第10話:スパルタ×第二次ウィーン包囲 〜有翼の騎兵と不落の岩礁〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
ワーテルローの泥濘と硝煙の匂いが消え、世界が最後の変転を見せる。
レオニダスが目を開けた時、そこは乾いた大地の上だった。
だが、これまで見たどの戦場とも規模が違った。
眼前に広がるのは、壮麗なる大都市――ウィーン。
だが、その美しい都は今、茶色い「土の海」に溺れかけていた。
「……なんて数だ」
副官のアステリオスが、呆然と空を見上げた。
都市を取り囲む平原、丘、その全てが、白い天幕と、掘り返された塹壕で埋め尽くされている。
オスマン帝国軍、十五万。
三日月旗が風に波打ち、軍楽隊の太鼓とズルナの音が、地響きのように鳴り響いている。
対するウィーンの城壁は、穴だらけだった。
オスマン軍の坑夫が地下を掘り進み、巨大な地雷で城壁を吹き飛ばしているのだ。
崩れた瓦礫の山で、守備兵たちが必死の白兵戦を繰り広げている。
「コンスタンティノープルの時と同じ匂いだ」
レオニダスは鼻を鳴らした。
「腐った羊肉と、火薬、そして欲望の匂い。……あの都は『黄金の林檎』か。随分と虫が湧いている」
レオニダスは、戦場の配置を一瞥した。
都は虫の息だ。あと数時間もすれば落ちるだろう。
だが、北西の丘陵地帯――カーレンベルクの山頂に、微かな希望の光が見えた。
森の中から、きらりと光る金属の輝き。
援軍だ。
「行くぞ。どうやら、あのお高い山の上から、派手な連中が降りてくるらしい」
レオニダスは槍を担いだ。
「俺たちはその『受け皿』になってやろう」
西暦1683年9月12日。ウィーン郊外、カーレンベルクの丘。
ポーランド・リトアニア共和国国王、ヤン3世ソビエスキは、愛馬の鞍上で眼下の敵陣を見下ろしていた。
彼は「レヒスタンの獅子」の異名を持つ、稀代の英雄である。
彼が率いるのは、ドイツ諸侯とポーランド軍からなる連合軍、総勢八万。
その中核を成すのが、ポーランドが世界に誇る最強の騎兵、「有翼重騎兵」だ。
彼らは異様な姿をしていた。
全身をプレートアーマーで覆い、背中には木枠に鷲の羽根を飾った巨大な「翼」を背負っている。
手にするのは、体長よりも長い、5メートルを超える超長槍。
豹や虎の毛皮をマントのように羽織り、その姿は戦場の悪魔か、あるいは天使のようだった。
「陛下! オスマン軍がウィーン城壁に総攻撃をかけています! 今すぐ突撃を!」
伝令が叫ぶ。
ソビエスキは、太った体躯を揺らし、髭を撫でた。
「慌てるな。機を待つのだ」
騎兵の突撃には、助走とタイミングが命だ。
敵が歩兵戦に夢中になり、背後への備えがおろそかになった瞬間。
太陽が西に傾き、我々の背後から敵を照らし、目眩ましとなる瞬間。
「……今だ」
午後四時。太陽が傾いた。
ソビエスキはサーベルを抜き放った。
「全軍、突撃せよ! 神は我らと共にあり!」
その号令は、雪崩の引き金だった。
三千のフサリアを含む、総勢一万八千の騎兵隊が、カーレンベルクの急斜面を一気に駆け下りた。
歴史上、最大規模の騎兵突撃。
翼が風を切り、ヒュオオオオオ……という独特の風切り音が、数千の重なりとなって不気味な唸りを上げる。
それは、物理的な「嵐」となってオスマン軍の側面に襲いかかった。
オスマン軍はパニックに陥った。
背後の山から、翼の生えた鉄の怪物が、雪崩のように落ちてくるのだ。
「アッラー! 悪魔だ! 悪魔が空から降ってきた!」
大宰相カラ・ムスタファ・パシャは、慌てて予備隊を差し向けたが、フサリアのランス(コピア)は、オスマン兵の盾も鎧も、二人まとめて串刺しにするほどの威力があった。
一方、戦場の最前線。
オスマン軍の塹壕線の中で、奇妙な事態が起きていた。
突撃の経路上に、三百人の歩兵集団が居座っていたのだ。
スパルタ兵たちだ。
彼らはオスマン軍の前衛部隊と乱戦を繰り広げ、敵を押し込み、結果としてフサリアの突撃ルート上に「孤立した島」のように残ってしまった。
「王よ! 後ろから来ます!」
アステリオスが絶叫する。
背後から迫る、一万八千の騎兵の波。
地響きで立っていられないほどの震動。翼が奏でる死の旋律。
味方だ。援軍だ。
だが、勢いのついた重騎兵は急には止まれない。ましてや、敵(オスマン兵)の中に混じっているスパルタ兵など、踏み潰して進むしかない。
「……見事な騎兵だ」
レオニダスは、迫りくる死の翼を見て、恍惚とした表情を浮かべた。
速い。重い。美しい。
ペルシアの騎兵も、ローマの騎兵も、モンゴルの騎兵も見たが、これほどの「破壊力」を可視化した軍団は見たことがない。
「避けますか!?」
「馬鹿を言え! ここで退けば陣形が崩れる! オスマンの犬どもに背中を見せることになるぞ!」
レオニダスは、瞬時に決断した。
止まらないなら、受け止めるまで。
それが最強の盾を持つ者の礼儀だ。
「総員、後方へ回れ(反転)! 衝撃に備えろ!」
スパルタ兵が一斉に振り返る。
目の前には、白い翼と鋼鉄の壁が、時速数十キロで迫っている。
「来るぞ! テストゥドではなく、ファランクスだ! 地面に根を張れ!」
レオニダスが盾を構え、地面に踵を打ち込んだ。
三百人が一つの岩となる。
ポーランド王ソビエスキは、突撃の最中で目を見開いた。
前方の土煙の中に、赤いマントの一団がいる。
退かない。逃げない。
味方か? だが、止まれない。
「轢き潰せ! 止まるなァッ!」
フサリアの切っ先が、スパルタの盾に到達した。
ズドオォォォォォン!!
