第6話:スパルタ×女騎士(後編) 〜鉄の処女と覚醒の盾〜
東の空が白む頃、荒野に絶叫が響き渡った。
敵襲ではない。一人の女性の、魂の慟哭である。
「う、うぐっ……! ごふっ……!」
近衛騎士団長セラフィナ・フォン・ラインハルトは、地面に手をつき、激しくむせ返っていた。
彼女の目の前には、空になった木椀が転がっている。
中身は、スパルタ名物『メラース・ゾーモス(黒いスープ)』。
オークの肉と血、そして酢と塩だけで煮込まれた、魔界のヘドロのごとき流動食である。
「……食ったか」
レオニダスが、腕を組んで見下ろしていた。
「味はどうだ?」
「さ……最悪だ……」
セラフィナは涙目で睨み返した。
口内を鉄錆のような血の味と、強烈な酸味が蹂躙している。高貴な舌を持つ彼女にとって、それは拷問に近い食事だった。
「こんなものを……毎日食べているのか……?」
「毎日だ」
レオニダスは平然と答えた。
「美食は脂肪を生み、脂肪は怠惰を生む。このスープだけが、純粋な闘争本能と筋肉を育てるのだ。……吐くなよ。吐けばもう一杯だ」
セラフィナは必死に吐き気を飲み込んだ。
昨夜、彼女は誓ったのだ。プライドを捨て、強くなると。
ここで吐けば、騎士の名折れ。いや、スパルタの徒として認められない。
「よし。腹ごしらえは済んだな」
レオニダスは、足元に置いてあった巨大な荷物を放り投げた。
ズゥンッ! と重い音が響き、砂煙が舞う。
それは、スパルタ兵の装備――青銅の円盾と兜、そして槍だった。
「着けろ。それが今日からの、お前のドレスだ」
特訓は、単純にして過酷を極めた。
「走る」。ただそれだけだ。
だが、条件がある。
総重量三十キロを超えるスパルタ装備を身に着け、荒野の悪路を、三百人の男たちと同じペースで走るのだ。
「遅い! 遅れるな!」
アステリオスが怒号を飛ばす。
セラフィナは、歯を食いしばって走った。
重い。あまりにも重い。
彼女のミスリル鎧は魔法で軽量化されていた。剣も魔力で軽く振るえた。
だが、この青銅の塊は、重力という現実を容赦なく突きつけてくる。
「はぁっ、はぁっ……! 身体強化……!」
セラフィナが無意識に魔力を練ろうとした瞬間。
ガツンッ!
レオニダスが走りながら、槍の柄でセラフィナの兜を殴った。
「魔法を使うな!」
王が吠える。
「魔力に頼るな! 筋肉で走れ! 肺で呼吸しろ! 魔力が尽きれば終わる命など、戦場では無価値だ!」
「ぐっ……! 理不尽な……!」
セラフィナはよろめきながらも、体勢を立て直す。
彼女のプライドはずたずただった。
剣技も魔法も封じられ、ただの「重り」を背負わされた新兵扱い。
だが、彼女は気づき始めていた。
魔力を使わず、己の肉体だけで地面を蹴る感覚。
肺が焼けつくような苦しさの向こう側にある、生物としての生の鼓動。
(私は今まで……魔法という鎧を着て、本当の肉体を眠らせていたのか……?)
昼休憩。
セラフィナは泥のように倒れ込んだ。
王女エレナが、濡らした布を持って駆け寄る。
「セラフィナ! 大丈夫? お水よ」
「姫様……申し訳ありません、こんな無様な姿を……」
「ううん。……凄いわ」
エレナは、セラフィナの泥だらけの顔を拭きながら言った。
「今の貴女、宮廷にいた時よりも、ずっと強そうに見えるわ」
その言葉が、枯れかけた心に火を灯した。
まだだ。まだやれる。
セラフィナは震える足で立ち上がった。
レオニダスが、ニヤリと笑って盾を構えた。
「休憩終わりだ。次は『盾』の使い方を教えてやる。……死ぬ気で防げよ」
午後の訓練は、さらに暴力的だった。
レオニダスが槍で突きかかり、セラフィナが盾で防ぐ。
ただそれだけだが、レオニダスの突きは岩をも砕く威力がある。
ガギィン!
