第12話:スパルタ×サキュバスの夢 〜桃色の悪夢と鋼鉄の理性〜
エンシェント・ドラゴンを食らい尽くし、神話級の活力をみなぎらせたレオニダス一行は、火山の麓にある渓谷で野営を張っていた。
満腹と、心地よい疲労。戦士にとって、最も警戒が緩む瞬間である。
深夜。
見張りのスパルタ兵たちも、交代で仮眠をとっていた。
そんな彼らの鼻先を、奇妙な霧が撫でた。
硫黄の臭いではない。甘く、芳醇な、熟れた果実と花の香り。そして、女性の肌の匂い。
「……む?」
見張りの兵士が、うっとりとした表情で崩れ落ちる。
毒ではない。強力な睡眠と催淫の効果を持つ、魔性の霧だ。
霧は音もなく野営地を包み込み、三百人の屈強な男たちを深い眠りの底へと引きずり込む。
霧の奥から、一人の美女が音もなく姿を現した。
背中には蝙蝠のような翼。ボンテージのような黒革の衣装から溢れる豊満な肢体。そして、妖艶な光を宿す紫色の瞳。
魔王軍四天王の一人、夢魔の女王・リリスである。
「ウフフ……。ドラゴンを倒したと聞いて警戒していたけれど、やっぱり単純な男たちね」
リリスは、無防備に眠るレオニダスの寝顔を覗き込んだ。
「筋肉だらけで無骨だけど、精気はとてつもなく強そう。私の『夢の檻』で骨抜きにして、最後の一滴まで吸い尽くしてあげるわ」
彼女は指を鳴らした。
精神干渉魔法『エターナル・プレジャー(永劫の快楽)』発動。
彼女はレオニダスたちの集団無意識へと侵入した。
そこは、男なら誰もが抗えない、酒池肉林の楽園になる――はずだった。
リリスが最初に侵入したのは、副官アステリオスの夢だった。
彼女は完璧な夢の世界を構築した。
黄金の宮殿。絹のシーツが敷かれた巨大なベッド。そして、数十人の絶世の美女たちがアステリオスを取り囲み、甘い声で誘惑するシチュエーション。
「さあ、勇敢な戦士様。戦いはおしまいよ。ここで私たちと、永遠に愛し合いましょう……」
リリス自身も美女の一人に化け、アステリオスの分厚い胸板に指を這わせた。
普通なら、ここで理性が溶け、精神の防壁が崩壊する。
だが、アステリオスは眉をひそめた。
「……鬱陶しい」
彼は、美女たちを汚いものでも見るかのように払いのけた。
「どいてくれ。その軟弱な肌、甘ったるい匂い……虫唾が走る」
「え?」
リリスは目を疑った。
アステリオスは、宮殿の床でひたすら「腕立て伏せ」を始めたのだ。
しかも、背中には巨大な岩を乗せている。
「な、何をしているの? 私たちは貴方を癒やしに……」
「癒やし? 勘違いするな」
アステリオスは滝のような汗を流しながら答えた。
「スパルタの女なら、男に媚びる暇があったら槍を磨き、共に走る。貴様らのように、ただ着飾って男の機嫌を伺うだけの女など、俺たちにとっては路傍の石ころ以下だ」
彼は美女たちを品定めするように冷たく見た。
その視線は、異性に対するものではなく、物体に対するものだった。
「だが、石ころにも使い道はあるな」
「えっ?」
「肉体的な強さはないが、質量だけはある。……ちょうどいい。負荷代わりに乗るなら乗れ。ただし、バランスよく配置につけよ。重心がズレる」
「ふ、負荷……?」
美女(リリスの分身)たちは困惑した。
「い、いいえ! 私たちは愛を……」
「黙れ。役に立たぬなら消えろ。……フンッ! フンッ!」
アステリオスは夢の中でさえ、トレーニングを止めなかった。
彼の欲望は「軟弱な快楽」ではなく「強靭な高み」に向いていたのだ。
「な、なんなのコイツ!? 色気より筋気!?」
リリスは舌打ちをして、次のターゲットへ移った。
「脳筋男はダメね。なら、あの女騎士よ! 女なら、ロマンチックな夢に弱いはず!」
リリスは、セラフィナの夢に入った。
そこは、きらびやかな王都の舞踏会場だった。
美しいドレスを着たセラフィナ。優雅な音楽と共に、白馬に乗った王子様が現れる。
「美しいセラフィナ。野蛮な剣など捨てて、僕と踊ろう。君のような可憐な花は、戦場になど似合わない……」
かつてのセラフィナなら、頬を染めてその手を取っただろう。
だが。
「……誰だ、貴様?」
ドレス姿のセラフィナは、王子様を汚物を見るような目で見下ろした。
「手が白すぎる。剣ダコの一つもない。そんなマシュマロのような手で、私を守れると思っているのか?」
「えっ? いや、僕は王子で……」
「王子? 肩書きなど関係ない。私と踊りたければ、まずはそのひ弱な根性を叩き直してやる!」
ビリィッ!
