第9話:スパルタ×ワーテルローの戦い 〜皇帝の衛兵とクソ食らえ〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
アステカの湖上の湿気が消え、レオニダスは再び冷たい風を感じた。
だが、今度の場所は空気が重い。
焦げた硫黄の匂いと、血と泥の腐臭が混じり合った、鼻が曲がりそうな悪臭だ。
目を開けると、そこは緩やかな丘陵地帯だった。
空は厚い雲に覆われ、昨夜までの雨で地面は酷くぬかるんでいる。
足を踏み出すと、くるぶしまで泥に沈む。
「……また泥か」
副官のアステリオスが、不快そうに靴の泥を払った。
「北の森を思い出しますね。だが、あの時よりもうるさい」
ドオォォォン! ドオォォォン!
雷鳴のような轟音が、心臓の鼓動をかき消すように響き続けている。
視界の先には、青い服を着た軍勢と、赤い服を着た軍勢が、地平線を埋め尽くして激突していた。
豆を煎るような乾いた破裂音と、白い煙が戦場を覆っている。
レオニダスは、戦場の中央、小高い丘の上に立つ一団に目を留めた。
彼らは紺色の軍服を着て、背の高い熊の毛皮の帽子を被り、直立不動で立っていた。
その背中からは、圧倒的な威圧感と、それ以上に濃密な「終わりの気配」が漂っていた。
「……見ろ」
レオニダスは彼らを指差した。
「あの奇妙な帽子を被った連中。いい目をしている」
周囲の味方が敗走し、敵が迫りくる中でも、彼らだけは微動だにしていない。
死を受け入れ、その上で義務を果たそうとする、プロフェッショナルの目だ。
「気に入った。どうやらあそこが、この戦場の『へそ』らしい」
レオニダスは槍を担ぎ、泥の坂を登り始めた。
「行くぞ。あの立派な帽子の男たちに、スパルタ式の敬礼をしてやろう」
1815年6月18日。ベルギー、ワーテルロー。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの「百日天下」は、今まさに終わろうとしていた。
ウェリントン公爵率いるイギリス・オランダ連合軍と、ブリュッヘル率いるプロイセン軍の挟撃により、フランス軍は崩壊しつつあった。
「陛下! 退却を! ここも危険です!」
参謀が叫ぶ中、ナポレオンは蒼白な顔で戦場を見つめていた。
残された手駒は、虎の子の「老近衛隊」のみ。
数々の戦場を勝利で飾り、不敗神話を誇った皇帝の親衛隊。
だが、彼らを投入しても、もはや戦況は覆せないだろう。
「……彼らに、死ねと命じるのか」
ナポレオンは呻いた。
だが、近衛隊の兵士たちは、皇帝の命令を待たずに整列を始めていた。
彼らは平均身長180センチを超える巨漢揃い。二十以上の戦場を生き抜いた歴戦の古兵たちだ。
彼らは無言で、迫りくるイギリス軍の騎兵隊と、プロイセン軍の歩兵の大波に向かって、方陣を組み始めた。
「皇帝万歳!」
彼らは叫ばない。ただ静かに、銃剣を着剣する。
カチャリ、という金属音が揃う。
それは、帝国の葬送曲の始まりだった。
イギリス軍の指揮官ウェリントンは、望遠鏡でその様子を見ていた。
「あの部隊は降伏しないだろう。……砲撃で粉砕せよ」
無慈悲な命令が下る。
だが、砲弾が降り注ぐ直前、近衛隊の陣形に異変が起きた。
泥の中から湧き出るように、真っ赤なマントの集団が現れ、近衛隊の方陣に割り込んだのだ。
近衛隊の連隊長カンブロンヌ将軍は、目を疑った。
整然とした方陣の隙間を埋めるように、半裸の男たちが並んでいる。
古代の兜。巨大な円盾。そして、銃剣よりも遥かに長い槍。
「貴様らは何だ! どこから入った!」
カンブロンヌが叫ぶ。
レオニダスは、カンブロンヌの巨大な熊皮帽を見上げ、自分の兜の鶏冠を指差した。
『いい帽子だな。俺のと交換しないか?』
そんなジェスチャーをして、ニヤリと笑った。
カンブロンヌは呆気にとられたが、すぐに気を取り直した。
敵ではない。彼らの盾は外を向いている。
そして、その筋肉は、どんな軍服よりも雄弁に「歴戦」を物語っていた。
「……援軍か。グルーシ元帥の到着にしては、随分と身軽な格好だが」
カンブロンヌは苦笑し、部下たちに命じた。
「入れ! この裸の男たちを前列へ! 我々はその隙間から撃つ!」
奇妙な混成部隊が完成した。
青い軍服の老近衛隊と、赤いマントのスパルタ兵。
マスケット銃と、青銅の槍。
ナポレオン戦争の最先端と、古代ギリシャの遺物が、一つの方陣となった。
「来るぞ! 騎兵だ!」
地響きと共に、イギリス軍の竜騎兵と、スコットランド騎兵が突撃してくる。
サーベルを振りかざし、泥を蹴立てて迫る重騎兵の波。
レオニダスは、迫りくる騎兵を見て鼻を鳴らした。
「装飾過多な連中だ。ペルシアの親衛隊気取りか?」
彼は部下たちに号令をかけた。
「スパルタ人! この着飾った人形どもに教えてやれ! 馬の止め方をな!」
イギリス騎兵の突撃は、凄まじい衝撃を伴って方陣に激突した。
だが、方陣は崩れなかった。
ドガァァァン!
