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第3話:スパルタ×衣川の戦い 〜弁慶と矢を愛する者たち〜

紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。


 空が暗くなった。雲ではない。ペルシア軍が放った数万の矢が、太陽を覆い尽くしたのだ。

 死の暴雨が降り注ぐ直前、スパルタの兵士ディエネケスは、隣に立つ王レオニダスに笑いかけた。


「王よ。ペルシアの矢は太陽を隠すそうです」

「それはいい」

 レオニダスは兜の目庇まびさしを上げ、薄暗くなる空を見上げた。


「涼しい日陰で戦える」

 ヒュルルルル……!

 矢の雨が落ちてくる。だが、スパルタ兵たちは盾を頭上に掲げ、亀甲陣テストゥドを組んでそれをやり過ごす。


 青銅の盾を叩く雨音が、途切れることなく続く。

 だが、その音が不意に変わった。


 カン、カンという乾いた金属音が、湿った、肉に突き刺さるような重い音へと変質する。

 そして、乾燥した熱気が、湿り気を帯びた霧へと変わった。


「……総員、構えを解け」

 レオニダスが命じると、兵たちは盾を下ろした。

 矢の雨は止んでいた。


 代わりに彼らを包んでいたのは、乳白色の濃霧と、川のせせらぎだった。

 足元には、綺麗に掃き清められた白砂利と、木造の渡り廊下のような板敷き。


「またか」

 レオニダスは嘆息した。神々はよほど、彼らに安息を与える気がないらしい。


 霧の向こうから、一人の男の怒号と、無数の弦鳴りの音が聞こえてくる。


「近寄るなァ! ここより先は、冥府魔道と心得よォッ!」

 その声には、数千の敵を一人で支える者の、悲壮な覚悟が満ちていた。


◇◇◇


 文治五年閏四月三十日。奥州平泉、衣川館。


 藤原泰衡の軍勢、五百騎。

 対する守備兵は、たったの一人。


 武蔵坊弁慶は、主君・源義経が籠もる持仏堂の前の橋に、仁王の如く立ちはだかっていた。


「我が君、どうか安らかに……」

 堂内からは、読経の声が微かに聞こえる。義経は今、自害の支度をしている。


 その時間を稼ぐこと。それが弁慶に残された最後の使命だった。

 敵兵は、弁慶の薙刀なぎなたを恐れて近寄らない。代わりに、遠巻きに矢を射かけてくる。


 ドスッ、ドスッ。

 鎧の隙間、腕、足に、容赦なく矢が突き刺さる。

 弁慶は巨大な体を揺らしながらも、決して膝をつかなかった。


 全身から血を流し、黒い法衣は赤く染まっている。それでも彼は、薙刀を杖代わりにし、目を剥いて敵を睨みつけた。


「来い! もっと近づいて来い! この弁慶が骨まで噛み砕いてくれるわ!」

 だが、視界が霞む。


 失血と疲労で、意識が飛びそうだ。

 あと少し。あと少しだけ、殿のために時間を……。


 次の矢の斉射が来る。死の黒い雨が、弁慶の巨体を針山に変えようとした、その時だった。

 堂の周囲に立ち込めていた朝霧が、風もないのに裂けた。


 弁慶の視界に、あり得ないものが映り込んだ。

 朱色のマント。半裸の肉体。そして、異国の巨人が構える、見たこともない丸い大盾。


 ガガガガガッ!