セラフィナは、邪魔なドレスの裾を豪快に引き裂いた。
その下から現れたのは、見事にパンプアップされた太腿と、スパルタ式青銅脛当て。
彼女は王子の腕を掴み、背負い投げた。
ズドォォン!
舞踏会の床が大理石ごと砕ける。
「ぐべっ!?」
「立て! まだ準備運動だぞ! ステップの基本から教えてやる!」
夢の世界は、舞踏会から「地獄のブートキャンプ」へと変わった。
セラフィナは鬼教官となり、王子をスクワット千回、腹筋千回の刑に処した。
「姿勢が悪い! 声が小さい! そんな貧弱な腹筋で国が守れるか!」
「ひぃぃぃ! 許してぇぇ! 足が攣るぅぅ!」
リリスは泣きながら夢から脱出した。
「なんなのあの女! ロマンスよりフィジカルを求めてるじゃない! 頭おかしいわよ!」
リリスは肩で息をしていた。
精神攻撃は、術者にも負担がかかる。強烈な拒絶反応を受け、彼女の精神は摩耗していた。
だが、まだ本丸がいる。
スパルタ王、レオニダス。
彼さえ落とせば、指揮系統は崩壊するはずだ。
「……見てなさい。男の王なんて、どうせ権力と女に弱いのよ」
リリスは残った全魔力を込め、レオニダスの深層心理の最奥へ潜った。
そこは、静かな麦畑だった。
黄金色の稲穂が揺れ、穏やかな夕日が差し込んでいる。
レオニダスは、畑の真ん中で一人佇んでいた。戦場での修羅のような表情とは違う、父親のような穏やかな顔をしている。
リリスは彼の記憶を読み取り、彼が最も愛する存在へと変身した。
スパルタ王妃、ゴルゴ。
賢く、気高く、美しい妻の姿。
「……レオニダス」
ゴルゴ(リリス)は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて近づいた。
「もういいのです。貴方は十分に戦いました。重い槍を置いて、私とここで暮らしましょう。戦いのない、永遠の安らぎの中で……」
彼女はレオニダスの胸に身を寄せ、甘い吐息をかけた。
これこそが最強の精神攻撃。愛する者からの「安息への誘い」。英雄であればあるほど、戦いの疲れにつけ込むこの甘露には抗えない。
レオニダスは、妻の顔をじっと見つめた。
そして、節くれだった大きな手で彼女の頬に触れた。
「……ゴルゴか」
「ええ、愛しい人。さあ、口づけを……」
リリスが勝利を確信し、目を閉じた瞬間。
バシィッ!!
乾いた、しかし骨を砕くような重い音が響いた。
レオニダスが、妻の頬を、全力の平手打ちで吹き飛ばしたのだ。
「きゃあっ!?」
リリスは数メートル吹き飛び、麦畑に無様に転がった。
何が起きたのかわからない。愛する妻を、躊躇なく殴った?