馬の胸が、スパルタ兵の盾にぶつかる。
普通なら歩兵が吹き飛ぶところだ。だが、スパルタ兵は地面に根が生えたように動かない。
そして、盾の隙間から突き出された長槍が、馬の心臓を一撃で貫いた。
「ヒヒィン!」
馬が嘶き、乗り手が前方に放り出される。
そこへ、老近衛隊の銃剣が殺到する。
グサッ!
落ちた騎兵を、的確に処理していく。
「撃てェッ!」
カンブロンヌの号令。
スパルタ兵の肩越しに、マスケット銃が一斉射撃を行う。
ズドン! ズドン!
至近距離からの鉛玉が、後続の騎兵をなぎ倒す。
「リロード(再装填)!」
近衛兵が弾を込める間、スパルタ兵が盾を掲げ、敵のカービン銃やピストルの弾を防ぐ。
カン、カン、キン!
青銅の盾が火花を散らす。
銃弾ですら貫通できない(アテナの加護付きの)盾。それが、近衛隊にとって最強の防壁となった。
「素晴らしい……!」
ナポレオンは、遠くからその光景を見て震えた。
「あの方陣はなんだ? 古代のファランクスと、近代の火力が融合している! あれこそ、余が求めた理想の軍隊だ!」
イギリス軍のウェリントン公爵も、焦りの色を隠せなかった。
「あの方陣は壊せないのか!? 騎兵が波のように砕かれているぞ!」
「閣下! あの赤いマントの男たち、銃を撃っても倒れません! 悪魔です!」
戦場の中心で、レオニダスは笑っていた。
騎兵の突撃を受け止め、投げ飛ばし、突き殺す。
泥まみれの乱戦こそ、スパルタの華だ。
「どうした、赤服の蛮族ども! 馬の上からなら勝てると思ったか!」
アステリオスが、落馬した竜騎兵の首根っこを掴み、盾で殴り飛ばす。
「王よ! こいつらの帽子、フカフカで気持ちいいです!」
「戦利品にするには嵩張るな。置いていけ」
老近衛隊の兵士たちも、スパルタ兵の勇猛さに感化されていた。
「負けてたまるか! あの裸の連中に笑われるぞ!」
「皇帝万歳!」
彼らは弾切れになれば銃床で殴り、銃剣が折れれば拳で戦った。
だが、衆寡敵せず。
プロイセン軍の増援が到着し、フランス軍は完全に包囲された。
方陣は孤立し、四方八方から砲撃と銃撃を浴びせられた。
スパルタ兵の盾も砕け、近衛兵の数も減っていく。
イギリス軍の将校が、白旗を掲げて近づいてきた。
「勇敢なるフランス兵よ! 君たちは十分に戦った! 降伏せよ!」
戦場に一瞬の静寂が訪れた。
カンブロンヌ将軍は、泥と血にまみれた顔を上げ、レオニダスを見た。
レオニダスは、肩をすくめた。
『降伏? その言葉の意味を俺は知らん』という顔だ。
カンブロンヌはニヤリと笑い、イギリス軍に向かって叫んだ。
歴史に残る、最後の一言。
「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!(La Garde meurt, elle ne se rend pas!)」
その瞬間、レオニダスも呼応した。
「モロン・ラベ(来たりて取れ)!」
ドオォォォォン!!
イギリス軍の砲列が一斉に火を噴いた。
無慈悲な砲撃が、方陣を直撃する。
爆煙と土砂が舞い上がり、誇り高き近衛兵と、最強のスパルタ兵たちを飲み込んでいく。
レオニダスは、爆風の中で笑っていた。
これだ。この理不尽な暴力、圧倒的な死の量。
これこそが、俺たちが求めていた「最期」に相応しい。
「行くぞ、野郎ども! 地獄の皇帝に挨拶しにな!」
アテナの迎え――転移の光が、爆発の閃光と重なる。
スパルタ兵たちは、砲弾の雨の中で、光の粒子となって消えていった。
砲撃が止んだ後、そこには累々たる死体の山があった。
だが、近衛隊の旗手は、死してなお旗を離さず、倒れていた。
そして、その周囲には、奇妙なものが散乱していた。
ひしゃげた青銅の盾の破片。そして、近代の銃剣とは明らかに異なる形状の、折れた槍先。
ナポレオンはセントヘレナ島への流刑地で、回顧録にこう残そうとしたという。
『ワーテルローの最後。余の近衛隊の中に、古代の神々が混じっていたのを見た気がする。彼らこそ、余の夢見た最強の歩兵であった』
だが、その記述は「皇帝の妄想」として、歴史の表舞台に出ることはなかった。
ただ、ワーテルローの古戦場から出土する遺物の中に、時折、時代に合わない青銅片が見つかることは、考古学者たちの密かな謎となっている。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