衝撃が骨に響く。セラフィナの体が吹き飛ばされる。
「違う! 受けるな! 流せ!」
レオニダスが怒鳴る。
「盾はただの壁ではない! 体の一部だ! 角度をつけろ! 衝撃を殺せ!」
セラフィナは何度も転がり、泥まみれになりながら立ち上がった。
彼女の剣術は「華麗に躱し、魔法剣で斬る」スタイルだった。
だが、スパルタの戦術は真逆だ。
「逃げない。避けない。正面から受け止め、ねじ伏せる」。
何百回目かの激突。
セラフィナは、無心で盾を突き出した。
レオニダスの槍が当たる瞬間、体を半歩踏み込み、盾の縁を敵の武器にぶつけるように弾いた。
カァン!
鋭い金属音と共に、レオニダスの槍が大きく逸れた。
「……ほう」
レオニダスが目を細めた。
今の動き。魔力による補助ではない。純粋な反射神経と、体重移動による「受け流し(パリィ)」だ。
「そうだ。それがスパルタの盾だ」
レオニダスは槍を収め、セラフィナに近づいた。
「盾は身を守るだけの道具ではない。敵の体勢を崩し、武器を破壊し、そして……」
彼は、目にも止まらぬ速さで盾を振るった。
寸止め。
セラフィナの鼻先数ミリで、青銅の塊が止まる。風圧で髪が舞う。
「殴り殺すための鈍器だ」
セラフィナはゴクリと喉を鳴らした。
魔法よりも速く、剣よりも重い、必殺の一撃。
(これが……本物の「武」……!)
その夜。
野営地に緊張が走った。
見張りのスパルタ兵が、敵襲を告げる指笛を吹いたのだ。
「来たか」
レオニダスは、焚き火を消させた。
闇の向こうから、殺気が滲み出してくる。
魔物ではない。訓練された人間の足音だ。
王女エレナを狙う、国内の反乱分子――「黒騎士団」の精鋭たちが追いついたのだ。
月明かりの下、黒い鎧を着た騎士たちが姿を現した。
その数、五十。
全員が魔法武器で武装した、対人戦闘のプロフェッショナルだ。
「見つけたぞ、エレナ王女。そして……裏切り者のセラフィナ団長もな」
黒騎士のリーダーが、歪んだ笑みを浮かべる。
彼は両手に二本の短剣を持ち、姿が揺らめいている。幻影魔法の使い手だ。
「……黒騎士団。ここまで追ってくるとは」
セラフィナが前に出る。
彼女は今、ボロボロのチュニックに、スパルタの重い盾と槍を持っている。かつての華麗な白銀の騎士の面影はない。
「なんだその格好は? 野良犬にでも落ちぶれたか?」
リーダーが嘲笑する。
「まあいい。全員殺せ! あの蛮族どももついでに始末しろ!」
黒騎士たちが、影のように散開し、襲いかかってくる。
「迎撃せよ!」
レオニダスの号令が飛ぶ。瞬時にスパルタ兵が円陣を組んだ。
だが、黒騎士たちは正面からは来なかった。魔法で姿を隠し、影から影へと移動し、背後や死角から毒の刃を突き立てようとする。
「卑怯な!」
セラフィナが叫ぶ。
彼女の目の前に、リーダーの幻影が現れた。
「隙だらけだぜ、元団長!」
背後からの実体攻撃。毒塗りの短剣が、セラフィナの首を狙う。
(魔法障壁を……!)
セラフィナは、反射的に防御魔法を唱えようとした。
だが、その刹那、レオニダスの言葉が脳裏をよぎる。
『魔力に頼るな。筋肉で反応しろ』
詠唱している暇はない。
間に合わない。
彼女は詠唱を破棄した。
思考を止め、体に染み込ませた「鉄の動き」に委ねた。
ガッ!!
