色の空が消え、澄み切った青空が広がっている。
麓の平原。
レオニダスたちは、足を止めた。
「行ってしまわれるのですか……?」
セラフィナが問う。
彼女は知っていた。彼らがこの世界の住人ではないことを。
レオニダスは、懐から「光る石」を取り出した。
アテナから授かった帰還石。
これを使えば、元の世界――あの灼熱のテルモピュライへ戻れる。
それは、死地への帰還を意味する。
「ああ。十分に楽しんだ」
レオニダスは笑った。
「ドラゴンも食ったし、魔王も殴った。冥土の土産話には十分だ」
「でも……戻れば、貴方たちは……」
ミナが泣きじゃくる。
彼らが戻る先は、ペルシア軍100万に包囲された、全滅必至の戦場なのだ。
レオニダスは、セラフィナの肩に手を置いた。
「悲しむな、弟子よ。俺たちは死にに行くのではない。任務に戻るだけだ。国を守りに」
彼は、自分の背負っていた真紅のマントを外し、セラフィナに掛けた。
「この世界は、お前たちが守れ。そのための筋肉と、盾の使い方は教えたはずだ」
セラフィナはマントを握りしめ、涙を拭い、背筋を伸ばした。
「はい! 教官の教え、魂に刻みました! この命ある限り、退くことはありません!」
「うむ。いい返事だ」
レオニダスは、石を握りしめた。
アステリオスや部下たちも、満足げな顔で頷き合う。
異世界でのバカンスは終わりだ。
最高の夢だった。
「行くぞ、スパルタ人! 妻が待っている! 仲間が待っている! そして、ペルシアの矢が待っている!」
パリン!
レオニダスが石を砕いた。
強烈な光が彼らを包み込む。
「さようなら! ありがとう!」
ミナやセラフィナの声が遠ざかる。
風景が溶けていく。
青い空が、土煙舞う灰色の空へ。
涼しい風が、血なまぐさい熱風へ。
……。
…………。
気がつくと、レオニダスは槍を握りしめ、岩場に立っていた。
目の前には、海を埋め尽くすペルシアの艦隊。
隣には、いつものアステリオス。
体には、異世界で負った傷はなく、代わりにテルモピュライでの古傷が戻っていた。
「……戻ったか」
レオニダスは、夢から覚めたような感覚で呟いた。
だが、手のひらには、確かに「何か」を砕いた感触が残っていた。
そして、腹の底には、ドラゴンやオークの肉で満たされた活力が漲っていた。
「王よ。ペルシア軍が動きます。総攻撃です」
アステリオスが告げる。
歴史通りの、最後の戦い。
ここで彼らは全滅し、スパルタの伝説となる。それが運命だ。
だが、レオニダスはニヤリと笑った。
「上等だ。魔王に比べれば、クセルクセスなどただの人間だ。……それに」
彼は、背後の霧を振り返った。
時空の歪みは、まだ閉じきっていない気がした。
霧の向こうから、聞き覚えのある轟音――蹄の音、鉄砲の音、そして無数の英雄たちの雄叫びが微かに響き始めている。
「祭りは派手な方がいい。……客人が来るかもしれんぞ」
グランドフィナーレ。
テルモピュライの奇跡が、今まさに始まろうとしていた。
(異世界編・完)
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