 弁慶に降り注ぐはずだった矢が、すべてその大盾によって弾き飛ばされた。


 弁慶は、痛みを忘れて呆然とした。

 目の前に、数百人の半裸の男たちが立っている。

 彼らは弁慶を取り囲むように円陣を組み、その巨大な盾で、完璧な防壁を築いていた。


「な、何奴だ……? 藤原の援軍か?」

 弁慶は薙刀を構え直そうとしたが、体が動かない。


 すると、集団の中から一人の男が進み出た。

 鶏冠とさかのついた兜を被り、弁慶に負けず劣らずの巨躯を持つ男――レオニダスだ。 



 レオニダスは、全身に矢を受けた弁慶の姿をじっと見つめた。

 針鼠のように刺さった矢。流れ落ちる血。だが、その足は大地に根を張った大木のように揺るぎない。 


「……見事だ」

 レオニダスは古代ギリシャ語で呟いた。


 言葉は通じない。だが、戦士の眼が、相手の格を見抜いていた。

 この兵は、背後の「神殿」を守るために、たった一人で矢の雨を浴び続けていたのだ。


 痛みを堪え、死を受け入れ、それでも倒れない。

 それはスパルタ人が最も尊ぶ、「退かぬ精神」の具現化だった。


「王よ」

 部下の一人が、弁慶の体に刺さった矢を見てニヤリと笑った。


「この男、我らと同じく『日陰』が好きなようですな」

「ああ。同志だ」

 レオニダスは弁慶に向かって頷き、自身の盾を叩いた。 

 そして、包囲する藤原軍へ向き直った。


「見ろ、あの貧弱な弓兵どもを。ペルシアの不死隊イモータルズにも劣る臆病者たちだ」

 遠巻きに矢を射るだけの敵。スパルタ兵にとって、それは最も軽蔑すべき対象だった。 


「教育してやれ。戦とは、肌と肌が触れ合う距離でするものだと」


 藤原軍の兵士たちは、突然現れた異形の集団に恐れおののいた。


「なんだあいつらは!? 化け物か!?」

「弁慶が妖術で鬼を呼び出したぞ!」

 指揮官が震える声で叫ぶ。 


 「怯むな! 鎧も着ていない裸の男たちだ! 矢で射殺せ!」

 数百の矢が放たれる。

 だが、スパルタ兵たちは笑っていた。


 「密集隊形(テストゥド)!」

 号令と共に盾が密着し、青銅の屋根が完成する。矢は虚しく弾かれ、地面に散らばる。


 そして、矢が止んだ瞬間、屋根が開いた。

「モロン・ラベ(来たりて取れ)!」

 スパルタ兵が一斉に投槍ジャベリンを放つ。


 剛速球のような槍が、弓兵たちの胸板を貫き、後方の騎馬までをも串刺しにする。

 悲鳴が上がる。安全圏からの攻撃しか考えていなかった藤原軍は、反撃を受けてパニックに陥った。


 その隙を、レオニダスは見逃さない。

 「押し潰せ!」

 ファランクスが前進する。橋の上の狭い空間は、スパルタ兵にとって最高の狩り場だ。


 盾で押し、槍で突き、盾の縁で殴る。

 一方的な蹂躙が始まった。

 その背後で、弁慶は震える手で薙刀を握りしめていた。


 目の前の男たちが、自分を守っている。

 言葉も通じぬ異国の鬼たちが、我が君の最期の時間を、命がけで稼いでくれている。


「……かたじけない」

 弁慶の目から、血の混じった涙が流れた。


 もはや加勢する力は残っていない。

 だが、彼らの戦いぶりを見ているだけで、力が湧いてくる。

 (それがし)も、最期まで立っていよう。

 あの漢たちのように。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。

 堂内から、重い音がした。義経が自刃し、その首を家臣が落とした音だろう。


 静寂が訪れた。

 藤原軍は、スパルタ兵のあまりの強さに恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていた。


 レオニダスは血振るいをし、槍を収めた。

 そして、ゆっくりと振り返る。

 そこには、一人の男が立っていた。


 武蔵坊弁慶。

 全身に無数の矢を受け、薙刀を杖にし、仁王の如く大地を踏みしめていた。


 その目は見開かれ、敵を威嚇したまま――

 だが、その胸は動いていなかった。


「……死んでいます」

 部下が静かに告げた。


 立ったまま、死んでいる。

 魂が抜けてなお、肉体が倒れることを拒絶したのだ。主君を守るという執念が、死すらも凌駕して体を支えていた。


 レオニダスは兜を脱ぎ、その場に跪いた。

 スパルタの王が、他国の戦士に膝を屈して敬意を表す。それは最大級の賛辞だった。


「見よ、スパルタ人たちよ」

 レオニダスは静かに、だが力強く語りかけた。


「これぞ戦士の最期だ。我らがテルモピュライで目指したものが、ここにある」

 三百人の男たちが、一斉に盾を鳴らした。


 ガン、ガン、ガン!


 それは鎮魂歌であり、勇者への喝采だった。

 やがて、朝霧が再び彼らを包み込む。

 霧が晴れた後、そこには弁慶の遺体だけが残されていた。


 だが、その足元には、一本の青銅の槍と、赤いマントが供えられていたという。


◇◇◇

 

 平泉・中尊寺に伝わる古い絵巻物には、武蔵坊弁慶の立ち往生の姿が描かれている。

 だが、その足元には、本来そこにあるはずのない「深紅の布切れ」と、「異国の槍」が描かれていた。


 後世の修復家たちはこれを削除してしまったが、弁慶が最期まで一人ではなかったことを、当時の絵師だけは知っていたのかもしれない。


 衣川の底からは、今も時折、日ノ本の物とは異なる形状の折れた剣や槍が見つかるという。

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