セラフィナは振り返りざまに、背中の盾を全力で叩きつけた。
視界など関係ない。殺気を感じた方向に、質量のある壁をぶつける。
「ぐべっ!?」
空気を切るはずだった短剣が盾に阻まれ、リーダーの顔面が青銅に激突する。
ゴリリ、と鼻骨が砕ける感触が盾越しに伝わる。
幻影魔法が解け、実体が無様に転がる。
「な、なぜだ……魔法も使わずに……!」
リーダーが鼻血を流しながら呻く。
セラフィナは、重い盾を構え直し、冷ややかに見下ろした。
「魔法? 必要ない。お前の殺気は、この盾よりも重くない」
セラフィナの変化に、戦場の空気が変わった。
彼女はもはや、魔法に頼るひ弱な剣士ではなかった。
泥にまみれ、汗臭く、しかし鋼のように強靭な戦士がそこにいた。
「殺せ! 囲んで殺せ!」
黒騎士たちが、魔法の炎や氷を放ちながら殺到する。
セラフィナは退かない。
彼女は槍を捨て、腰の剣を抜く。それは愛用の魔剣ではない。スパルタ兵から借りた、無骨な鉄塊のような直剣だ。
「ウー! ハー!」
スパルタ兵たちの雄叫びが、彼女の背中を押す。
セラフィナもまた、腹の底から吼えた。
「ウオォォォォッ!!」
彼女は敵の集団に突っ込んだ。
魔法の炎が迫る。
彼女は盾を斜めに構え、炎の中を強引に突破した。
熱い。髪が焦げる。だが、止まらない。
「なっ!?」
魔法使いが驚愕する目の前まで肉薄し、盾の縁で顎をカチ上げる。
脳震盪を起こして倒れる魔法使い。
横から剣士が斬りかかる。
セラフィナは剣で受けず、自分の体をぶつけた。
タックル。
鍛え上げられた足腰が生み出す衝撃が、鎧ごしに敵を吹き飛ばす。
倒れた敵の喉元に、剣を突き刺す。
無駄がない。容赦がない。そして、美しくない。
だが、圧倒的に「強い」。
「ば、化け物か……!?」
黒騎士たちが恐怖に後ずさる。
かつての「麗しの騎士団長」は死んだ。
今ここにいるのは、スパルタの魂を宿した、一匹の雌獅子だ。
レオニダスは、その戦いぶりを見て、満足げに頷いた。
アステリオスに囁く。
「見ろ。あれが俺の弟子だ」
「はい。素晴らしい殴りっぷりです。もはや嫁の貰い手には困らないですね」
残った黒騎士たちは、スパルタ兵のファランクスに包囲され、殲滅された。
リーダーは、セラフィナの前に引きずり出された。
「く、殺せ……! だが、姫の命は必ず……」
セラフィナは、無言で剣を振り下ろした。
首が飛ぶ。
躊躇いも、感傷もない。敵を排除する。ただそれだけのこと。
彼女は血振るいをし、剣を納めた。
そして、レオニダスの前に立ち、直立不動の姿勢をとった。
泥と返り血で汚れた顔。乱れた赤髪。
だが、その瞳は宝石のように澄み切っていた。
「教官。敵の排除を完了しました」
レオニダスは、彼女の目を見た。
迷いがない。借り物の力に頼る弱さもない。
自分の足で立ち、自分の力で主君を守る覚悟が決まっている。
「……合格だ」
レオニダスは、自分の被っていた予備のマント――真紅のスパルタ・マントを外し、セラフィナの肩に掛けた。
「そのマントをやろう。お前はもう、魔法剣士ではない」
セラフィナは、マントを握りしめ、涙を堪えて答えた。
「はい。私は……スパルタの戦士です」
王女エレナが駆け寄ってくる。
「セラフィナ!」
セラフィナは跪き、王女の手を取った。
「姫様。もう魔法はお見せできませんが……この盾が砕けるまで、貴女をお守りします」
エレナは泣きながら、泥だらけの騎士を抱きしめた。
夜が明ける。
一行は再び王都へ向けて歩き出した。
その列の中に、真紅のマントを纏い、巨大な盾を背負った女戦士の姿があった。
後に「赤き盾の聖女」とも、「王都のバーサーカー」とも呼ばれることになる彼女の伝説は、ここから始まる。
だが、今の彼女が気にしているのは、一つだけだった。
「……今日の朝食も、あの黒いスープなのだろうか」
その問いに、スパルタ兵たちは満面の笑みで答えるのだった。
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