爆発のような衝突音。
世界最強の貫通力を誇るコピアが、世界最強の防御力を誇るスパルタのファランクスに激突した。
バキキキッ!
コピアが砕け散る。
だが、その運動エネルギーは凄まじかった。
スパルタ兵の隊列が、数メートル後ろへズザザザッ! と押し下げられる。
足が地面を耕し、土煙が舞う。
骨がきしむ。筋肉が悲鳴を上げる。
だが、彼らは「転ばなかった」。
「ぬぅぅぅぅッ!」
レオニダスは、盾に突き刺さった槍の残骸をへし折りながら、仁王立ちしていた。
馬が驚いて棹立ちになる。
後続の騎兵たちが、急制動をかけ、あるいは左右に分かれていく。
奔流が、巨大な岩にぶつかって割れたのだ。
「止めた……だと!?」
先頭を駆けていたフサリアの騎士が、兜の下で驚愕した。
城壁すら貫く我らの突撃を、生身の人間が受け止めたというのか。
レオニダスは、痺れた腕を振るい、馬上の騎士を見上げた。
そして、ニヤリと笑った。
「いい衝撃だ。ペルシアのサイよりも重かったぞ、鳥男」
騎士は、その不敵な笑みを見て、戦慄と同時に奇妙な親近感を覚えた。
こいつらは何だ?
天使か? それとも、戦場の神が置いた道標か?
レオニダスは、槍を前方に――混乱するオスマン軍の方角へ向けた。
そして、盾をバンと叩いた。
『道は作った。あとは好きに通れ』。
騎士は理解した。
彼は折れた槍を捨て、サーベルを抜いた。
「感謝する、赤き巨人よ! 続け! 異教徒を蹴散らせ!」
フサリアの波が、スパルタ兵の左右をすり抜け、再び加速していく。
一度停止したことで、むしろ隊列が整い、第二波の突撃力が増していた。
そこからは、一方的な蹂躙劇だった。
再加速したフサリア軍団は、オスマン軍の陣地を紙細工のように粉砕していった。
大宰相カラ・ムスタファは命からがら逃亡し、オスマン軍は壊滅した。
スパルタ兵たちもまた、騎兵の後を追って走った。
「置いていくな! 足なら負けんぞ!」
アステリオスが叫びながら、落ち武者を槍で突き伏せる。
馬上のフサリアと、地上のスパルタ。
翼を持つ者と、マントを持つ者。
二つの最強が並走し、ウィーンの夕日を背に、敵を追い詰めていく。
戦いが終わり、夜が訪れた。
略奪されたオスマン軍の豪華な天幕の中で、ソビエスキ王は勝利の美酒に酔っていた。
彼は、先陣を切った騎士団長から、「不思議な歩兵」の報告を受けた。
「突撃を受け止めた歩兵だと? 馬鹿な、そんな人間がいるはずがない」
「しかし陛下、確かにいたのです。赤いマントの裸の男たちが。彼らは我々の槍をへし折り、笑っていました」
ソビエスキは、興味深そうに顎髭をさすった。
「……古の伝説にある、スパルタの戦士か? 神が我らに遣わした守護天使かもしれんな」
王は天幕を出て、戦場を見渡した。
だが、そこには既に彼らの姿はなかった。
ただ、フサリアの突撃を受けた地点に、奇妙な痕跡が残っていた。
地面が深くえぐられ、数百の足跡が化石のように刻まれていたのだ。
一歩も退かなかった証。
霧が晴れていく。
アテナの加護が解け、レオニダスたちは光の中へと帰還していく。
世界中の戦場を巡る旅は、ここで終わる。
彼らの魂は、十分に満たされていた。
「……満足か、王よ」
アステリオスが問う。
レオニダスは、ボロボロになった盾を愛おしそうに撫でた。
表面には、黒曜石の傷、銃弾の痕、そしてフサリアの槍の一撃。
世界中の強敵たちが刻んだ、最高の寄せ書きだ。
「ああ。悪くない旅だった」
レオニダスは笑った。
「だが、そろそろ家に帰るとしよう。妻のゴルゴが待っている」
第二次ウィーン包囲。
西洋世界を守ったこの戦いの後、フサリアの名声は頂点に達した。
だが、ポーランドの古い軍歌には、失われた一節があるという。
『翼ある騎兵の前には、赤き岩があった。岩は割れず、ただ笑い、我らに道を譲った』
最強と最強がぶつかり合い、そして認め合った一瞬の奇跡。
その記憶だけを残し、スパルタの戦士たちは歴史の幕間へと消えていった。
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