「……誰だ、貴様」
レオニダスの目から、穏やかさが消え失せていた。
そこにあるのは、絶対零度の殺意と、王としての威厳。
「本物のゴルゴなら、俺が戦いを放棄すると言った瞬間、鼻の骨が折れるほど殴ってくるはずだ」
レオニダスは、偽物を冷酷に見下ろした。
「あいつは俺を送り出す時、こう言った。『盾を持って帰れ、さもなくば盾に乗って帰れ』と。俺が戦場から逃げ帰ることなど、死んでも許さん女だ。……それがスパルタの女だ」
彼は右手に槍を具現化させた。
「俺の記憶を覗いたか? だとしても浅いな。貴様の演技は、スパルタの三流の踊り子以下だ」
「ひっ……!」
「それに」
レオニダスは、夕日の向こうを指差した。
そこには、テルモピュライで散っていった三百人の部下たち、そしてこれから倒すべき敵たちの幻影が並んでいた。
「俺の安息は、ここ(女の腕の中)にはない。奴らと共に在る戦場にしかないのだ」
夢の世界が音を立てて崩壊を始める。
レオニダスの強烈すぎる「自我」と「誇り」が、リリスの魔法領域を内側から食い破ったのだ。
空が割れ、巨大な青銅の盾がメテオのように降ってくる。
「消え失せろ、化け物。俺の妻の名を騙るな!」
「いやぁぁぁぁぁッ!!」
リリスは、精神を引き裂かれる激痛と共に、夢の世界から弾き出された。
現実世界。
リリスは、野営地の真ん中で白目を剥いて泡を吹いていた。
精神崩壊。
逆に心を折られたのは、夢を操るサキュバスの方だった。
「……ん? なんだこの女は」
レオニダスが目を覚まし、大あくびをしながら足元の女に気づいた。
「腹が冷える格好だな。風邪を引くぞ」
アステリオスも起きてきた。
「王よ、変な夢を見ました。女たちが筋トレの邪魔をするのです。不愉快でした」
セラフィナも起き上がり、肩を回した。
「私もです。王子と名乗る軟弱男を、一晩中シゴいていました。おかげで寝覚めが良いです」
どうやら、全員がそれぞれの方法で悪夢(誘惑)を撃退したらしい。
スパルタ兵の精神構造は、「戦い」「筋肉」「規律」の三本柱で強固に補強されており、色欲や安楽が入り込む隙間は物理的に存在しなかったのだ。
ミナだけが、青ざめた顔でリリスを指差した。
「こ、この人……魔王軍四天王の『夢魔のリリス』ですよ!? なんで泡吹いて気絶してるんですか!?」
レオニダスは、興味なさそうにリリスをつついた。
「夢魔? ああ、昨夜の五月蝿いハエか。弱すぎて気づかなかった」
彼はリリスを荒縄で縛り上げ、荷台に放り込んだ。
「捕虜にする。魔王城への案内役に使えるだろう。……起きなければ、黒いスープを飲ませてやれ。一発で目が覚める」
朝日が昇る。
レオニダスは、清々しい顔で号令をかけた。
「よし、総員点呼! 今日もいい天気だ! ランニングから始めるぞ!」
「ウー! ハー!」
スパルタ兵たちは、何事もなかったかのように隊列を組み、走り出した。
荷台の上で、リリスだけがうなされていた。
「……もう嫌……マッチョ怖い……筋肉怖い……」
精神攻撃無効(パッシブスキル:脳筋)。
スパルタの壁は、物理だけでなく、精神においても鉄壁だった。
一行は、魔王城の見える場所まで到達していた。
次なる敵は、魔法最強の賢者。
だが、彼らが恐れることはない。なぜなら、彼らには「筋肉」という最強の魔法があるのだから。
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